第五節 perdendosi

    14.



 ある時節を境に、伝染病が流行り始めた。


 唐突に発生した病原菌の特定は難しく、それだけ対策も遅れて、病状はお構いなしに進行する。重篤な患者が大量に病院に運び込まれる事態となった。終息の気配が見えない流行ほど人を惑わせるものはなく、それが娯楽であればまだしも、凄惨な死を無限に広げる病は人々を不安と恐怖に陥れた。


 娯楽都市スクラップフィールドも例に漏れず、それどころか――感染拡大を防ぐ為、人を含めた一切の流通を断絶する国が出るほどの非常事態にも関わらず、流通無くして成り立たない街だからと、政治の都合によって大した施策は行われなかった。結果として、免疫の低下した街に古今東西の様々な疫病が運び込まれ、あっという間に冒涜され、死体の山が積み重なる地獄と化した。

 街の外に広がる長閑な田園風景は、少なくとも目に見える範囲全てに土葬の跡が残った。身元が判っていても、病原菌にまみれた死体を祖国に帰せば新たな感染原因となりかねない。返還を惜しまれつつ、多くの人々が見知らぬ土地に埋められた。穴を掘っては埋めるだけの人手にすら事欠き、十字架も立て掛けられない。追悼する余裕など現状では有り得なかった。それよりも、如何に自分の身を守るか、これ以上の死者を出さないために何をするのが最善かという、一向に進まない会議と、鬱憤が限界を超えた民衆の暴動が、目立つようになった。

 程なくして、最大限に用心していたはずのジャックも、病に伏した。

 留まることのない下痢と嘔吐、それに伴う脱水症状などなど、この世のありとあらゆる責め苦を寄せ集めた拷問のような症状が、年若い少年を襲った。

 高熱に浮かされていても、微かに残った理性は入院という最終手段を諦めていた。連日報道されている様子を見ると、慢性的な物資の不足で医療機関でさえ満足な治療が行えていない。寝床を変えたところで、食事の出所も上水道もこの街の中では共通だ。帝国からの援助も音沙汰無し。根本的回復が見込めないなら寝床が何処だろうと同じだし、それ以前に、もう外を出歩くだけの体力が残っていない。

 劇場は無期休業に入ったと手紙一枚の連絡が来た。ベッドの中で呻くだけ、解決策を待つだけの毎日が、下ろし金のようにジャックを削り取っていく。ジャックだけでなく、少なくとも周辺諸国では数万人が、こんな現状から抜け出せずにいた。

 何の天罰なのかも分からず、誰に怒りを向けるべきかも分からず、力尽きて倒れる者ばかりが増えていく。血気盛んにデモ隊が練り歩いていたはずの街が、だんだん静かになっていく。


 ――こんな最期も、悪くないかもしれない。


 朦朧と揺らぐ意識の中で、ジャックは何度となくそう思う。

 どうせ望まない定めに翻弄されるだけの人生なら、こうして誰もが「致し方無し」とかぶりを振るような結末の方が潔い。生きているのか死んでいるのか知らないが、一族の連中にも「ざまあみろ」と吐き捨ててやれる。亡霊にでもなってしまえば、愚かで憎たらしい祖父も祖母も父も母も一思いに呪い殺せる。ああ、それは良い。自分だけが死ぬのは我慢ならない。せめて道連れぐらいにはしてやらないと気が済まない。最初で最後の反抗がそんな結末になるなら、決して悪くはない。

 後悔が無いわけではないが、絶望したまま生きるよりは、コロッと死んだ方が気楽だ。病死なら悪者はいない。ただ運が悪かっただけと、誰もその死を責められない。

 ……ああ、そうか。

 ずっとずっと、死んだ方がマシだったんだ、この人生は。



    15.



 ピン、ポン、ポロロン―———


 散らかった部屋に、物音が起こった。

 一人暮らしの部屋の中、寝込んでいるジャック以外には誰もいないはずの静寂に、音がした。

 いつものオルゴールに魘される夢から覚めて、朦朧とした脳味噌はコソ泥の侵入音かと警戒したが、それにしても身体が動かない。自衛のために取っ組み合うどころか指の関節を曲げるのも億劫だ。口封じに始末されるか、無害と見なされ放っておかれるか……心境としては、いよいよ天使の迎えを覚悟する方に傾いている。

 どのみち致死率の高い伝染病を患った身だ。死ぬ予定が早いか遅いか、ほんの僅かな差でしかない。

 だが、ぼんやりと様子の変化を待っても、家捜しをするような物音はしなくなった。これだけ人気のない家だというのにずいぶん慎重な泥棒だと思うが、そうと思えば、微かに衣擦れのような音が耳に届く。

 熱に参った頭でも、その音が近いということは判った。

 距離を測るまでもない。音源はこの部屋の中、それもベッドの足下にある。泥棒ではなく鼠か、それとも虫が出たか、物を落とせるほどに大きいということはゴキブリか。存外に冷静な思考が巡る一方で、ベッドの下に知らない縦穴でも掘られて、そこから地底人か何かが這い出てきたのかもしれない、一階だから有り得る、と素っ頓狂な可能性も浮かんで消えた。

