第八節 amabile


    30.



 ――そんな終わり方をしても、相変わらず人生は続いていった。


 それからは、ジャックの「身辺整理」が始まった。


 まず、滅多に認(したた)めることのない手紙を書いた。宛先は故郷の実家。今回の公演をきっかけに人形使いをすっぱり辞めること、一身上の独断なので文句や制裁があれば受け付けるということ、気が向いたら祖父の墓参りに行くことなどをほとんど箇条に連ねただけの、どちらかといえば報告書のような文面になった。しかし、家族に手紙を書くという行為そのものが自分の正気を疑うほどの一大事なので、これぐらい殺風景でも上出来だということにして郵便局に投函した。


 次いで、劇場がいよいよ取り壊されることが決定したのを機に、再就職先を探した。人手はどこも慢性的に不足しているのでそこかしこに募集があるのだが、この期に及んでもジャックは仕事を選り好みし続けた。酒場でこき使われるのは御免だし、地味な事務仕事もあれで意外と覚えることが多いらしいのでうんざりする。いまいちピンと来るものがないと贅沢なことを抜かして、結局ジョンの店に転がり込んだ。知人が面接に来るということ自体がとても嫌そうな雰囲気のジョンに対し、ジャックもさすがに冗談半分ではあったのだが、次の仕事が見つかるまでの繋ぎという条件で雇ってもらえることになった。実質無期限であることはどちらも解っていたが、敢えて口には出さなかった。元々客の多い店ではないし、その分給料も安かったが、全く何も無いよりはマシというものだ。

 当面の仕事先が見つかったので、劇場の運営委員会が管理していた住居も引き払った。一年も住んでいれば生活雑貨も多少は増えるものだが、その殆どは売ってしまい、新居へ移る際の出費に充てた。六帖ほどの一部屋と、以前よりも狭くはなるが、独り身には分相応の広さだ。


 引っ越しの荷解きなどが済み、生活していく上での不安が大体解決して、一息ついた頃。

 ジャックは一族の宝である『プリ・マ・ドンナ』を競売にかけた。

 ジョンが古物商の出入りするマーケットに顔が利くというので、仲介業者としてドールを預けた。使用感を微塵も残さないほどのクリーニングがかけられ、新品同様のお色直しを済ませた人形を携え、ジョンはしばしの出張に向かった。その間の店番はジャックの仕事だった。

 出発する寸前、ジョンは最後の最後に、「本当にいいのか?」とジャックに聞いた。実はこの時点で一族にはこの件に関して何の知らせもしていないのだが、後の面倒は自分でどうにかすると決めた以上、「いいんだ」とだけ答えた。

 五日後、行きよりもずいぶん身軽になったジョンは、帰ってくるなり一枚の紙切れをジャックに渡した。手の平ほどの小切手には、ジャックが劇場で働いた年収の五倍の金額が書かれていた。

「銀行に持っていきゃ今日から小金持ちだ。懐に余裕ができたことだしクビでいいか?」

 という店主の申し出は丁重に断り、ジャックは自分の口座を作ることにした。


 人形劇を演じる上で不可欠だったカラクリ仕掛けの荷車は、ジョンの店に展示品として置かれている。機構があまりに複雑で他に転用が利かず、分解して部品単位で売り捌くにしてもどれもこれもが古過ぎるので、手間賃ばかりが掛かって上がりが無いという。ジャックとしては取り壊しても構わなかったのだが、これにはジョンが渋った。物作りを志向する者としては学ぶところが多い研究材料らしい。


 そうして、十三年に及ぶ少年の時間を縛ってきた希代の人形は、ほんの端金に化け、繰り手のもとを去った。

 時を同じくして、ジャックは医者を訪れた。

 あの全力での舞踏が終わったと同時に、少年の身体はとうとう限界を迎えた。嫌な音と共に太い健が裂け、血を噴き出すほどの大怪我になった。激痛に呻く少年はその日の内に病院へ担ぎ込まれ、どうにか事なきを得たものの、様子見としてしばらくの通院を命じられた。

 あまりに細い腕と、どうにか閉じつつある傷を観察した外科医は、カルテに書き込みながら、診断の結果をその場でジャックに告げた。

 怪我自体は快復の方向に向かっている。日常生活を送る上では問題ないだろう。

 ただし、あの演目、もしくはそれに準ずる激しい運動を一度でも行えば、腕の切断も覚悟しなければならないほど悪化する可能性は高い。

 成長期以前に積み重なった損傷は未だ確実に残っている。肉体が出来上がりつつある若さをもってしても、それは完全には拭い切れない。

 それはつまり、人形使いとしては二度と再起できない――『スチームスポットのジャック』が、本当に当代で終わるということを意味する。

 誰にもどうすることも出来ないと確定した、幕引きの瞬間だった。



    31.



