第四節 capriccioso
12.
それから、数ヶ月が経った。
「お疲れ様です、ジャック」
客が捌けていった後、垂れ幕の奥に退がって一息をついていると、劇場支配人のラインデルフが顔を見せた。
上演直後で疲労に軋む両腕を隠しながら、ジャックは雇用主に対して向けるそれとは思えない半目で彼を迎えた。
「どーも」
「今日も
彼は小脇に何らかの紙束を挟み、右手に洒落た
劇場は営業終了の時間だ。誰もいない客席に遠慮なく腰を落ち着け、恭しくカップに濃い色のコーヒーを手酌しながら、ラインデルフは言った。
「ここでの暮らしには慣れましたか? 出来るだけ近い物件を探しましたが、自宅から劇場までの往復も楽な距離ではないでしょう」
「いえ、まあ、以前から歩くのが半分仕事のようなものでしたし。荷車がこんなカラクリですからね」
「腕の良い技師を当たれば、全て自動化することも不可能ではないと思いますが……」
「……今更仕様を変えるのも面倒ですので。それに、これで一応は実家の貴重な財産でもありますから、勝手に
「それもそうですな。私もこの劇場建設に携わる際に各国の先端技術を見て周ったものですが、これほど精巧な仕掛けもそうそう見たことが無い。まして原理の大半がゼンマイと歯車によるものとは……。『スチームスポットのジャック』御一族、ひいてはその先人の
ラインデルフの世間話をどうでもいいとばかりに受け流しながら、ジャックはカップに入ったコーヒーに口を付けた。雑味混じりの苦く熱い液体が、口の内側に滲み入っていく。
劇場の封切り、そしてジャックがこの街で人形劇を披露するようになってから、早くも数ヶ月が経った。初日から一週間の無料入場期間を終えて本格的に有料での公開となったが、初日の熱量に比べれば客足は少々減りはしたものの、それでも来場者数は一定の水準を保っていた。大ホールで催される派手なサーカスやミュージカルの人気もさることながら、ジャックの人形劇 《ただ寵愛される舞踏の姫》もなかなかの好評を博していた。
スクラップフィールドは大陸内における有力諸国の間に位置する地理であり、必然的に人の往来が多い。娯楽の街として、またはそれゆえに働き口の多い街であるため、むしろ定住者は少ない部類である。様々な人間が頻繁に出入りするため、観光業を主とするスクラップフィールドとしては常に収入の絶えない要因となっている。だからこそ、街の評判や噂はあっという間に外国へ流れていく。
一週間という時間を費やして、新劇場での出し物の評判は好印象のまま広く伝わっていった。その中には勿論、ジャックの噂も含まれていたというわけだ。
――スチームスポットに生家を置く御一族であるからこそ、あそこを拠点として活動していた事情も解りますが……やはり、都会の宣伝力、伝播の速さには目を
動員数の衰えない状況に驚いたジャックに対して、ラインデルフがいつだかに言ったことだ。確かにその通り、噂が噂を呼び、劇場には遠方からも多くの観客が訪れてきた。
他人の噂話に興味のないジャックは、必然、自分に関わる評判にのみ関心を寄せる。人形劇の開演直前に客席から挙がる期待の声、上演後に満足そうに各々が口にする感想の羅列。手を止めずに聞き耳だけはしっかり立てているジャックは、その全てを覚えている。少なくとも、不満の声はあまり聞こえなかった。ジャックの劇を観た客は、そのほとんどが満足そうな表情を浮かべていた。今日も、昨日も、その前も。二度か三度、足繁く通っている者もいるらしい。
「人形劇のみでの収益であれば、これはとても好調な部類です。特設のテントを使っているとはいえ、単独での動員と考えればかなりのものですよ」
「……何のことですか?」
見透かしたようなことを言うラインデルフに一瞬驚いたが、次いで渡された紙束にその意味を知る。
「営業利益の話です。今日の運営委員会で発表された、この六ヶ月で挙げた我々の数字、成果です。決算会議も兼ねられていたのですが、おかげさまで当面は経費で不自由せずに済みそうです」
月締めのタイミングで配布される明細書だ。表として書き出された目眩がするほどの数字の羅列。知った名前、知らない名前が順に並び、中ほどにジャックの名前があった。一番下には、それぞれの出演者が稼いだ収支の合計が載っている。
ジャックは、自分の欄に印字されている数字を凝視した。ここに来てから簡単な経費算出などがすっかり身に付いた少年にとって、十数桁に及ぶそれがかつて日銭でやりくりしていた頃とは比べ物にならないほどの収入を表していると瞬時に判断する。
「来週末には、そこに書かれているだけの給料をお支払いすることになります。次の給料日まで、多少の贅沢をしつつ暮らしても余りある程度の額ではあるかと。異論があれば交渉次第で上がりも下がりもしますが」
「結構です。これで確定してください」
「かしこまりました。ではここにサインを」
小洒落たペンを渡され、ジャックは紙束を数枚めくったところに残された空欄の枠に自分の名前を書き込んだ。今回は直近の月収よりも少し上がっている。動員数が増した影響だろう。
