第2話

 あかねは知っているのだろうか。くことはできなかった。せっかく元気になったのだ。それに彼女が犯人と決まったわけではない。薬は出て来なかったと言ってたじゃないか。きっと誤解に違いない。自分にそう言い聞かせても、胸に残った小さな不信感を消し去ることは出来なかった。


「おはようございます」

 珍しく二人の休みが合った土曜日の朝、玄関に迎えに出た聡司を見て、スミレはあわてて頭を下げた。

「今泉さんもお休みなんですね。そうか、土曜日でしたね。お邪魔したら悪いでしょうか」

 どうしましょう、と言うように茜を見る。

「そうねえ」

 茜は少し考える素振りを見せ、思いついたようにポンと手を叩いた。

「三人で植物園に行きましょう」

 スミレの眼が輝いた。嬉しそうに口角を上げ、ふと聡司を見て目を伏せる。

「いえ、デートの邪魔しちゃ申し訳ないから、やっぱり今日は帰ります」

 脱ぎかけた靴を履き直すスミレをぼんやり見ていた聡司は、茜の強い視線を感じて慌てて声を掛けた。

「遠慮しなくていいから、一緒に行こう。人数が多い方が楽しいし」

 スミレは聡司と茜の顔を交互に見て、はにかんだような笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。じゃあ、お弁当作りますね」

 薄紫のパーカーを脱ぎ、スミレは鞄からエプロンを取り出した。


 夏の盛りの植物園は暑かったが、色とりどりの花が咲き乱れ、とても美しかった。芝生にシートを広げ弁当を食べながら、こういうのも悪くないなと聡司は思った。

「観覧車が見えますね」

 スミレが空を見上げた。植物園の隣には小さな遊園地が併設へいせつされており、観覧車の他にジェットコースターの線路も見えた。

「隣でエッシャー展もやってるみたい」

 入り口で貰ったパンフレットを広げ、茜は聡司に顔を向けた。

「あなた好きよね。行ってみましょう」


 絵の展示会場は小さなものだったが、やはりエッシャーは素晴らしかった。

「水の流れを見てごらん。高いところから低いところへ流れる筈なのに水路に沿って行くといつの間にか上に戻っている。部分部分では違和感が全く無いにも関わらず全体では力学を無視した流れになっているんだ。不思議だろう」

 初めて見るというスミレに説明しながら、聡司は彼女を観察した。二十五歳という年齢にも関わらず雰囲気が幼い。妹というより娘のような気さえする。目を輝かせて聡司の説明に聞き入っている姿は、とても可愛らしく思えた。

 だまし絵展の出口にビックリハウスがあった。中に入ると床が傾斜しており、その床に垂直に柱や家具が配置されている。三人とも真っ直ぐ歩くことも出来ず、カーペットの上に転倒した。床は地面に平行だとの思い込みが脳を混乱させ、大した傾斜でないにも関わらず、あっちへふらふら、こっちへふらふら、身体が持って行かれる。茜が声を立てて笑った。床にへたり込んでしまったスミレの手を取って起こしてやりながら、聡司はおかしな噂を信じかけた自分を恥じた。

 茜が笑っている。一抹の翳りもない笑顔だ。こんな日がずっと続いて欲しい。その為には努力は惜しまない。外野の声など無視すればいい。俺が守りたいのはこの笑顔だ。聡司は勢いよくジャンプしてソファの背もたれにぶら下がった。


 スミレが家に来てから、あっという間に三か月が経った。茜の体調もすっかり回復し、もう心療内科に通う必要もなくなったように思えた。

 秋のお彼岸。茜の両親の墓参りにもスミレは付き合ってくれた。この時期の墓地管理事務所は結構混んでいることが多いため、茜を事務所前で降ろし、彼女が手続きをしている間に駐車場に車を停めた聡司とスミレが花を買っていくことになった。車を降りて歩く道から見える河川敷かせんじきには、彼岸花ひがんばなが所狭しと咲き乱れていた。

「綺麗」

 溜息と共にスミレが呟くのが聞こえた。

「子供の頃から、お墓参りで見る彼岸花が大好きで、学生の時ホームセンターで『リコリス』っていう名前で球根が売られているのを見付けて買って帰ったことがあるんです」

 普段は口数が少ないスミレが珍しく話し始めたので、聡司は足を止め、彼女の視線の先に目をやった。群生する赤い花は可憐でもあり毒々しくもあり、何故か物悲しくも見えた。

「大切に育てていたんですけれど、花が咲いた途端、母に捨てられてしまいました。お墓に咲く花なんて気持ち悪い。これは死人花しびとばなって言うのよって」

 死人花、曼殊沙華まんじゅしゃげ。葉を伴うことなく咲くこの花を嫌う人は多い。縁起が悪いなんて、誰が決めるのだろう。

「お墓の近くに咲くからって、何故嫌われなきゃいけないんでしょう。ただ一生懸命咲いているだけのに。そんな話をアカさんにしたことがあるんです」

「茜に?」

 スミレは聡司の顔を見て、優し気に笑った。

「アカさんは、こう言ってくれました。『彼岸花はね、誰にも教えられなくてもお彼岸に咲く賢い花なのよ』って。私とても嬉しかった」

 聡司は口元がゆるむのを感じた。それは正確には茜の言葉ではない。聡司の母親の口癖だ。母と茜はとても仲が良い。体調を崩してからは暫く実家には帰っていないが、久しぶりに顔を出してみようかと思った。

 ベクトルが幸せな方に向かっているように思えた。ずれていた歯車が少しずつ噛み合い動き始めている。そんな気がした。

「あ、白い彼岸花を見付けました」

「どこどこ⁉」

「あそこです。アカさんに見せてあげよう」

 スミレはスマホを取り出して白い彼岸花を写真に納めた。


「インスタのアカウントを新しくしたから、この写真を上げてみたの」

 夕食後にスミレお手製の梅酒シャーベットを食べながら、茜は言った。

「桐谷さんが撮った写真?」

 画面をのぞき込んだ聡司は、赤い花の中に見事な存在感を持って咲く純白の彼岸花に「ほう」と息を吐いた。

「上手いもんだね」

 そう言った聡司に向かって、茜は自分が褒められたように嬉しそうに笑った。

「あの子は多才なのよ。頭もいいし。でも何故かしら。驚くほど自分に自信がないの。引っ込み思案で、人が怖いみたい」

 昨年起きたという事件のせいだろうか。それとも母親との関係のせいだろうか。彼岸花を捨ててしまったという。

「友達もいないって言ってた」

 ふと声のトーンを落とした茜の肩に、聡司はそっと腕を回した。

「大丈夫。桐谷さんには君と、そして僕がいるから」

「ありがとう」

 聡司の手を握ってそう言った茜を、聡司は力を込めて抱き締めた。

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