『自己実現ができない人間は――――』


 そんな題目が目に入ったところで、ジャックは読んでいた本を閉じた。

 薄暗い空間には大量の雑貨がこれでもかと陳列され、最近になってカーテンを開放することになった窓からは仄かな夕陽が射し込んでいる。店の奥にある立派なカウンターの内側、朱塗りの揺り椅子に凭れて、ジャックは本を読んでいた。

 少年が青年に変わり始めるほどの時間が経っても、ジャックはスクラップフィールドに住み続けていた。

 数年前から、この街に新たな行政が立ち上がった。母体である帝国が先の感染症の対策遅延の責任を言及されたり、感染症の影響で世継ぎが亡くなったおかげで革新派と保守派の内紛が起こったりと歴史が動くほどの騒ぎだったが、程なくして国家そのものが呆気なく崩壊。誰のものでもなくなった土地や資産は周辺諸国に吸収され、今はその内のひとつが市政に関わっている。こぼれ話だが、市長選を勝ち上がったのはラインデルフだった。

 国境が多く交わる土地柄を活かし、交易の中継地点として宿屋や飲食店が過去以上に盛んになった。

 元より”ガラクタ置き場”といった揶揄を込めて呼ばれていたこの街も、今や本物のガラクタになってしまったが、人の行き交いが次第に回復し、かつて以上の賑わいを見せている。

 その街の奥まった場所でひっそりと営業している『トムキャットの箱庭』で、今日もジャックは店番をしていた。

 国交や財政が回復していくにつれて、ジョンの店も徐々に忙しくなっていった。商品の仕入先が増えたこともあり、こちらは以前と比較するのも馬鹿馬鹿しくなるほどの来客数になった。修理依頼なども加えるととても一人では手が回らなくなり、とうとうジョンが「いないよりはマシ」と雇用当時の条件を覆したので、従業員としては文句を言う筋合いもなくそのまま世話になっている。ちゃんと給料を上げてくれるあたり、そこらの店より良心的だ。

 とはいえ、ジャックに出来る仕事といえば来客の依頼内容聴取や勘定程度のものなので、基本的には暇である。その時間を使って、ジャックは本格的に読み書きを勉強するようになった。

 店番をするにしても金勘定や帳票の書き取りなどはジョンの手を煩わせている状態なので、少しでも友人の苦労を軽減させるため――また、いずれここを出ていくことになるかもしれない機会が来た時に備えて、全くの無学よりも少しはマシになるように。そんな殊勝な心がけの賜物だった。

 ジョンの店で取り扱うものは基本的に骨董品や生活雑貨だが、稀に古い書架などを丸ごと買い取った際のおまけとして本がついてくることがある。大抵は哲学書や伝記、たまに料理のレシピなどだが、それに加えて最近は古本屋などもそこかしこに開業するようになったので、自分の給料の範囲で色々な本を買っては読み漁っている。今まで空っぽだった脳に、急速に知識が吸い込まれていくのが面白かった。

 仮にも商業都市として再興したからには目立つ不便もなく、街を離れる理由が失われていく一方――という訳である。

 人形使いとしての肩書きが失われても普通に生活している自分が、少し不思議だった。


「…………」


 目が疲れたので本を閉じただけなのだが、その直前に目に入った章題の文言が、やけに頭の中を飛び交っている。

 あれから三年が経った。

 両腕を痛め、人形を手放し、人形使いではないただの人間になってから、三年だ。

 人形使いの一族に生まれながら、結果としてその全てを否定した少年は、本来であれば『ジャック』の字も返上するべきところだった。しかし改めて両親に手紙で問いただすと、元より『ジャック』として一生を遂げるのが家訓であるからして、本来の名前などというものは端から考えていなかったという驚愕の事実を知らされた。使い潰す気しかなかったということ、これまでその悪習に何の疑いも持っていなかったという何よりの証拠に呆れを通り越して憐憫すら覚えたが、そうは言っても名前がなければ不便で仕方がないので、通りの良い『ジャック』を名乗り続けている。そもそも呼称など人を呼び分ける記号でしかないと開き直るしかなかった。

 故郷の名を背負うことのない”ただのジャック”が、今の名前だ。他には何も無い。そうなることを自らが望んで、何もかもを棄てたからこそ、感慨もひとしおの名前になった。

 一族の使命などに強いられる必要も、嫌な仕事を無理矢理続ける必要もない。その過程で植え付けられた唯一の特技も失った、有象無象の一部に成り下がった。

 それはつまり、何ものにも縛られない究極にして本来あるべき自由を遂に獲得したということだ。

 空しく虚ろで生産性のない人生だとしても、それで良かった。それを望んだ。そうでもしなければ、あの馬鹿げた稼業を断ち切れなかった。

 誰かが区切りを付けなければならなかった。自分のような失敗作が二度と生まれないように、無駄な時間を浪費する羽目になる子孫が生まれないように――それほど大層な心意気がある訳でもないが、大義名分として自分に言い聞かせれば立派な理由になる。何より、『スチームスポットのジャック』の行く末を決定するのは当代のジャック次第だ。他でもない自分が決めたことなのだから、ジャックの判断が何より正しいのだ。

 そうと思い込むしかなかった。

 だが、


「……自己実現、か」


 今し方読んでいた著作の筆者は曰く――ヒトは野生の動物とは一線を画す優れた知能をもって文明を築いた。良くも悪くも世界を切り拓く時代は終わり、更地になった世界の上で、今度は自分達が由来となる何かを生み出すことに傾注する時代に入っている、という。

 芸術それ自体は遥か昔から人類の遊びの延長線上にあった。腹の膨れない無駄な行為であるはずが、時代を経るにつれて人間はそれを尊ぶようになった。絵画、彫刻、音楽、服飾など、科学が発展するのと併せて表現の幅も広がっていった。現代では、そういった様々な分野における何らかの一芸がなければ豊かな生涯とは言えない。働いて金をもらい、生きるだけなら子供にも出来る。子孫を残すだけなら虫けらにも出来る。これからは、ヒトでなければ出来ないような何かを残す生き方が、最大の自己実現として台頭していくだろう。