ペン先から滴るインクを丁寧に拭き取りながら、改めてジャックは自身が挙げた成果とやらを見返した。入場者統計らしき数字はこの期間で五桁に達している。テントの収容人数三十席ほどが毎日ほぼ満席、一日三公演を目途として、週六日出勤していると考えれば、簡単な計算でも確かにこのような数にはなるが、未だに少年には推し量りきれない規模だった。
食い入るように表を見つめるジャックに、ラインデルフは苦笑しつつ言った。
「ジャック、慣れない土地で大変だったろうに、ここまで客を賑わせてくれたことを感謝します。あなたほどの腕前であればと確信しつつ、正直なところ一抹の不安もあったのですが……あなたの人形劇は広く、多くの人々に賛美されている。ここまでの成果が出たことに私自身驚いてもいます。ですが紛れもなく、これはあなたと、あなたの御一族が編み出した人形劇の真価が、ようやく大衆に受け入れられたということの証左なのですよ」
そう聞いて、ふっと、ジャックの意識が現実に戻った。
ジャックとその一族の成果。真価を受け入れられ、だからこそ数字が出た。
それがジャックの収入となり、日々の糧となる。温かい食事と丈夫な家、清潔なベッドは支払われた給与によって支えられ、その給与の大元は劇場の収益とされた莫大量のチケット代であり、その山の一部はジャックの人形劇を観るために支払われ、それはつまり、劇そのものが、そしてあの人形が、誰の抵抗に触れることなく受け入れられているということで――――、
「…………」
ジャックは思い出す。初日、ここで初めて 《ただ寵愛される舞踏の姫》を打った、まさに第一回。スタンディングオベーションで万雷の拍手を浴びたあの時、感じたものは失望だった。
こいつらは何も解っていない。こいつらには何も伝わっていない。
そう思い、何故そう思ったのかが解らないまま、ただ漠然と感じながら、ジャックは今日までを過ごしてきた。
考え返すまでも無く、ジャックは昔から一貫して、人形が嫌いだ。特にこの『プリ・マ・ドンナ』は、許されるなら破棄してしまいたいほどに。
だが、人々はこれを絶賛し、躊躇無く金を払い、返金を要求されることも、そんな野次すら一度も無く、あまつさえ足繁く通う者まで現われる始末。
好評だということ、受け入れられているということ、それがジャックにはどうしても受け入れ難い疑問だった。
「今やスクラップフィールドにおいて『スチームスポットのジャック』を知らぬ者はいないでしょう。いやはや、私の審美眼に狂いはなかった。無論、貴方の腕前があってこそ魅せられ、そうして叶えられる売上だとは思いますが……」
「支配人。一つ聞いてもいいですか?」
「ええ、なんでしょう、ジャック。私に答えられることであれば何なりと」
「僕の……いや、曾祖父が創った、この人形劇。どこが面白いんですか?」
「…………なんと、それを貴方の口から聞くとは」
気が付けば、そんなことを思わず呟いていた。回答が欲しくて聞いたのではなく、本当に思わず、突いて出た言葉だった。
言った瞬間に後悔したジャックだったが、意識と反して口が止まらない。言葉を選びながら、ジャックの吐露は続く。
「いえ、その……何というか、信じられないんです。こんなに大勢の人が人形劇を見に来るということ自体がそうなんですが、何に魅力を感じて、何が面白くて、金を落としていくのかが解らない。こんなもののどこが良くって、拍手なんかするんでしょう。通い詰める奴なんかがいるんでしょう」
「それはもちろん、美しい人形や、手製とは思えない精巧な演出装置、錆び付いていないオルゴールの音色や、語り部がなくとも伝わってくる物語。そして何よりも、貴方の人形使いとしての卓抜したお手前。それら全てが噛み合い完成する一個の作品……見物人はそこに感動し、対価として観劇料を支払うのです。演劇や音楽祭などと同じ過程ですね」
「完成? この人形劇は完成しているんですか?」
「ええ、私はそう思います。契約書を持ち込んだあの日も言いましたが、これほど可憐な舞踏を叶える人形劇は見たことがない。これまでに訪れた観客達も同じ心境でしょう。命のない人形が、まるで一個の人間のように生き生きと小さな舞台を舞い踊る様は、路傍のマリオネットとは明らかに一線を画している。それだけで金を払う価値があるものです。そこに惚れ込んだからこそ、私は貴方をあの田舎町から引き抜いたのですよ」
「そうですか。……僕にはそこまで価値があるとは思えません。僕が客だったら、小銭一枚すら出そうという気も湧かないでしょう」
「ふむ……表現者としての、生みの苦しみというものでしょうか。向上心の裏返しだとは思いますが、あまりご自身を卑下されては……」
「…………」
違う、と返すのは簡単だった。今まで何度となく、喉のすぐそこまで出かかっていた言葉だ。あとほんの一息で吐き出される否定が、何故かジャックにはできなかった。