 泥棒でも地底人でも良いから、いっそ止めを刺してくれと願うジャックは、次いでベッドのシーツが引っ張られるのを感じた。その何かは、感触としてシーツを手繰り登ってきている。鼠の線が濃いかもしれないと思う一方で、実際のところそれは何なのかと、一抹の不安が病人の思考に差し込まれる。

 ずり、ずり、と不器用ながらも必死な様子が伝わってくる衣擦れの音は、それでも確実に頂上に登り詰め、やがて姿を現した。

 ——鼠にしては黄色い毛並みだ、と思う間もなく、ジャックはそれを見た瞬間に、これまで呑気に立てていた愉快な予想の全てを覆す。

 紫と思えるほどに濃い青の布地のリボン、次いで現れたのは金糸で編まれた艶やかな髪。よっこらせとばかりにベッドの頂上へ至る小さな手は、透き通るほどに白かった。

 ピン、ポン、ポロロン。オルゴールが、脳裏に響く。

 ジャックの商売道具、一族が長年寵愛する少女の型、この世に産み落とされて軽く百余年は経過するアンティークドール。

 その名をして、《ただ寵愛される舞踏の姫》(プリ・マ・ドンナ)。

「は…………」

 大仰な名を冠していても、それはただの人形だ。その筈だ。

 だから、これは夢だと、ジャックは思う。

 有り得ないではないか。繰り手の無い人形が自律的に動くなど、有り得ないではないか。独りでに箱から出てきて、床に着地して、ベッドを登り詰めてここまで来るなど、有り得ないではないか。

 ああ、何よりも。

 作り物で、代替品など無い筈の、常に人を見下し蔑むように固定された顔の部品が、歪んでいる。

 その顔は何だ。その表情は一体何だ。何なんだ。


 なんで、そんな、一丁前に泣きそうな顔をしているんだ。


 有り得ない。有り得ないじゃないか。夢でなければ有り得ないじゃないか。

 そうでなければ、こんな都合のいいことが、


 オルゴールの聞き馴染んだ旋律が熱に茹だる脳を叩く。

 人形はベッドの上を小さい歩幅で歩み寄り、ゆっくりと手を伸ばした。

 ジャックの頬に、触れる。赤子よりも小さく、氷のように冷たい手。だがそれは、これまで感じたことがないほどに、ヒトのように柔らかく、優しかった。

 金縛りに遭ったように固まるジャックは、それらを払いのけることもできなかった。

 肉薄した顔パーツの一点、突き出された何かが触れて離れ、


「     」


 涙に濁って聞き取れなかったが、それはあの日から待ち望んだ少女の声をしていた。



    16.



 水底から急速に浮かび上がるような意識の覚醒と共に、ジャックは飛びすさるように起き上がった。

 息が荒い。パジャマのままシャワーを浴びたのかというほどに汗が噴き出している。その反面、朦朧としていた視界ははっきりと覚め、寒気も感じなくなっていた。滝のような汗と倦怠感だけが不快である以外は、自分でも好調だと判るほどに戻っていた。

 ——治ったのか? 薬どころか、水も碌に飲んでなかったのに?

 どれだけ眠っていたのか。周囲を見回すと、そこは変わらずジャックの寝室だった。丸められた散り紙や飲み干された水瓶がそこら中に転がっているのは、記憶には無いが恐らく自分の仕業だろう。食塩の入った容器まであるあたり、意外と自分は落ち着いて対処していたらしい。

 それ以外には特に変わりない、いつも通り片付いていない部屋だった。むしろ知らぬ間に泥棒に荒らされた後なのだとしても気付かないぐらいの散らかりようで……、


「…………ん?」


 ふと、部屋の隅が目に映る。

 そこだけが妙にごちゃごちゃとしている。木片に木屑、細々とした金具が散乱し、それ以外にも小さな何かがバラバラになって、倒れていた。

 目を凝らして観察し、それが何なのかを認識し――その瞬間、ジャックは枕元に洗面器が準備されていたことに感謝した。シーツの洗濯は思うよりも面倒だということを、一人暮らしの過程で思い知っていたからだ。


「お、ぐッ……ぇぁ、げほッ」


 消化するものなど何もない胃の腑から、苦く酸っぱい液体が逆流しては吐き出されていく。それは数分にも及んだ。今度こそ死を覚悟する、最後の嘔吐だった。

 何が切欠になるのか解ったものではない。それが原因だとしても、それのどこが切欠として作用したのか、とうとうジャックには解らないことだらけだった。

 部屋の隅。

 そこには、叩きつけられた後のような格好で、五体が砕け散った人形の少女が力無く横たわっていた。

 表情に変わりはなかったものの――少し寂しげに見えたのは、幻覚の後遺症というものだろうか。



    17.



