紅き海に咲く

古村あきら

第1話

 家に帰りたくない子供のように見えた。

 蝉の声もまばらになった夕暮れの公園、象の形の滑り台に薄紫の影があった。パーカーのフードを目深に被り、勢いよく滑り降りては又すぐに階段に向かう。幾度も滑っては登り、また滑り降りる。何となく目が離せなくなって、今泉聡司いまいずみさとしは入り口の柵の前で足を止めた。

「何見てるの?」

 腕に絡みつく柔らかい感触に、聡司は優しい視線を向けた。妻の病院に付き添った帰り、自宅から少し離れた駐車場に車を置いて帰る途中だった。時刻はそろそろ7時になる。陽はまだ沈む気配がないものの公園に人の姿はなく、滑り台の上の小柄な影だけが唯一動くものに見えた。

 薄紫の影が滑り降りる。ふと吹きぬけた風に煽られてフードが脱げた。

 年若い少年にも、少女にも見えた。幼い顔立ち、中途半端に短い髪。ただ、その表情があまりに寂しそうで、訳もなく胸に小さな氷が刺さったように感じた。

「スミレちゃん?」

 妻の声に聡司が驚いたのと同時に、薄紫のパーカーが立ち上がり、こちらを見た。

「アカさん」

 駆け寄って来る姿はとても嬉しそうで、先程の表情とのあまりの違いに聡司は違和感を覚えずにいられなかった。

「お久しぶりです」

 妻のあかねに向かってそう言った後、スミレは聡司に向かってぴょこんと頭を下げた。

「半年ぶりね。元気にしてた?」

 茜がそう尋ねる。彼女は「はい」と答えた後、「何とか」と小さな声で続けた。

「知り合い?」

 そう訊いた聡司に向かい、茜は呆れたような顔を向けた。

「薬局にいた桐谷菫きりたにすみれちゃんよ。結婚式の二次会にも来てくれてたでしょ」

 スミレに向かい「ごめんね」と言った後、茜は「もう」と聡司を肘でつついた。

「それは失礼しました。いや申し訳ない」

 そう言って頭を掻いた聡司に、スミレは屈託のない笑顔を向けた。

「今泉さんにお会いしたのは本当にそれぐらいだから、ご存じなくて当然です。私は『アカさんの御主人』ってことで憶えてますけど」

 聡司と茜は町の病院に勤めている。標榜科ひょうぼうかは内科と皮膚科、リハビリテーション科の三つだが、二十五床の入院設備もある。その院内薬局でスミレは昨年の四月から今年の三月まで勤務していたらしい。

「今はどうしてるの?」

 茜の問いに戸惑ったように目を伏せたスミレを見て、聡司は「タバコを吸って来る」と言って場を離れた。「禁煙は終わりなの?」と言う声が追いかけて来る。曖昧あいまいに笑って、聡司は入り口の柵を抜けた。

 看護師として働いている茜と医事課の事務員である聡司が結婚したのは、去年の六月。ちょうど一年と一か月になる。茜の旧姓である岡本と同じ名前の看護師がもう一人居た為、二人とも名字ではなく名前で呼ばれていた。茜は「アカさん」もう一人は「マキさん」。聡司と結婚して「今泉」になってからも、それは変わらなかった。良い仲間に恵まれ、仕事は順調だった。今年の春から茜は看護師長となり、聡司も課長補佐に昇進して順風満帆じゅんぷうまんぱんに見えた日々だったが、幸せはそう長くは続かなかった。

 ゴールデンウィークが開けてすぐの頃、茜は初めて授かった子供を流産した。師長としての重責と激務が原因だと思われた。退院した後も茜は体調を崩しがちになり、精神的に不安定になった。

 今日は久しぶりに妻の笑顔を見た気がする。かなり歳が離れているように見えるが、彼女とは仲が良かったのだろうか。名前を言われても思い出せなかった。そもそも妻の職場での人間関係など気にしたことはない。茜は、いつも笑顔でいた。仕事熱心で皆に慕われていた。強い女性なのだと、悩みなどないのだと、そう思っていた。

 女同士の話は長く続き、聡司は待っている間に煙草三本を灰にした。小型の携帯灰皿が一杯になった頃、茜がスミレに向かい、バイバイというように手を振るのが見えた。楽しそうな表情のままこちらに向かって歩いて来る茜に、聡司はまた優しい笑顔を向けた。


