第3話
幸せに向かっていると思われたベクトルが向きを変え始めたのは、それから間もなくのことだった。ある日を境に
当直明けで昼前に自宅に戻った聡司は、玄関のドアを開けた途端に聞こえてきた茜の声に驚いて家の中へと走った。
「勝手に入らないでって言ったでしょう。何をしていたの!」
ヒステリーを起こしているような茜の前で、うなだれているスミレの姿があった。
「どうしたんだ」
聡司の声にハッとしたように茜が顔を上げた。
「何があった」
茜にではなくスミレにそう尋ねると、スミレは少し口ごもった。
「洗濯物を持って来たんです。結婚式の写真があったから、つい。アカさんが居ないときは寝室に入らないように言われてたのに。ごめんなさい」
ベッドの上には確かに、綺麗にアイロンを掛けられたシャツがあった。肩を落とすスミレに向かい、聡司は頭を下げた。
「すまなかった。君は何も悪くない。茜、どうしたんだよ、いったい」
茜の顔からすっと怒りが消え、我に返ったように見えた。
「聡司さん。……ごめんなさい、スミレちゃん。私どうかしてた。ごめんね、ごめんね」
そう言って涙を零す茜を見ながら、聡司はふと己の不幸を呪いたくなった。
「乾杯」
グラスを合わせ、微笑む香織は綺麗だった。自分の魅力を最大限引き出すように美しく装い、そして
「女同士って仲がいいのか悪いのか分からない処があるね」
院内の人間関係の話になった時だった。そう言った聡司を横目で見て、「今泉さんは、そういう事に
「君はどうなの。嫌いな人はいる?」
聡司が尋ねると、「ストレートですね」と香織は笑った。
「そうねえ。不幸になって欲しいとは思わないけど、幸せになって欲しくない人はいるかも」
人当たりが良く円転滑脱な女性の口から出た言葉に驚く聡司に向かい、「女なんて皆、そんなものですよ」と香織は笑った。
夜遅く酔って帰宅した聡司は、寝室には入らずにソファに横になった。茜は寝てしまったのだろう。寝室からは物音ひとつしない。
何故こんな事になってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。一度違えてしまった歯車は、もう元には戻らないのか。毛布の代わりにコートを被り、聡司はどんよりした気持ちのまま眠りに落ちた。
職場で新留香織と話をする事が多くなった。他の職員と一緒にだがランチに誘われる事も増え、スミレの弁当は残業用の夕飯に回るようになった。どうしても当日中にこなさなければいけない仕事があるわけではない。罪悪感に苛まれながらも、聡司は遅くまでパソコンに向かった。
スミレから職場に電話があったのは、クリスマスも近い十二月のある日だった。
「今泉さん、アカさんが!」
スミレは半狂乱だった。話をしても全く要領を得ない。とにかく家に戻るからと電話を切った聡司は、急いで仕事を引きつぎ、車で家に向かった。途中で、サイレンを鳴らしていない救急車とすれ違った。
マンションの入口にパトカーが停まっていた。自宅のある階でエレベーターを降りて廊下の角を曲がった途端、開け放たれた玄関の扉と、その前に立つ警官の姿が目に入った。身分証明書の提示を求められ、ようやく部屋に入れた聡司が見たのは、放心したように床に座り込んでいるスミレと、その前で手帳を広げる警官の姿だった。
「ご主人ですか」
警官にそう問われ、聡司は頷いた。
「妻に何かあったんでしょうか」
尋ねた聡司を気の毒そうに見た後、警官は聡司を寝室へと誘導した。
頭までシーツを掛けられた人型があった。警官の了解を得てシーツを捲った聡司は、変わり果てた妻の姿を見て声も出せずにその場に座り込んだ。
「さっき検死が終わったところです。お手伝いさんが救急車を呼ばれたのですが、残念ながら既に亡くなった後でした。自殺と思われます。ご愁傷さまです」
警官の言葉が、意味をなさない呪文のように通り過ぎて行った。
茜が、死んだ。
葬式から四十九日まで、慌ただしく時間は流れて行った。節分を過ぎた頃になって、ようやく一息ついた聡司は、台所にいる小柄な後ろ姿に目をやった。
ショックで頭が働かない聡司に代わって、スミレは実務のすべてを担ってくれた。葬儀会社とのやりとり、役所関係の手続き、親戚への連絡、食事や返礼品の手配まで。
「母の時に経験済みですから。それに私も忙しい方がいいので」
そう言って悲し気な笑顔を見せるスミレに、聡司は精神的にも大いに助けられた。
「桐谷さん」
呼びかけた聡司を振り向き、スミレは「はい」と返事をしてタオルで手を拭った。
「お茶でも入れましょうか」
言われて、少々小腹が空いたのに気づき、聡司はお供えに貰ったクッキーの箱を取り出した。
良い匂いのする紅茶とクッキーを仏壇に供え、スミレは
「桐谷さん、本当にありがとう。君が居なければ、僕は何一つ出来なかった。感謝してる」
「いえ、そんな。勿体ないです」
そう言って畏まるスミレに向かって、聡司は再び頭を下げた。
「勝手なお願いだけれど、もうしばらく来てもらえるかな。春になれば、僕も自立できると思うから」
男の一人暮らしに家政婦は贅沢だ。それに、このままスミレに来てもらうことは何となく茜に申し訳ないような気がした。
「はい」
小さくそう言って、スミレは頭を下げた。
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