第6話

 父親が亡くなったのは、すみれが生まれて間もない頃だったらしい。もの心着いてからの菫にとっての家族は、いつも不機嫌な顔をしている母親と祖母だけだった。持病のある母の代わりに祖母が菫の面倒を見てくれた時期もあったが、祖母も早くに亡くなり、中学に上がった頃から菫は家事を担うことになった。

「お父さんのせいで私は不幸になったのよ」

 それが母の口癖だった。家にいる時は大抵機嫌きげんが悪く、些細なことで菫を罵倒した。暴力こそ振るわれなかったが母の言葉は辛辣で、菫はいつもびくびくしながら毎日を過ごしていた。父は借金を残して死んだわけではなく、暮らしていくには困らなかった筈だが、お嬢様育ちの母には質素な生活が耐えられなかったようだった。

 プライドの高い母は、菫が大学に進学することは阻まなかった。奨学金を借り、アルバイトをしながら六年の課程を終えて、薬剤師の資格を得た時にはとても喜んでくれた。就職が決まったとき親戚との電話で「小さな病院なんだけどね」と言いながらも誇らしげな口調であるのを感じて、菫は嬉しかった。

 友達と遊ぶことが無かったので、菫はいつも一人だった。気の利いた会話が出来ない菫を、周りの人たちは居ないもののように扱った。菫は人と接するのが怖かった。

 病院の薬局に就職しても、それは変わらなかった。自分だけが不幸なように思えて、菫は笑うことが出来なくなっていた。

 そんな時「アカさん」に出会った。内科の看護師である彼女の笑顔は、側にいるだけで人を幸せにした。羨ましい、そう思った。自分とは違う世界の人。きっと神様に愛された人なのだと思った。

 アカさんが幼い頃に両親を亡くしていることを聞いたのは、知り合って一か月ほど経った頃だった。祖父母の元で育ち、介護を経て祖父母を見送り、今は一人なのだという。菫は驚いた。辛い経験をしてなお、何故そんなに人に優しくできるのか。何故そんなに優しい笑顔でいられるのか。

 そう問うた菫に、アカさんは笑って答えた。私だって大して強くない。泣くことも沢山あった。でも自分の機嫌は自分でとるものよ、他人のせいにしちゃいけない。

「好きな歌があってね。重い荷物は背中に背負えば両手が自由になるから、その手で誰かを支えられたらいいね。そんな歌詞。……だから、私は看護師になったの」

 それから二人は急激に仲良くなった。アカさんは菫にとって先輩であり姉であり、そして憧れの人となった。結婚式の二次会で見たアカさんは、輝くように美しかった。


「こんな毎日が続くのなら、もう死んじゃいたい」

 十一月に入ったばかりの、妙に肌寒い日だった。いつもの母の愚痴。菫はふと、この人は何が不満なのだろうと思った。

 つい疑問をつい口に出してしまった菫を、母は憎しみを込めた眼で睨み付けた。

「いつから口答えするようになったの。就職したからって偉そうに、何様のつもり。私が不幸なのはお父さんと、出来の悪い娘のせいよ」

 その後は聞くに堪えない罵倒ばとうが続き、母は最後にこう言った。

「薬局に毒薬があるでしょう。盗んできなさいよ。そして食事に盛ればいい。私が死ねば満足でしょう」

 勝ち誇ったように薄笑いすら浮かべる母の視線を避け、菫は黙って顔を伏せた。


 先輩から劇薬指定の薬を取ってくるよう言われて、菫は鍵のかかった棚の鍵を開けた。目的の薬がある棚のひとつ上に、毒薬に指定されている薬のびんが並んでおり、その中に古ぼけた小さな黒い瓶があった。無意識に手を伸ばし、菫は瓶を手に取った。黒字に丸い白枠が描かれた中に『毒』の文字。品名は『アコニチン』。

 何故こんな物が。戸惑とまどう菫の後ろから「遅い!」と声が掛かった拍子に、菫は瓶を取り落とした。小さな黒い瓶は棚の隙間すきまを転がり、奥に入って見えなくなってしまった。あわててしゃがみ込んだ菫の後ろから手が伸び、劇薬の瓶をつかみ取るのが見えた。

「何ボーッとしてるんだ。これだろ。どうした、貧血か?」

 大丈夫かと問われて、菫は「すみません」と答えて立ち上がった。

「最近忙しかったからなあ、無理すんなよ」

 先輩の職員はさっさと棚の鍵を閉め、菫の腕をつかんで薬品庫から連れ出した。

 何故すぐに薬局長に報告しなかったのだろう。叱られるのが怖い、ただそれだけの下らない理由だった。尊敬する薬局長から、母のような罵倒を聞くのが怖かった。

 あの時ちゃんと報告しておけば。菫は後に何度も自分を責めることになった。


「アスピリン貰って行くわね。後でオーダー掛けるから」

 アカさんが薬品庫に入るのを見て、菫は何となくその姿を追った。今日はまだ挨拶をしていない。「おはようスミレちゃん」と言うアカさんの笑顔が見たかった。

 ドアを開けた時、床にしゃがんでいるアカさんの姿が見えた。その手のなかにある小さな瓶を見て、菫は固まった。アカさんは黒い瓶を不思議そうにかざした後、棚の上に置こうとした。

「アカさん、どこですか?」

 部屋の外から声がした。

「はーい」

 アカさんは慌ててアスピリンをつかみ、黒い瓶と一緒にポケットに入れた。


 ホワイトボードの落書きが発見されたとき、人ならぬものからのメッセージだと思った。あれは私のせいだ。だから、あの字を誰かが『スミレ』と読んだ時、それでいいと思った。きっと天罰が下ったのだ、そう感じた。

「もちろん君じゃないって信じてるよ。でもねえ、このままだと院内に不信感が広がるでしょう。雰囲気も悪くなるから。ここは、一身上の都合と言う事で頼むよ」

 人事の人は笑いながら、そう言った。

 薬局を辞めたと伝えると、母は激怒した。情けない、みっともない。菫を散々罵倒したあと、母はまた自分をあわれんだ。何故私はこんな目にあわされるの? 何も悪いことをしていないのに。お父さんとあんたのせいで、私は不幸なのよ。と。


 母が亡くなったのは、五月も半ばの暖かい日だった。

 異常死ということで、遺体は検死解剖けんしかいぼうに回された。死因は毒物を摂取したことによる中毒死。血液からアルカロイドが検出された。ヤマトリカブトの誤食によるものと思われます。警察からはそう言われた。

 菫の家の近くには小さな森がある。鳥兜とりかぶと伶人草れいじんそうもたくさん自生しており、毎年秋になると綺麗な花を咲かせる。菫の好きな彼岸花と同じく毒がある花だが、そう思うと余計に美しく感じられた。

 本当に誤食なのだろうか。母は自ら命を絶ったのではないか。毒物を使ったのは、菫を苦しめるためではないのか。いや、もしかしたら菫が母を疎ましく思う気持ちを察知した何か得体のしれないものが手を下したのかもしれない。

──これで満足だろう。

 そんな幻聴が聞こえた。


 葬儀の手配から始まる一連の慌ただしさが過ぎると、菫の周りは急に静かになった。かろうじて自宅は残ったものの、思ったより少なかった貯金は葬祭関係の費用に消えていった。働かなければ食べてはいけない。アルバイトを掛け持ちし、菫は辛うじて口を糊した。毎日が空しかった。アカさんに会いたい。そう思った。

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