 市の発表によれば、事態の起こりから終息宣言までに二ヶ月が経過していたらしい。

 特効薬の開発までに半月を要し、回復率は右肩上がりになったものの、その間にも増え続けた病死者は最終的に四千人を数えた。

 ようやく復興支援として物資や人手が運び込まれ、墓標の無かった土地には合葬の解釈の元に立派な遺牌が築かれた。衛生基準に達していない世界各所の街では長期的な清掃が行われ、病床の人間は大病院にて経過観察、それ以外の野良の動物などは危険性があると判断された場合に限り殺処分となった。感染拡大を防ぐための本格的な対策がようやく取られたのである。

 一方で、財政の混乱し切った街の管理部門は人的及び物的損失を計上することすらままならず、当座を凌ぐ苦肉の策として、各世帯には一定の保障金が配られた。お世辞にも多いとは言えない、入院患者や死亡者の有無などの条件に関わらない固定額であったために多少の不満も漏れたようだが、貰える物を貰える内に貰っておかなければ余計に困窮するのみと判断した善良な一般市民諸君は大人しくしていることにした。

 スクラップフィールドの被害は特に甚大だった。あらゆる流通の中継地点でもあるこの街は病原体を運ぶ脚として機能してしまい、結果として近隣諸国に『黒い風』を送り込む一因となってしまった。

 事態を重く見た母体の帝国は、スクラップフィールドの解体を決意。街そのものを潰すことで責任感の現れを政治的にアピールしつつ、今後足手まといになりかねない面倒事を切り離しておくことが目的の、にべもない決断だった。

 職にあぶれた人々は、その大半が正規の企業に正式に雇われた従業員であったため、帝国本土での転職を保障された。しかし、帝国お抱えの企画であり、絶対的な庇護を約束されていた筈の劇場はといえば、劇団や奇術師などは様々な国から寄せ集めただけの集団だったために、その多くが故郷へ帰る選択をした。元より大して愛着のある土地でもなければ、こき使われていると薄々実感する者もいたのだろう。収入が望めなくなった途端に離れていき、何より劇団などの出演者にも少なくはない死者が出ている。どのみち劇場の運営は厳しいものだった。

 さて、どの団体にも属さないジャックはといえば——体調はものの、念のために薬を打ってから日帰りでの検査入院。

 その間に、二通の手紙が自宅に届いた。



    18.



「いらっしゃい」


 店の奥から、声変わり前のような、眠たげな声が小さく届いた。

 鈴の付いた重厚な木の扉を閉じると、窓という窓にカーテンをかけた室内は徹底的に外界の光を拒む。健気な春の陽光も全く入り込む隙のない薄闇を、ジャックは慣れた調子で進んでいった。

 足下に気を付けながら、声の挙がった方向――そこだけがオレンジ色にぼんやりと光っている場所へ進むと、〝工房〟の中に目当ての人物を見つける。


「こんにちは、ジョン」


「よおジャック。しばらくぶりだな」


 狭い部屋だ。電球一つのささやかな光量で充分に照らされるスペースに、あらん限りの道具が詰め込まれている。壁一面に張り出された大量の紙には設計図が黒々とするほどに書き込まれ、床やミシン台には色とりどりの端切れが散乱している。そんな中、作業台の定位置でジャックに振り返ったのは、部屋の中でも薄緑色の外套を羽織り、フードをすっぽりと被った姿の、少年または少女だった。

 スクラップフィールドの奥まった路地にひっそりと建つ小屋、生活雑貨の売買や小物の修理を請け負う『トムキャットの箱庭』の年若い店主、通称をジョンと言う。


「音沙汰もないからてっきり死んだと思ってたが」


 強い田舎訛りで言いながらジョンは来客の脇をすり抜け、店の表側に出ていった。壁のスイッチをパチンと入れると、天井に吊された妙に豪華なシャンデリアが煌々と薄闇を拭った。一斉に照らし出される店の内側は、数々の小物や装飾品、木彫りの置物などが所狭しと並べられる、店主の趣味を丸出しにした雑貨屋のようだった。

 ジョンは立派なカウンターの中に入り、対面のスツールに座るようジャックを促す。備え付けのセラーから手慣れた調子でグラス二つと果実酒の瓶を取り出し、適当に注ぎ始めた。


「寝たきりで死にかけてた。ジョンは平気だったのか?」


「ここ最近は引きこもってた方がむしろ安全だったぜ。戸も窓も開けなければ妙な病原菌も入ってこないからな」


「誰にでも真似できることじゃないな。元々客が少ないくせに、それでよく商売が成り立つもんだ」


「かと思えばお前みたいに馬鹿な客もたまに来る。そういう時に思いっ切りふんだくるのがコツだ」


阿漕あこぎめ」


「なんとでも言え。それで?」


 目深に被ったフードの奥から、ジョンは視線を飛ばす。


「今日はえらく大荷物じゃないか。何を持ってきた?」


 ジャックは右手に提げていた木箱をカウンターの上に乗せた。蓋を開け、巾着袋のように結ばれたハンカチの包みを取り出す。


「人形の修理を頼む。派手に壊した」


「は? 壊したって……うっわ」


 言いながらその中身を広げるジャックに、ジョンは不味そうな声を出した。

 大きめなハンカチの結び目を解くと、大小様々な何かがバラバラと外気に晒される。それらは人間の標本のように、手指や脚、胴や頭の形をしていた。それらが全てあるべき形に繋がっていない。