 故に、何の取り柄も持たない人間は、『ヒトの自然』として開拓された世界においては劣等と見なされ、為す統べなく淘汰されていくだろう――、と。

 要はそんな趣旨のエッセイだった。街角でまき散らされる号外のビラとそれほど変わらないようなゴシップの寄せ集めで、読者の十中八九が腹を立てて破り捨ててしまいそうな、素人目のジャックですら酷いと思える内容ばかりの本だ。

 つまるところ、この筆者は不特定多数の人間に「趣味を持て」と言いたいのだろう。趣味が高じて金を稼ぐほどの域に達することもある。武勲を立てるばかりの価値観はもう古く、今は多岐にわたる分野の最前線に立つことがヒトとしての栄誉だと。

 それが出来ない人間は、どうなるというのだろう。

 呼吸し、食事を欠かさず、充分な睡眠を貪り、ただひたすらに日々を暮らすだけでも、それでは足りないと言うのか。日々を生きるだけで必死な庶民が大半だというのに、その上でまだ何かを加えろと言うのか。 

 果たして人間は一体いつから、そんなことにすら文句を言われるほど崇高な生き物になったのだろう。使命感という傍迷惑なものを生まれながらに押し付けられる不愉快よりはいくらも良いことではないか。

 頭ではそう思うものの、その問題提起が妙に引っかかる。

 これではまるで、認めているようではないか。

 物足りないなどと、自分で選んだ結末を前提から否定するかのような――、


「たでーまー」


 考えに耽っていると、店の勝手口が開き、静かだった空間に聴き慣れた声が響きわたった。

 これだけ長い付き合いでも外套のフードを頑なに取ろうとしないジョンが、帰ってきたのだ。


「おかえり。お疲れさん」


「おう。客来た?」


「ちっとも」


「ケッ。まあいいか、仕事溜まってるし。つか明かりぐらい点けろよ、目ェ悪くすんぞ」


 言われてみれば、いつの間にか薄闇を通り越して真っ暗になっていた。街路の方から聞こえていた子供のはしゃぐ声も鳴りを潜め、夜の時間が始まっている。最近、よく考えごとをするようになったが、時が経つのは早いと痛感せざるを得ない。


「よほど集中して読めるぐらいには暇だったみたいだな?」


「おかげさまで」


「……この野郎、悪びれもしねぇか。ったく、せいぜい帳簿の桁を間違えないぐらいには勉強してくれや」


「悪かったよ。直したやつは作業台の上」


「あいよ。あーくたびれたなーコーヒー飲みてぇなぁー淹れたての熱いヤツをなー」


 皮肉や嫌味を応酬しながら、ジャックは腰を上げてカウンター奥の台所に向かった。ここで働くようになって長くなるが、通常業務以外はすっかり小間使いのような位置づけだ。雇用主に「これも給料に含まれている立派な仕事だ」などと真面目に嘯かれてはぐうの音も出ない。コーヒーの淹れ方も随分上手くなったものだと我ながらに思う。

 洒落っ気のないカップを二人分カウンターに置いて、対面のスツールに座るジョンに一つを差し出す。


「今日はどこまで行ってたんだ?」


「常連の行商とちょっとな。こないだまで北方中心に漁ってきた物産が多かったんで、良さげなもんは買い付けてきた。その商談に時間食ったのよ。ほれ、今週から噴水広場でフリーマーケットやってるだろ」


「ああ、あれ。……なるほど、めぼしいものは予約でかっ浚われて、祭りの露店には残り物しかないってわけか。むごい話だ」


「察しがよくなって助かるぜジャック。明日受け取りだから手伝え。結構大物もあるからな。いやー、こういう時に男手があると便利だ」


「勘弁してくれないか」


 苦い顔をするジャックに対して、ジョンはけたけたと笑った。とはいえこの数年で身体も成長し、荷運びなどの雑務でそこそこに鍛えられたジャックは良いように使われる定め――というより、そういう雇用契約だ。店主の命令なだけに拒否するわけにもいかない。


「仕入れは良いけど、ちゃんと売れるものなんだろうな? またお前の趣味じゃないのか?」


「馬鹿め、個人商店なんて店主の趣味を売るのが醍醐味ってもんだぜ。三年も勤めてるくせにンなことも知らなかったのか?」


「偉そうに言うことじゃないと思うけど……。まあ、いいさ。どうせ上がりは少ないもんな」


「そう言うな。古びた物ってのは面白いぜ。使い込んでる味が好きって奴もいるし、オレもその口だ。時代を経て受け継がれているって触れ書きだけで値札に書き込む桁が増える。多少壊れてても直せば売れるしな」


