5.視点と人称のこと
最近、歴史系ラジオにはまっていて、通勤時や単純作業をするとき聞いているのですが、その中で『唯識』の話が出てきました。
これはインド仏教から出てきた「各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎない」という考え方で、固有で定まった「世界」というものは存在しない、という考えらしいです。
確かに、同じものを見ていても、人によって見え方は違って、私たちの目はすべてを「自分のいいように物事を見ている」というのは、実感としてもわかりますよね。
それを突き詰めると、「世界はイメージだ」ということになるのかなあ、と。
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最近、新しい小説の構想を練りながら、改めて「視点」と「人称」のことを考えていました。
とりあえず小説の雰囲気を確かめるために冒頭部分を書いていたら、気づくと「視点」が主人公の外にある描写になっていて、「あれ、このままだと自動的に三人称になってしまうぞ」と気づきました。
それで、試しに「視点」の位置をぐっと動かし、主人公のところに持ってきて、もう一度冒頭を書き始めると、全然違う描写になる。場面としては、まったく同じものを書いているのに。
それでも、どちらかというと客観性のある描写だったから、人称は「一人称」でも「三人称」でもいけそうでしたが、もし、「俺」とか「私」が語っているような「一人称」にしたら、「視点」がさらに主人公と同化して、描写の仕方はまた変わってくるんだろうと思います。
きっと、より主人公の主観が入った表現になるんだろうな。
視点をどこに置くかで、小説世界も全然変わってしまう、ということを実感した一幕でした。
この「視点」と「人称」をもっと自由に扱えるようになると、「書く技量」という意味では、一段レベルアップできる気がしますね。
考えてみると、漫画やアニメ、映画などは、ほとんどの場合、視点が主人公の外にある「三人称」ないしは「神の視点」になっていますよね。
というか、映像で人物を映し出すので、「一人称」的な表現は、やりにくい。
それを思うと「一人称小説」というのが、「小説ならでは表現」のひとつ、ということになるのかなあ、なんて思ったりもしました。
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