 全て、先日からそのまま回収された『プリ・マ・ドンナ』を構成する部品だった。

 元が出来の良い人形なだけに、より悲惨な有様となっているのを見て、ジョンは苦々しげに言った。


「こりゃ酷い。どういう八つ当たりをしたらこんな、まるで叩きつけたみたいな具合になるんだ? どんなに寝相が悪くったってこうはならんぞ」


 いきなり核心を突くジョンの言葉に、ジャックは気まずくも言い訳がましく返す。


「……気が付いたらこうなってたんだ」


「とうとうハンマーでも持ち出したか?」


「違う。わざわざそこまで念は入れない」


「ま、でなけりゃ修理しろなんて抜かしはしないか。……それにしたってな」


 ジョンはその店構えからして目立たないものの、修理屋としては街で一番の腕前を誇る。特に人形やぬいぐるみの修理には特別秀でていて、惨たらしく腕が引きちぎられていようが腹綿がはみ出ていようが、ものの小一時間で完璧に直してみせるほどの器用さを売りにしている。ジャックが〝人形使いマスター〟であるならば、ジョンはいわゆる〝人形師マイスター〟だった。

 ともすればジャックよりも優れた天賦のものを持つ店主をして、その声色は明らかに乗り気ではなかった。


「この特注品を直せってか? 百年前にその時代最高峰の職人が作った一点物の成れの果てを?」


「さすがに無理か?」


「パーツは揃ってんだろうな」


「箒と塵取りで一面掃いて拾った。これで全部だ」


「……ったく、希代の芸術品への扱いとは思えねえな。割れてなきゃいいんだが」


 ジョンはドールの成れの果てとなった屑山を丁寧に持ち上げ、奥の工房に素早く運んでいった。その様子を見ながら、ジャックはグラスに満たされた甘い果汁に口を付ける。

 ジョンと出会ってから、もう半年以上になる。街に越してからようやく慣れ始め、その折りに数日の連休を貰ったことからぶらぶらと散歩していた時、たまたまこの店を見つけた。「開店中」の看板が申し訳程度にかけられていたものの、窓はカーテンを閉め切られ、中から一切物音が聞こえないなど、初見ではまず入ろうと思わないはずの店構えなのだが、その日のジャックは気まぐれに扉を開いた。

 小物などの雑貨商が主だが、骨董品収集の趣味が高じて縫いぐるみや人形の修理も受けているという話を聞き、以来ジャックは定期的にドールを診てもらっている。ジョンも噂には聴きかじっていたようで、『プリ・マ・ドンナ』の実物を見せたときには大仰に驚いていた。

 昼夜問わず接客中だろうと頑なにフードを退けようとせず、通称の『ジョン』以外には本名も性別も明かさない意固地さが気に入ったのだろうか。(恐らく)歳が近いということもあって、二人は何となく交友関係になった。気兼ねなく頼みごとをして、特筆することもない世間話に興じて、代わりに修繕費などの代金はきっちりもぎ取るという、——変に気遣われるよりも心地良い、ジャックにとって希有な友人になっていった。


「……しかし、ジャック。劇場は潰れたって噂で聴いたぜ。人形直すのは良いが使うアテはあるのかよ、人形嫌い」


「…………」


 それほど広くない店内では、工房とカウンターで間を隔てても充分に声は届く。ジャックはグラスを傾けつつ、また、私設病院から帰ってきた日に届いていた手紙を思い出しながら応えた。


「手紙が届いたんだ。二通。一つは劇場の運営が止まるっていう通告と、最後の無料公演の予定表」


「無料公演? 初日にやったアレか。え、またやんの? 潰れたのに?」


 差出人はラインデルフだった。帝国の役所に出戻りになったはずだが、まだ劇場経営を諦めていないらしく、運営委員会とは無関係にあくまで独断で催すとのことだった。


「切り捨てられた腹いせだと思う。収益も何もないけど、やらなきゃ虫が治まらないんじゃないか」


「ははぁ、蜥蜴の尻尾切りには最後っ屁をふっかけるってわけか。嫌いじゃねえなあ。てかそれギャラ出んの?」


「いや、出演者も裏方の仕事もボランティア。採算度外視でもやりたい奴だけ集まって、やれるだけやろうっていう主旨」


「そりゃまた、病み上がりの街にゃ過剰な期待だな。……ん? ってことはジャック、やる気かお前」


「正直、そうでもない。でも、呼び出しがかかった時に備えて、道具の手入れぐらいはしないとさ」


「どーゆー風の吹き回しだ? 金も入らんのに人形劇なんて、お前らしくもない」


「……さあ、な。用意はするけど、当日になってサボる可能性も大いにある。暇だからってだけで出ていくかもしれない。その時の気分で決めるさ」


 気分次第というのは紛れもなく本音だった。劇場に雇われていた従業員の多くがさとに帰ったように、ジャックもあの場所に殊更の思い入れがある訳ではない。声はかかっているものの、参加は自由、報酬どころか足が出るかもしれないという注意書きがあっては、積極的に協力してやる義理もなかった。