「そんなもんかね」


「おうよ。そうだジャック、帰り道は広場通る方向だろ。ちらっとでも覗いていったらどうだ?」


「別に欲しい物も興味も無いよ。家に荷物が増えると面倒だって引っ越しで思い知ったんだ。ただでさえ狭いし、小物だって馬鹿にならない」


「雑貨屋とは思えない言い種だな……。こういう身近なところから掘り出し物に目を光らせるのも仕事の内だぜ」


「自分の財布から出す前提だろ? 経費で落ちるなら考えるよ」


「甘いな。自分の琴線に触れるものに出会ったらそうも言ってられないぜ」


 コーヒーを啜りながら、特に何も考えていないような調子で、ジョンが言う。


「だからあの人形も、とんでもない値で競り落とされた。美品に仕上げたから当然っちゃ当然だったが、そういう付加価値があったおかげでお前の懐も暖まってるんだ。いつの世にも物好きってのは生きてるのさ」


「……そういう連中に買われた方が本望だろうな」


 かもな、とジョンは適当に応えた。

 なんとなくだが、二人の間で『プリ・マ・ドンナ』の話題を出すのははばかるような空気がある。ジョンはあまり気にしている様子もなさそうに繕っているものの、口数がいつもより少なくなるということにジャックは薄々気付いていた。

 あれだけ気に入っていた人形を、自分の手に譲られることもなく競りに出したのだ。ジョンの趣味を考えれば是が非でも手元に置いておきたかっただろう。だが、本来の持ち主が遠ざけようとしているのに、近しい者が所有していては意味がない。そんな気遣いがあったのだろうか。だとしたら、悪いことをしたかもしれない、とジャックは思う。


「なあ、ジョン」


「うん?」


 気心の知れた仲だ。ジャックは思い切って、無二の友人に聞いた。


「人形を手放した僕は、無価値だろうか」


「……急にどうした?」


「この本に書いてあったんだ。自己実現の出来ない人間は無価値に等しいと。何か一つ特技を持っていなければ、豊かな人生とは言えない、と。ジョンは趣味が仕事のようなものだろう。壊れ物は大抵直せるし、自分のコレクションを切り売りして生活している。特技と趣味のいずれかを持っていなければ、今の時代の人間は廃れるばかりだ――と、書いてあった」


「……あー、それな、三流記者だから気にしない方がいいぞ。大衆を煽って金稼ぐような奴だ。実際それ、出版されて即古本屋に売られてるし」


「鵜呑みにしている訳じゃないよ。ただ、ちょっと考えたんだ」


 本をカウンター上に放り出し、コーヒーを一口含んでから、ジャックは話を続けた。


「僕は人形使いではなくなった。それ自体は後悔していないし、悪くない選択だったと思ってる。けど、他に僕が生きる道は何だろうと思ったんだ。人形使いを辞めてから、ゆっくり探そうと思っていた。だけど探している間にも時間は流れる。歳を取る。実際、あっという間に三年が経ったけど、何かが進展した実感は無い。よしんば今後に何かを見つけられたとして、それを謳歌する時間は、どれほど残っているんだろう」


「今の仕事は不満か?」


「いいや。この店も何だかんだで面白いと思える。いろんなことを勉強できるし、楽しいよ。だけど、なんというか――そう、物足りないんだ。仕事にではなく、僕自身の時間に、何かが足りていない」


「ふん、昔と比べてずいぶん語彙が増えたな。勉強の成果ってのは確かに出てるか」


 言って、ジョンはカウンターに頬杖を突き、事も無げに即答した。声色はいつも以上に、どこか呆れた様子だった。


「そりゃお前、乳離れが出来ない子供と同じ心理だろ」


「……は?」


「いつかこういう話題が出てくるんじゃねえかって予感はしてたんだよなー。四六時中やたら張り合いがないって顔してたしよ。いや、かわいげのないツラは前からだが」


「ほっとけ。どういうことだ? 乳離れ?」


「そ。血は争えないってこったよ」


 わざわざ音を立ててコーヒーを啜り、これ見よがしに大きな溜息を吐いてみせる。そこから先は、まるで準備していた台本を読み上げるように、ジョンが話し始めた。


「大抵の人ってのはな、子供時代に一つや二つ”宝物”を持ってたもんなのさ」


「宝物?」


「手触りの良い毛布、路傍で見つけた綺麗な石ころ、初めて買ってもらったテディベア。どこで心の琴線に触れるかは解らんが、とにかく子供ってのは自分の気に入った物をいつまでも持ち続ける。無くてはならないものと自分の中に設定するんだ。もちろん所詮はガラクタだから無くても生活に困ることはないけど、無きゃ無いで無性に不安に駆られる。乳吸わせときゃとりあえず収まる赤ん坊と同じだよ。だけど誰もが四六時中いつまでも乳吸ってるわけにはいかねえ。そうして外に興味を持ち、いろんな物に目移りして、成長していく。その過程で失くして、失くしたことすら忘れていくんだ」


 だけど、とジョンは一息で区切り、


「だけど、別離の瞬間の痛みは覚えている。それが何だったのか、正体すら分からなくなっても、哀しかったことだけは不思議と覚えている――という、甘酸っぱいノスタルジーを抱えて生きてるのが人間ってもんだ。そういう思い出が詰まってるのが、古物の良いところだ」


「…………」


 それは、通過儀礼とでもいうものだ。どこか懐かしい表情のジョンも、それを経た上で今に至るのだろう。

 だが、ジャックには、そういうものがない。否、


「僕にとっては、あの人形がそれだって言いたいのか?」


「だって生まれた頃から一緒だったんだろ? お前が望む望まないに関わらず、お前の人生はあの人形と常に隣同士だった。まして人形使いの一族に育ったんだ、半身とすら言えるかもしれない。幻肢痛ってやつだ。五体満足のくせに物足りないとか抜かすんだから、そういう気があるってことだろ」