「家政婦紹介所への依頼は取りやめようと思うの」

 一週間ほど経ったある日の午後、茜は突然そう言い出した。

「どうして?」

 流産の後の体調不良と精神的な問題から聡司は休職を進めたが、茜は応じなかった。看護師は茜のライフワークである。生きがいとプライド、それを奪うのかと言われ、聡司は言葉を返すことが出来なかった。妥協策として家事の負担を減らそうということになり、聡司が家事を担うという案を出したが、茜は「出来ないでしょ」と一笑に付した。確かに残業の多い聡司は今まで家のことはすべて茜に任せていた。口だけの宣言をしたところで結局は茜に負担が行くことは目に見えている。少し贅沢だと思われたが、家政婦を雇うことで落ち着いた筈だった。

「君の負担を減らす為だろう。何故今になって」

「違うの」

 聡司の言葉をさえぎって、茜は笑みを浮かべた。

「スミレちゃんに来てもらおうと思って」

 薄紫のパーカーを着た姿が脳裏によみがえる。

「彼女ね、5月にお母さまを亡くされて一人になったんですって。定職にはついていなくて、アルバイトで食いつないでるって言ってた」

「それは気の毒に」

 何と返していいのか分からなくて、聡司はそう言った。

「それでね。先日電話で、週に何回か家事の手伝いに来てもらえないか聞いてみたら快諾してくれて。ね、いいでしょ」

 ねだるように茜は言った。確かに彼女と話しているときの茜は楽しそうだった。スミレに来てもらうことで症状の改善が期待できるのなら、聡司に止める理由はなかった。

「でも彼女、家事はできるの?」

 ついそう言った聡司に「失礼でしょ」と言って茜は笑った。


 スミレは週に二回ほど、茜が家にいる時間に来ているようだった。気を遣わずに話ができる相手が欲しかっただけかと思ったが、意外にもスミレの家事能力はかなりのもので、わずかな業務時間内に家中をピカピカにし、一週間分の食事のストックが、いつも冷凍室に常備されるようになった。毎日の食器洗いだけは聡司が担っていたが、それ以外はすべてスミレが片づけてしまうため、茜は仕事に専念できるようになった。無駄な出費も減り、給料を払っても十分元が取れたように思えた。聡司も毎日、栄養バランスの整った弁当を持たせてもらい、きつかったズボンのベルトが緩くなった。

「今日スミレちゃんがね」

 夕食の話題に彼女の名前が上がることが多くなり、茜は笑顔が増えた。スミレの退出時刻と聡司の帰宅が偶々重なった時に、はにかんだ表情で黙って頭を下げるスミレからは、彼女の何が茜を元気づけるのか分からなかったが、茜にとっては年の離れた妹が出来たようなものなのかもしれない。来てもらって良かった。聡司は心からそう思った。


「今日も愛妻弁当ですか?」

 昼休憩の時間。机に弁当を広げた聡司を見て、同僚の新留香織にいどめかおりが声を掛けた。

「アカさんも忙しいのに偉いわねえ。あら美味しそう」

 そう言って、香織は弁当箱を覗き込んだ。看護師の茜と違ってしっかりネイルを施した指が目を引いた。色気のある女性だ。

「いや、実は先日から家政婦さんに来てもらっててね」

 聡司の言葉に、香織は「まあ贅沢」と言って笑った。

「どんな人ですか。おばさん?」

 職場では話さないように茜に言われていたにも関わらず、聡司は口を滑らせた。

「去年まで薬局にいた桐谷さんって人。きみ知ってる?」

 言った途端、香織の表情が曇った。

「……ええ」

 歯切れ悪くそう言った後、香織は暫く言いよどんだ。

「言っていいのかな」

 呟くようにそう言った後、思い切ったように口を開く。

「彼女が何故辞めたのかご存じですか?」

 問われて聡司は首を振った。せっかく就職したにも関わらず、たった一年で辞めてしまった理由が、急に気になった。

「今年の一月だったかしら、薬局で薬が紛失していることが分かって。毒薬指定のものだったから問題になりましたよね。疑われたのが彼女でした」

 聡司は飯が喉につかえるのを感じた。箸を置き、ペットボトルのお茶に手を伸ばす。

「結局薬は出て来ずじまいでしたが、彼女は職場に居づらくなって辞めたと聞いています」

 私が言ったって言わないでくださいね。と言って香織は席に戻って行った。残った弁当を食べる気にもならず、聡司は弁当箱の蓋を閉めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る