 それでも商売道具の手入れは欠かさなかったここ数日の自分を思うと、悪い気はしていないのかもしれないと、我ながらに思う。


「ふうん? ……もう一通は?」


 珍しそうに相槌を打つジョンは、すかさず話題の続きを促した。

 少し言い淀んでから、ジャックは独白を再開した。


「実家から。どうやって宛先を知ったのか知らないけど、母から送られてきた」


「ああ、ほぼ絶縁状態って話の。中身は?」


「爺さんが死んだ」


 さすがに茶化すのは不謹慎と受け取ったのか、ジョンは押し黙った。その気遣いが有り難いと、ジャックは思った。

 その訃報を受けた時、少なからぬ衝撃が少年を見舞った。ジャックを人形使いにするために厳しい修行を課した張本人、ジャックの人形嫌いをある意味で助長した一端でもある祖父が、とうとうこの世を去った。

 手紙をしたためたのは母だった。震えた筆跡、所々に滲んだインクの形跡からして、あちらはもっと衝撃的であったらしい。


「元々老衰してたけど、流行病が止めを刺したらしい。葬式は身内だけでしめやかに済ませた、と」


「ずいぶん淡泊だな。その報告だけかよ?」


「墓前にぐらい顔出せって追記されてた」


「だろうな。行くのか?」


「行くわけないだろ」


「だろうな」


 実際のところ、文面には祖父の今際の際が事細かに描写されていた。もともと優れなかった体調に追い打つかのごとく病気が流行り、老人の寿命は急速に奪われていった。二周り以上も若いジャックですらあれほど苦しんだのだから、老人にはもはや抗うだけの体力も無かっただろう。高熱と嘔吐に苛まれ、その最期は地獄のような悶絶と呻きに彩られ、ぷっつりと糸が切れるように逝ったと言う。享年七十八歳、集まれるだけの親戚を集めた大往生だったという。

 そして、事切れる直前に、ジャックの――独り立ちした孫の身を案じる言葉だけ遺した、と。

 正直その部分は母の脚色である疑いも晴れていない程度には家族を信用していないジャックだが、それにしても、祖父の死はとても大きな意味を持つ出来事には違いなかった。


「複雑な気分だよ。あのクソジジイ、さっさと死んでしまえってずっと思ってたんだけど……いざこうなると、何というか、――複雑な気分だ」


「余所様のご家庭に口を出したくはねえが、清々するってもんじゃねえのか?」


 いつか世間話の一環として自身の身の上を話していたことから、ジョンは『スクラップフィールドのジャック』のお家事情の大体を把握している。気楽に、あるいは軽率に話していられるのはその為だ。ジャックは自分の中に言葉を探しながら、少しずつ続けていった。


「それもある。でも、……なんだか、今まで自分をふん縛っていた太い縄が、急に解けたような感じなんだ。でも、それから解放されたところで、何かが変わる訳じゃない。目先は相変わらず真っ暗なままだ」


「人形も人形劇も、嫌いなまま?」


「ああ。それは変わらない。わざわざ修理に出している自分が未だによく解らないぐらいだ」


「それはこっちも不思議なところだけどな。……そんなもんかね、親族を亡くすってのは」


「ジョンは、そういうのはないのか?」


「下手すりゃお前より深刻だぜ。親子の縁はとっくの昔に切られてる。家出た時は怒鳴るわ喚くわ物壊すわの大騒ぎさ。身軽に気ままに自由に生きていくための代償と思えば軽いもんだが、そんなわけだから、家族が今どこで何やってるのか生きてるのか死んでるのかも全く知らない」


 奥で作業中のジョンは声だけでそんな返答をする。何の気無しに言ってみせているが、ジャックはその話を初めて聞いた。自分のことをまるで明かさないジョンが、ほんの僅かであっても過去を口にした。「そうだったのか」と、素っ気ない応答を申し訳程度に返しておく。苦笑するような気配がした。


「まあ、どこも面白くない話さ。唯一の実があるとすれば、そんな解放から何をするか、ってところだ」


「……何を、するか」


「そ。人形嫌いの人形使いを育てた原因が消えて無くなった。話聞いた感じ、爺さん以外の親類縁者はまだ何か言ってきそうだが、それにしても大きな存在が欠けたことには違いない。お前の言う通り、雁字搦めの束縛から解放されて、でも目の前の景色はちっとも変わらなくて、――そこまで認識できてるなら、後はもう、これから何を成すかだ。世界に自分が生きた軌跡を遺す、それこそが人間の生き甲斐ってもんよ」


「うちの爺さんも、何かを遺したか?」


「俗な言い方だが、結婚して子供産んで家系を繋いだ。ご先祖様の遺した人形や人形劇を継いで、孫にとっては不本意でも、それは元の姿のまま残り続けてる。そういう成果さ。お前の爺さんは、大事な物を残すってことを成したんだ。人ひとりの人生としちゃ充分大したことだろ」