「……まったく不本意だ」


「だろうな。だけど実際、今のお前、張り合いが無いって顔してるぜ。人形が小切手に化けたあの時から、ずっとな」


 だからどうと言う訳でもなく、ジョンはカップの中身を飲み干して、スツールから立ち上がった。


「今日はもう上がっていいぜ。店番ごくろうさん」


「……うん」


 そのやりとりを経て、ジャックは自分の荷物をまとめ、ジョンはいつも通り奥の工房に引っ込み、一日を終える。合わせるでもなくいつの間にか定着した、二人のルーティーンだ。

 ジャックは裏口から店を後にした。身体の凝りを解すために大きく伸びをしてから、一息を吐いて表通りに出る。


「…………」


 自分の半身。人形使いにとって無くてはならないもの。最大の商売道具を手放すことをジャックは望み、怪我の事情もあったとはいえ、現実はその通りに事が進んだ。

 だが、それを失ったと解釈するのならば。

 自分は今、寂しいのだろうか。

 ふと、帰り道の方向を眺める。確かに道をすれ違う人々はいつになく賑やかで、以前から人口密度の高い街ではあったが、今日という日は一段と人が多い。街灯がちらほらと点く時間になってもまだ開催中なのだろう。

 興味があるというわけではない。噴水広場はただの通り道だ。

 だからいつもと同じように、そちらへ歩き始め――気付けばジャックはフリーマーケットの一望を前にして、立ち止まっていた。

 何かを見つけたいと、この期に及んでも、そう思っていたからかもしれない。



     32.



 巨大な噴水を中心として波紋が広がるように、色とりどりの露店が展開されていた。

 実行委員会に割り振られたスペースの中であれば、どれほど創意工夫を凝らした飾り付けも周囲の迷惑にならない範囲で許可されている。単に茣蓙(ござ)や軽い絨毯を敷くだけの者、日除けの大きなパラソルを立てる者、移動式の屋台を組んで揚げ菓子を売る者など、見た目だけでも相当喧しい商人が群れとなって固まっている。それぞれの間隔が狭い上に、商魂の逞しい連中が集まっているのか、道行く人々にこれを買えだの見るだけ見ていけだのと亡者のように掴みかかっていくものだから、まともに歩くのも一苦労しそうだった。

 見ているだけでも腹一杯になる光景を前にしたジャックは、まさに人波と言うべきうねりの中に飛び込むのはやめておこうと決心し、ひとまず外周から見て回ることにした。家に帰っても特に用事はない。明日駆り出される搬入に向けた下見の意味も込めてと、何だかんだで前向きになっている。

 あらゆる物流の中継地点という土地柄もあって、露店に並ぶのは物珍しさを重視した商品が多いように見える。色鮮やかに染めた東方の反物、未開の地に住まう民族の奇特な形をした仮面や楽器、世界各国の缶詰や乾物なども売り出されている。この街に住んでジャックも長いが、初めて見るものばかりだった。シュールストレミングとかいう北国産の缶詰には大いに食指が動いたが、財布の紐を緩めるのはよく考えてからにしようと強く自分に言い聞かせた。

 そんなことを思いながら、フリーマーケットの外側をほぼ一周したところで、


「――おう、ジャック! ジャックじゃないか!」


 不意に声をかけられた。視線を向ければ、古物などを並べるシートの上にどことなく見覚えのある顔がいた。ジョンの店に頻繁に訪れる行商の男だ。


「どうも。出てたんですね」


「おうともよ。こんだけデカいイベントだからな、この街ならどんなガラクタでも物好きが買っていく。売れる時に売らにゃ商売人の名が廃るってもんだ。ほれほれ寄ってけ見てけ! たとえ顔馴染みでも値切りはしないが交渉次第だ!」


 まさにジョンの知り合いらしいことを声高に喧伝する男に呆れながら、そのまま通り過ぎるのも数少ない常連の機嫌を損ねかねないと判断し、仕方なくジャックはそちらに寄っていった。

 後学のためにもよく見ておいた方が良いかもしれないと思わなくもない。折角の機会なので、ジャックは男の露店に居並ぶ商品の一つ一つに解説を求めた。卵のような形のモノは北方の大国が名産地の『分裂する人形』、ぐわんぐわんと頭を揺らす真っ赤な四つ足は東の島国から仕入れた『魔除けの牛』。額縁に飾られた幾何学紋様にしか見えない絵はとある売れない画家が若い頃に描いたものなど、快く答えてくれる男の解説を真面目に聞く。しかし選ぶ商品のセンスがジョンのそれに近い。喜んで買い付けそうなものばかりだ。


「後ろの大きいのは?」


「ああ、本棚だよ。少し古いが良い木材を使ってる頑丈な逸品でな、百年は壊れないって触れ込みさ。しかしこいつは売れねえぜ。何てったってお宅のジョンが買い付けてったからな」


「……ああ、うん、そして僕が店まで運ぶ予定だ」


「へへ、毎度あり。台車は貸してやるさ」


 思わず明日の搬入元を訪れてしまい、噂の商品まで下見が叶ってしまった。いかにもな重厚感を醸し出す大きな本棚の迫力に、明日の自分はきっと筋肉痛だろうという予感がしてならない。来るんじゃなかったかもしれないと少しばかり思わなくもないジャックは、澱むような気分で本棚を睨み付ける。