 下らない、と、少し以前のジャックならば躊躇い無く吐き捨てただろう。

 だが、今はそうは思わなかった。奥から届いてくるジョンの言葉を聞き続ける。


「毎度思うけどな。――ジャック。お前、人形使い、辞めたらどうだ?」


「……それが出来たら苦労はしてないって、言わなかったか?」


「解ってるよ。でもなあ、つくづく勿体無いんだ」


 言いながら、ジョンは奥の工房からのそのそと出てきた。手には丸めた何故か羊皮紙を携えている。


「直った?」


「ンな訳あるか馬鹿。つっても見た感じ主要な関節パーツが外れただけだから、くっつければ良いだけの話だ。部品が欠けてるわけでもないし、二時間もあれば返せる」


「そうか。……それは?」


「設計図だよ。あのドールの」


 ひらひらと紙を見せびらかすジョンに、思わずジャックは目を見張った。制作当時の『プリ・マ・ドンナ』の設計図は実家に厳重に保管されていると聞いている。ジョンが持っている訳がないのだが。

 そんな様子のジャックを見て、苦笑しつつジョンはカウンターの上に図面を広げた。


「心配すんな。これは自分で作ったやつだ。初めて見せられたときからちまちまと、まあ、想像でな」


「想像で? 何のために」


「珍しいもんとか、作りの良い売り物を見ると、『自分で作ったらどうなるだろう』とか思うタチでな。よくやるんだ。バラバラになった人形なんて滅多に出くわさないし、この機会に仕上げてみたんだ。まったく観察すればするほど惚れ惚れするぜ」


 ジャックの側に見やすいように広げられた羊皮紙には、まず中心に『プリ・マ・ドンナ』の全身像がラフで描かれており、各部への注釈が周辺の余白を埋め尽くしていた。見たところ、材質などに関する考察が大体を占めている。


「お前の意思はこの際置いておく。それは『創られたもの』には関係のないことだ。曾祖父さんが、その有志が作り上げたドールも演目も、世間の評価通り、誰にでも真似できる代物じゃない。骨董屋として言いたいんだが、特にこのドールは一世紀経った今、月日を得たからこそ馬鹿高い値打ちになるんだぜ」


 そう言いながら、ジョンはローブの裾から小さな手を出して、紙面の上をてきぱきと指していく。手作業の職人らしい、切り傷などが目立つ手だった。


「例えばこの髪。当時最高品質の羊毛をなめして作られたもので、丁寧な処理とアフターケアのおかげでほとんど傷んでいない。金の着色も抜けてないし、この手触りだけでもアンティークとは信じられない出来栄えだ。

 目に使われてる石なんか本物の宝石だぜ。東国由来のものだが、採掘量が極端に少なくて一気に高騰してる。深い藍に星のような輝石の破片が散らばってるのが特徴で、地質の変化や火山活動なんかがいくつも重なって出来上がる希少な石だ。人工のガラス玉よりも透明感があるし、目に見える奥行きは天然物でもそうそう出ない。オークションの価格競争次第で家が建つ。

 素体の大部分は熱した樹脂を型に流し込む製造法だが、これも当時は珍しい技術だった。それに加えて強度に物凄い気を遣われていて、薄くなりすぎず、でも、パーツ全体で重くなりがちな頭部とのバランスを見事に保つよう、ほとんど削らずに作っている。型の精度がとんでもなく正確なんだ。

 ――全て腕っこきの職人の業だ。人形一つ仕上げるのには度を超しているぐらいの、な」


 ドールへの考察をそうまとめたジョンの声音は、目を輝かせるような楽しげなそれではなく、むしろ蟲を噛み潰したような苦々しいものだった。フードの奥の表情は伺い知れないが、声には明らかな畏怖の感情が乗っている。どことなく悔しそうだ、とジャックは思った。


「これだけ作り込まれていて、経年劣化もせず正常に稼働している。ただそれだけで、誰が何と言おうとこれは〝良いもの〟だ。一族を上げて後世に残そうとする気持ちも当然だ。心底惚れ込んでたんだろう。言っちゃなんだが見る目あるぜ、お前の家庭」


「……審美眼はともかく、方針に難がある」


「ごもっとも。ともあれ、これほどの最上級品は今まで見たことがなかった。このジョンが手に触れることすら躊躇うぐらいさ。修理なんて気が引ける。まかり間違ってうっかり壊しちまいそうになるぐらい精巧で、繊細だ。『スチームスポットのジャック』以外の人間が触れることを拒むような、そんな感じがする」


「泣き言なんて珍しいな。お前に限って物を壊すだなんて、それこそ有り得ない話だろう」


 どうやら相当お気に召しているらしい。どいつもこいつも物好きなことだとジャックは常のように思いつつ、そこに以前ほどの拒絶感は無かった。相手がジョンだからか、それとも――。


「そうさ、このドールには傍目で見るだけで、目の肥えた人間さえも惹きつける魅力がある。逆に言えば、お前が何も解ってねえんだ、ジャック」


「…………」


 そこでジャックはようやく気付いた。ジョンが自分に向ける声色に僅かばかりの棘があることを。


「解ってないのさ。そりゃ確かに、耳にタコができるぐらい聞き飽きてるだろうよ。だけどな、今だからこそ、いつまでもそっぽ向いてないで考えてみるべきだぜ。それがお前の今後を決めるヒントにもなる」


「どういうことだ?」


「こいつは人の情の集大成だ。いろんな分野の職人が魂込めて完成させた〝少女そのもの〟なのさ」


 ジョンの言っている意味が理解できず、ジャックは大人しく傾聴することにした。聞く姿勢には言ったと見たのか、ジョンは再び長広舌を振るいにかかる。


「磨き抜かれた球体関節も、計算し尽くして打ち込まれた繰り糸も、限りなく人間に近い動き方をするために設計されたものだ。全てのパーツの原価がとんでもなく贅沢なのは、それこそ我が子を育てる親のような愛情があってこそだ。子供は綺麗に着飾らせてやりたいって思うのが親の情ってもんだろ。人間の子供は親の着せ替え人形じゃねえが、実際こいつは人形だ。拘れば拘るだけ美しくなる。誰もが夢見た理想を叶えられるのが創作の良いところだ。そこには当然、試行錯誤と四苦八苦が付きまとうが、完成した瞬間の悦楽は何物にも代え難い。オレにはよく解る」


「……それは、修理屋としての考え方か?」


「修理屋ってのは大抵そいつを一から組み立てるぐらいの物好きなんだよ。オレも趣味で人形作りはやるが、ここまでの完成度は到底無理だ」


 苦々しい声音の原因はそれか、と思うが、ジャックは言わない。


「言ってみれば、これは〝理想の少女〟の偶像だ。宗教家が掲げる十字架だの聖書だのと本質は同じ。発起人である曾祖父さんと意気投合した信者職人が、同じ完成系を目指して、それぞれの分野の最善を尽くした。人を愛し、人に愛される感情が形を得て存在するように、信仰の象徴をここに打ち立てた。—―要はお前の曾祖父さんと愉快な仲間達は時代を先取りした少女志向だった。病気ってぐらいにな」


「良い話だと思ったのに途端に残念になった」


「いいんだよ。たぶん事実だ。言っとくがお前もその血を引いてるんだぞ」


「げえ」


 まあ、とジョンは軽口ついでに一呼吸を置き、


「それだけ執念深く作り込まれてんだ。いっそ独りでに立ち上がって動き回っても不思議じゃないわな」


「…………」


 つい先日、そんなような幻覚を見たばかりのジャックは「何故知ってるんだ」という思いとともに、改めて目の前に広げられている設計図を見つめる。


「そしてお前は、それを壊した」


「…………」


「寝ぼけてたんだかうなされてたんだかしらねえが、とんでもねえぜ。お前がどう思ってようと、とんでもないことだ」


「反省してる、と言えば満足か?」


「そうじゃない。さっきも言ったろ、よく考えろって」


 詰問するような気迫はそのままに、ジョンはあくまで諭すように言った。


「あんな絶世の美女を、お前はただの道具としてしか見ていない。オレが勿体無いって言ってんのはそういうところだ。ただただ嫌気の表象として扱ってるだけの現状が勿体無い。アレはそんなもののために使われるものじゃない。あんまりにもお粗末、無体ってもんだ」


 ジョンは気紛れにジャックの人形劇を観に足を運ぶことがある。《ただ寵愛される舞踏の姫》を直に見ている友人は、だからこその忠告を口にする。


「別にお前を貶してる訳じゃない。お前の腕もまた間違いなく一級品だ。お前なら市販のパペットでアドリブしても充分に客を楽しませてやれるだろうさ。だけど、それだけの腕があるからこそ、あの人形の奇跡的な造型を存分に動かすだけの繰り手として、お前以上の人間はいない。まあ、そうなるように、そのためだけに育てられたって話だが……お前と人形、二つがガチッと組み合ったからこそ、お前にとっては意味不明でも、多くの客には盛大にウケた。たぶん爺さんの代からそうなんだろう。田舎町で長い間ささやかに秘匿され続けたからこそ、娯楽に溢れたスクラップフィールドでも通じた。新鮮味としても良いスパイスになった。だが――」


「一発きりのネタは長続きしない?」


 ジョンの言葉尻を奪う形で、ジャックが言う。ジョンは否定することもなく、ただ頷いた。


「それだけじゃない。そろそろ限界だろ、お前自身」


「…………」


 無意識に、腕の健を片手がさすった。

 スクラップフィールドに越してから一年が経とうとしている。育ち盛りにあってまともな食事を取れなかったジャックは背丈も体重も平均より下だったが、最近になって財布の中身に余裕ができるようになり、成長期が蓄えたエネルギーが如実に身体に現れ始めている。見た目だけならそろそろ少年という部類からも卒業だろうという頃合いだが、その分、過去に積み重ねてきた無茶も今になってツケを払わせようとしていた。

 両手が思うように動かないことが多くなった。精神状態は昔よりも安定するようになったが、それと関わりなく指先が痙攣するようになった。

 体格に見合わない大きく無骨な繰板、体力と集中力の限界まで追い詰められる長丁場の演目――それらは慣れるという類のものではなく、そもそもの素質と相性が如実に現れる。ジャックは最高の相性になるよう育てられたが、完璧ではない。身体の損傷は着実に蓄積されている。