 ふと、その棚の中に、一個の木箱が仕舞われているのを見つけた。


「あれは?」


「ん? ……ああ、これな。欲しいって言うなら止めはしねえが、あんまりオススメしないぜ。うん、間違いなくお前さんの趣味じゃあねえ」


「何でそんな気乗りしない物を置いてるんですか」


「いやあ、タダ同然の拾い物だったからあちこちで並べてはいるんだが、どうも気味悪がられてな。見た目がこんなんじゃ無理ないけどよ」


 渋々といった様子で男が箱を取り上げ、ジャックの目の前まで持ってくる。前面の辺に付いている鍵を外すと、蓋が開いて中身が露わになる。

 中に入っていたのは、人形だった。

 着せられている服は所々が破れ、露出している肌の部分も煤けていた。しかし顔のパーツの中でも一際に、両眼は爛々と曇りなく輝くようだった。

 それは、


「…………これは」


「そういえばこの辺りが出自だったかな。戦後の骨董品さ。酔狂な男が仲間集めて作り上げた一大傑作の球体関節人形。よく見ると身体のあちこちに糸を取り付ける部分があって、操り人形みたいに動かすことも出来るんだと。それがどっかのルートからオークションにかけられて、好事家がとんでもない値段で落札した。以来、古今東西のコレクターの手に渡ってるって話だが、巡り巡って俺のところに廻ってきたってわけだ。俺が仕入れた当時はもうこんな有様でな、そんなお宝だってのも未だに信じられないんだが」


 話しながら木箱をべしべしと気楽に叩く男の声を、ジャックは半分ほど聞いていなかった。常の彼を知る者が見れば仰天するだろう、限界まで堂目する表情は、そのものまさに驚きの一色だった。

 その服の装飾を覚えている。他でもない自分が作ったものだ。

 その色あせた髪の色を覚えている。嫌々ながら手入れしていたものだ。

 その生意気な眼を覚えている。忌々しいばかりだと思っていた、宝石そのものの瞳だ。


『プリ・マ・ドンナ』――ジャックの親族が代々にわたって寵愛を施し、三年前にジャックが棄てた人形。


 見るも無惨な姿に変わり果ててはいるものの、間違いない。嫌というほどに向き合うしかなかった自分だからこそ、間違えようがない。

 喉が渇き切って声を出せなくなったジャックに構わず、男は喋り続けた。


「でもなあ、オススメできないのは見た目だけじゃなくてな。気色悪い噂がオマケに付いてやがるのさ」


「……どんな、ですか?」


「声掠れてんぞジャック。どうした? ジュース飲むか? 二件隣で売ってる怪しいやつだけどよ」


「いいから、何なんですか、その噂って」


 捲くし立てるようなジャックの勢いに少し圧されながら、男は箱の中身を指さした。


「ちっと薄暗いが、見えるか? 付属のこの糸。これがな、――真っ赤なんだよ」


「……赤?」


「そう。人の血のように赤く、縫い物用よりも細いくせにやたらしっかりしてる糸だ。普通、操り人形の糸ってのに着色するような真似はしないんだが……元からこうなのか、流浪の過程でいつの間に、って感じなのか。今となっちゃ誰にも解らない謎だが、これが気味悪くてな。俺にこいつを押しつけた野郎は、シケた小銭を握りしめて一目散に逃げてったよ」


 その原因でもある噂というのが、


「まあ、よくある話さ。オークションで競り落とした最初の持ち主が、ある日、事故に巻き込まれて大怪我をした。治療費を捻出するのにまた競りに出されて、そこで買い取った持ち主が不慮の事故に遭った。次々に人の手を渡っていくが、その度に持ち主が事故だの病気だのの不幸に見舞われる。その度に繰り糸が真っ赤に染まっていく。気味悪がった誰かがこう言った、持ち主の血を吸って不幸を運ぶ人形だ。付いた仇名が『呪いの糸引く厄憑きの姫』――ってな」


「…………」


「まあ所詮は噂よ。現に俺はピンピンしてるしな。けど実際、最近ちょいちょいと小さい不幸が無いわけじゃねえ。紙で指切ったり、小銭入れの底が破けてたり、目の前を馬車がもの凄い勢いで通り過ぎていったりな。実害はそれほどでも――小銭が知らん間に落ちていったのは大損だが、まあ、多少の信憑性は認めざるを得ないだけに、妙に気味が悪くてな。今までも一応売り込みはしてるんだが、誰も手に取ろうとすらしねえ」


「……そういう悪い噂を隠して売ればいいのでは?」


「バッカお前、アンティークってのはその背景にも価値が付くんだよ。第一俺のポリシーに反する。都合悪いことを黙って売り捌いたところで後々にケチ付けられて返品なんてことになりゃ本末転倒だしな。だから俺は、少なくとも商売中は隠し事は無しって決めてんだ」


「売れないわけですね」


「そうなんだよなぁ……ここは世界中から酔狂な奴が出入りする場所だから、誰かに押しつけられるかもしれないと思ってたんだが……望み薄だな。曰く付きって意味ならこの本棚にも色々あるんだが」


 それを押してでも買い付けたジョンの性根を疑うのは後にして、ジョンは人形の箱から目を背けた。綺麗に着飾っていたかつての美しさを失った人形は、それでもなお濁ることのない瞳はそのままに、ジャックをひたと見据えていた。

 露店売りの彼は、ジャックの出自を知らない。ジョンも特に吹聴しようとはしないので、どこからか転がり込んできた新入りという認識なのだろう。興味を失ったと思ったのか、男はいそいそとそれを片付ける。


「まあ、俺自身、お前さんに売るのは気が引ける。例え噂でもジョンの友達に不幸を押しつけるわけにゃいかんからな。もちろん、これ以外なら何でも買ってくれて構わないんだぜ」


「遠慮しときます。お気遣いどうも」


 腰を上げ、二言三言の挨拶を交わしてから、ジャックはその場を去った。

 フリーマーケットの様相にはもはや目もくれず、次第に速くなる歩調を止められずに、気が付けば家に着いていた。着替えもせずにベッドに倒れ、痛み始めた頭を抱えてシーツにくるまる。

 ジョンは、このことを知っていたのだろうか。知らない筈は無い。目当ての品物と同じ列に並んでいるのだ、買い付けのついでに間違いなく目を付け、中身を確認していたはずだ。あのニヤけたような口調も納得できる。


「……だからって、どうしろってんだ」


 巡り巡って、よりにもよって、あの人形はこの街に帰ってきた。ジャックの元に戻ってきた。

 何故、どうして、という問いに意味はない。ただの巡り合わせで、たまたまジャックの目に届いたというだけの話だ。

 そこに無視を通せるほど、ジャックは成長し切っていなかった。

 


    33.



 ピン、ポン、ポロロン――――


 広く、白い空間に、立っている。

 自分の他には誰も、何も存在しない。殺風景な景色だが、荒涼としていても不思議と寒くはない。どこか遠くから、聞き覚えのあるオルゴールのような音がする。

 夢を見ていると気付くまでに時間はかからなかった。そうと気付いていながら、いつの間にか――あるいは初めから、ジャックは歩いていた。

 歩いても、歩いても、どこまで行っても景色は変わらず、端の無い世界が広がるだけ。オルゴールの音の元も見つからない。

 何もない場所を、ただ歩く。目的もなく、その先に何があるかも知らず、もしかしたら何も無いのかもしれないという漠然とした不安が、じわじわと背中を追いかけてくる。

 白の空間はただ単に色彩が失われているだけで、空虚のイメージとしてそうなっているだけだった。


 ――帰らなければ。

 ――どこへ?


 帰る場所なんてどこにも無い。自分で棄てた。他でもない自分が、未来のために棄てた。それが有るばかりに何処へも行けないのだと判断して、たった一つの証明をかなぐり捨てた。

 そうすれば、もっとマシなところへ行けると思ったから。ちっぽけな身体に似合わない重荷を全て放り落として、一からやり直せば、自由になれると、奪われたものを取り戻せると――そうでもしなければ、縛られたままだと、決めたから。

 その結果、確かに今までとは全く違うところまでたどり着いた。苦悶に俯いてばかりの視点は前を向き、世界は広く、空は明るいのだと気付くことができた。色々なものに溢れ、道は幾本も伸び、そのどれもが続いているのだと知った。

 何処へ行くのも自分次第だと、そんな自由を知った。

 だが、道の一つを選択し、歩き始め――その矢先に、周囲の明度が下がっていった。眩しいほどに真っ白な世界は、曇天の夕方へ移り変わるように、歩を進める度に段々と薄暗くなっていく。

 白が灰へ、灰が黒へ、ゆっくりとグラデーションを変えていく。


 ――この先には、何も無い。


 自分で選んだ道を歩いたところで、どれほど進んでも、何も見つからない。懐かしいあの音は遠く響き、寂寥を駆り立てるばかりで、はっきりとは捉えられない。

 星の出ない夜のような闇に閉じ込められて、ようやくジャックは立ち止まった。

 立ち尽くした。

 これでは、何も変わらない。希望は用意されていないと思い知らされるだけで、あの頃と全く何も、変わりはしない。

 不毛、蒙昧、虚構、絶望。結局はこうなるしかない。


 ああ、それは、なんという、――恐ろしいことだろう。


 その恐怖を少年は知らない。どれだけ年を経ても逃れられず、むしろ老いれば老いるほど逃げ場を失う暗闇の大きさに、少年は初めて恐怖した。

 誰かの手が、冷たく背筋を撫でたような気がして、たまらず少年は走り出した。

 当て所なく、展望は端から用意されず、自らの手で切り拓くしかない……その不確実さから、逃げるしかなかった。


 そこは知らない場所だった。

 必死に走り逃げて、迷い込んだのがそこだった。

 虚無の床ではなく、板切れを継ぎ合わせた木の床だった。丹念に磨かれたフロアは遙か真上から注ぐスポットライトに煌めき、滑りやすそうだと、そんなことをふと思った。

 その景色を少年は知らないはずだった。これまでの人生で、しっかりとした舞台に立ったことなど、数えるほども有りはしなかった。だが、その景色に見覚えは無いのに、どこか馴染みのある場所のような感じがした。