「その点でも、僕は親を恨むべきだろうな」


「医者には診せたのか?」


「日常生活で困ってる訳じゃない。それに、壊れるなら壊れるで好都合だ。父さんと同じ末路だけど、幸い僕にはまだ妻というものがいないし、そのアテもない」


「へ、親戚一同から何言われるか解ったもんじゃねえけどな。まあ、それはお前の好きにすりゃ良い。問題は、もし故障した時、その後をどうするかって話だ」


 それは、ジャックの長年の苦悩だった。

 逃げ出したいほどに嫌悪する一族の伝統。他に生きる術が無いからと縋りつくしかない自分が情けない。前にも後にも動けず、人形劇を演じるしか選択肢の無い人生。

 ジョンは、それを改めて考えるべきだと言った。


「人形使い以外の能が無いとか言ってるが、年もまだ若いんだし、肉体労働でも事務仕事でも選り好みしなければ食い扶持はいくらでもあるぞ? 最近は流行病の復興の為にあちこちが人手を募集してる。それにのっかるって手もある」


「お前ならやるか?」


「断じて嫌だね」


「僕もさ。……いや、解ってるよ。無職になった今、贅沢は言ってられないってことぐらいは」


 それに、とジャックは言葉を繋いだ。


「最近は、そういうのも悪くないと思うようになったんだ。この街に来て一年、いろんな仕事を見てきたから」


「ほお?」


「期待はしてないんだけど、この店に雇ってもらうってのはどうだ?」


「ふざけんな。ウチは人手にゃ困ってない」


「だろうね」


 ともあれ、ジャックは思う。

 言われるまでもなく、遅かれ早かれ直面する問題だ。劇場の運営が倒れた以上、次の働き口を探すのは最優先事項だった。今までにも考えていないわけではなかったが、こうも事態が急転すると身辺整理する暇もない。

 現実味のある道はいくつかある。

 ジョンの言うように、復興支援の手助け、またはこの街のどこかで働くか。

 別の国や街に旅立ち、そこでまた人形劇をやるか。

 もしくは大人しく実家に帰るか。

 最後の選択は出来るだけ避けたいのだが、そうなると、ジャックは今後もまた人形劇によって生活を立てていくことになる。《ただ寵愛される舞踏の姫》しか演目を持たない人形使いが世界を漫遊し、その名が世界に知れ渡るとすれば一族の人間は諸手を挙げて賛同するだろう。考えるだけで腹が立つ上に、「まだやらなきゃならないのか」という思いも湧く。

 スチームスポットの曇り空を眺めながら、緩やかに絶望していた一昔前。少しは進歩したものと思っていたが、また逆戻りだ。

 だからこそ、ここが別れ道なのかもしれない。


「……他の道、か」


「確かにお前の一族は人形劇を後世に語り継ぐために今までやってきた。それは美談だし、尊いものだと評価されるだろうさ。でも、当代の〝ジャック〟が、時代に合わせてどういう判断をするかは、そいつ次第だろ? お前も一人の人間だ。良い機会だと思うぜ」


 故郷の町は呪縛のようなものだった。口実も機会も無い以上はそこに縛られるしかなかった日々が、スクラップフィールドに来てからは実に狭い考え方だということも薄々解ってきた。


 人形使いとして毎日を追われる人生も、人々のように平凡な日常を食い潰す人生も、選ぶことができるのだと。


「考えてみるよ。ラインデルフに口利きすれば、どこか紹介してくれるかもしれないし」


「劇場の元支配人だっけか? ……まあ、ホントに退っ引きならなくなったら、ここでこき使ってやらんでもない。そうはなってほしくないけどな」


 言いつつ設計図を丸め直し、ジョンは奥の工房に戻っていった。人形修理の作業を再開するのだろう。

 その途中で、ジョンはくるりと踵を返し、


「なあ。オレもあの人形のファンだし、お前が演る人形劇のファンの一人だ。もう何回かは見てみたいと思ってる。……最終的にはお前の意向だが、そういう奴もいるってことを忘れんなよ?」


「うん」


 苦笑しつつ、ジャックはそれに返した。今まで他人に言ったことのない、様々な意味を込めて友人へ、


「ありがとう」

 


    19.



 その日の内に人形は修復された。見慣れた姿の五体満足に戻ったばかりか、各パーツにこびりついていた僅かな汚れなども徹底的に落とされ、以前よりもきらびやかにすら見える仕上がりとなった。店主が突き出した予想通りな金額をきっちり支払い、ジャックは夕方になって自宅に戻った。

 部屋の明かりをつけ、ダイニングテーブルの上に人形の箱を置く。この広い家もじきに引き払わなければならない。それも含めて考えなければならないことは腐るほどあった。チェアーに腰掛け、豆から挽いたコーヒーを飲みながら、目の前の人形に正面から向き合う。

 自分がこれまで人形使いを続けてきたのは何故か。

 一族の厳しい修行に耐えたのも、免許皆伝の後も、惰性のままに繰り糸を持って人形を舞わせ続けたのも、一体どのような理由が自分の中に在ったのか。

 劇場が潰れ、祖父が死に、精神的にジャックを縛るものは無くなった。ならば、ここに留まり居続ける意味も無い。

 ただ、断ち切らなければならない何かが残っている。

 視界の端に映るのは一枚の封書。少年の決断は、夕飯前にはあっさり下されるほどに解り切っていた。


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