 誰一人として観客のいない空席の劇場は、あまりにも虚しく、誰にも見られていないということが、やけに不安を煽った。


 だが、歌が聞こえる。

 声なき声。聞いたことがないのに、覚えている声。喉を震わせたことなど一度もないかのような、掠れた声。

 小さく、微かで、静寂にすら紛れてしまいそうな歌が、確かに聞こえる。



 たとえば私がヒトだったとして

  貴方は見惚れてくれるかしら

 傷だらけの手を握ったら

  少しくらいは焦ってほしい


 たとえば私がヒトだったとして

  貴方は抱いてくれるかしら

 欲張りで見栄っ張りな私だけど

  貴方がいなくちゃそうなれないの


 たとえば私がヒトだったとして

  貴方は踊ってくれるかしら

 私だけじゃ寂しいから

  手を取りあって歌いましょう


 たとえば私がヒトだったとして

  貴方は生きてくれるかしら

 私だけが全てじゃないわ

  世界を含めた貴方がいいの


 踊りましょう この手を引いて

  わたしは一人じゃ立ち上がれない

 この手をとって 連れていって

  つながる糸を 血のように染めて


 驚かないで 踊らせないで

  わたしもあなたも おんなじよ


 紡いで 結んで 忘れないで

  わたしがあなたと行きたいから

 息を合わせて しっかり聴いて

  わたしもあなたと生きたいから



 スポットライトは何かを照らしている。闇の中を丸く切り取る光は、少年よりも小さな何かを照らしている。

 それは、人形だった。


 金の髪をたなびかせ、自身が会心の出来としたドレスに身を包む、美しい少女の人形だった。

 膝を折って座り込む彼女は、しばらくしてから舞台袖に立ち竦む少年の存在に気付き、顔を上げた。眠たげに伏せられた瞼の奥から、瑠璃色の瞳が少年をまっすぐに見つめた。

 どちらも動かない。動けない。少女には地を這いずる力すらも与えられていない。

 その筈なのに、やがて人形の少女は、細い両腕を少年に向けて伸ばした。掌を開き、腕を大きく広げた。何かを迎えるような、あるいは求めるような、――そう、まるで抱擁を待つかのようだった。

 あの熱に冒された夜を思い出す。夢か現かも解らない、ベッドで魘される少年に人形が触れ、それを壊したあの日。誰かが何かを言ったあの瞬間を、今も鮮明に覚えている。

 彼女は多くの人間に等しく寵愛されていた。だが、与えられるばかりではなく、自分から誰かを求めることに気付いた。

 誰でも良い訳ではない。永い時間を経てようやく邂逅した、たった一人の少年を、少女は待っていた。

 時が経てばどちらも朽ちる。見る間に少女の姿は薄汚れていき、煤けて、それでも眼は少年から離れない。一方で少年は、自らの足が震えていることを感じた。

 そこはかつて自分が縛られていた場所だ。誰とも知れない意思に突き動かされ、滑稽に踊らされていた忌むべき舞台だ。

 少女を迎えに行くということは、再びそこに戻るということだ。

 そう思い、否、と思う。

 痛烈に感じるのは、不能となった己の両腕。世間が絶賛した人形劇を演じる天賦の腕前、それ自体が作品を構成する一つの芸術であった天才の証明は、磨耗の果てに爛れ落ちた。

 昔と違うのは、もはや繰り糸を持ち上げることすら出来なくなった、唯一にして最大の欠陥。


「それでもいいのか」


 かつてのように美しく舞うことは出来ない。あの日に感じた最大級の興奮はもう得られない。その先に行く道だけは、崖崩れのように断たれてしまった。

 お互いに存在する意義を失い、惰性のままに朽ちていくしかない未来だけが待っている、ただのガラクタだ。

 そう成り果てたというのに、それでも。

 それでもいいのか、とジャックは何度も問うた。

 泣き出しそうな顔が頷いた。懇願するように伸ばされた指の先には、あの赤い糸が絡まっていた。



 もらうばかりじゃ つまらないわ

  生まれて初めて あなたを恋うの



 歌が終わる。糸の繋がる先は見るまでもない。そればかりは断ち切ることが出来なかった。今になって尚も結ばれているとは思わなかったから。

 それが「自分の証明」になるかは解らない。

 だが、棄てたものをまた拾うことに、どんな意味があるだろう。

 未練がましいことかもしれない。女々しい感傷かもしれない。

 それでも、自分の意志で選択するということには、ならないだろうか。

 今度は自ら欲して、手を伸ばすのだと。

 

 誰でもないただの人間になった少年は、だからこそ――――…………


    34.


 朝告げの鶏が鳴くよりも早く少年は目覚め、寝室の奥の金庫に飛びついた。

 鍵を差し込み、ダイヤルを回し、開錠と同時に中の札束を引っ張り出す。どんな言い値をふっかけられようとも、いくらでも差し出せるだけの金を持って、すぐさま少年は家を出た。

 肌寒い空気の漂う早朝の街を、何処へともなく走る。宛てはないが、目標はある。噴水広場に行けば、必ず出会える。

 これで自分は、長年拒み続けたことを受け入れる羽目になる。

 それでもいい。

 糸の色は赤く鮮明で、それは自分の血と同じ。

 赤い糸に繋がった相手を二度と離さないために、何より自分がやっと見つけたものを目指して、少年は朝の街をひた走っていった。

 

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紡ぐ、たぐる、糸の色 sam @urbasam

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