昔から考える機会は多かった。元々は一族に押しつけられたこの稼業が、ジャックは心の底から嫌いだということ。他に生きる術を持たないから続けているだけで、人形劇 《ただ寵愛される舞踏の姫》には共感や理解どころか、一切何の感慨も湧かないということ。気色悪い造型の人形を操るしかない自分が嫌で嫌で仕方ないということ。
せめてもの反抗として、繰り糸の先、己が動かす人形の舞踏にその感情を注いだ。醜悪、滑稽、侮蔑の感情をありったけに込め、毎日毎日飽きもせず観劇しに来る客の誰かに伝わるよう祈った。
だが、この半年、渾身の憎悪を表現できる限りに見せ続けた結果――これまでに比べればずいぶん多い給料と、単純な感動の拍手ばかりを得るだけに終わった。
開幕初日に感じた「伝わっていない」という失望は、いつまで経っても覆らなかった。やり方が悪いのかもしれないと、律儀にもアレンジの方向性やパターンの種類を吟味し、三日三晩頭を悩ませたこともあった。それゆえにジャックの腕前はより磨きが掛かり、洗練され、それでも終演後の徒労感は変わらなかった。
相対的に人数が増えれば、一人か二人には伝わるだろうと思っていた。特に人の往来が激しい娯楽都市スクラップフィールドであれば、目の肥えた文化人も多く訪れる。そういう連中であれば、解ってくれる奴が少しぐらいは居るだろうと思っていた。
だが、口々に好き勝手呟かれる感想は
何故だ、と苦悩する日々が続いた。同時に、ジャックは自分自身をも疑うようになる。
つまり、この人形嫌いを誰かに解ってもらうことで、自分は何を求めているのだろう、と。馬鹿正直な自己表現などに従事して、いつか得られるかもしれない共感の先に、何を欲しているのだろう、と。
「…………」
右手と左手が、血の気が失せるほどに固く組まれる。当初の緊張感による腹痛は消え、今は頭痛に苛まれることが多くなった。片方が解消されれば片方が再発する。忌々しい不快感に眉間の皺が深くなっていく。
不穏な空気を感じたのか、ラインデルフが慌てたように言葉を並べ立てた。
「我が劇場に雇われている劇団員も、時たまに思い詰める者が出てきますが……あまり考えすぎるのも身体に毒ですよ。考えても仕方のないこともあります。実際、貴方はこれだけの売上を出している。これで充分と開き直るのは感心しませんが、裏打ちされた自信を持ち、適度に力を抜くべきなのもまた事実。そうだ、休暇を申請されるのは如何ですか? 有給で六日ほどご自宅でのんびり休まれるも良し、スクラップフィールド周辺は他にも観光地が多いですので、旅行へ行くも良し。ああ、一度我が帝国へ訪れるなどというのも一興ですな」
疲れているとでも思われているのだろうか。否、実際ジャックも消耗してはいるのだが、休みたいわけではない。休んだところで解決する悩みでもなければ、それに向き合わなければならないことは変わらない。
田舎町にいた頃は、自分の未来は八方塞がりだと思っていた。一人では決して破ることのできない、高く分厚い壁に囲まれた毎日。だが、数奇な巡り合わせによってどうにか這いずり出し、新天地に移ったところで、また新たな壁が現れるだけだった。しかもそれは、それこそが、誰の手助けも無く攻略しなければならない壁だった。
「何のために生きているのか」という問いは、少し形を変えただけで、依然として聳え立っている。
だが、その先に進むことを望んでいる自分が解らない。問いの答えも解らない。何を求めているのか、自分で自分が解らない。
もしかしたら、それは考えるだけ無駄な、迷宮のようなものなのかもしれない。
「……帰ります。日が暮れると寒いので」
「え、ええ、今日もお疲れ様でした。明日からもどうぞよろしく」
客席から立ち上がり、ラインデルフの薄っぺらい
春先に居を移してから半年。揚々と巡る季節は次第に寒気を運ぶようになり、枯れ葉の落ちる街路などはすっかり秋の様相になっていった。フリーマーケットで安く売り出されていた中古のセーターとマフラーをしっかり着込み、ジャックは薄暗い街を俯きがちに歩く。
巨大な噴水広場を横切り、商店の並ぶ道の端を歩く。夜になってなお明るいのは、規則的に並ぶガス灯のおかげばかりではない。酒場も、それ以外の店も、この街ではずいぶん遅い時間まで開かれている。特にこの辺りは歓楽地とでも言えるような区画で、人の出入りが多く、需要があるためだ。どこも耳鳴りがするほど賑やかで、目を焼くほどに眩しく、それらに用のない人間にとっては疎外を感じるだけの雰囲気に満ちていた。
ジャックにとっては、鼻を突き刺す空気そのものも眉を顰める原因になっている。
厨房のある店に特有の水が腐ったような臭い。
男を誘う娼婦達の
自分の
それらは、まだ少年の域を出ないジャックには縁のないものであり、ただ生理的に嫌悪するものでしかなかった。
こんなところを通らないで、遠回りになっても別の路地を探した方がいいとは思うが、これも仕事の一環として劇場側にそれとなく依頼されたことだった。
何にせよジャックの運ぶ荷車は目立つ。それそのものが人形劇の舞台装置であり、動力はタイヤを伝って巻かれる発条型だ。世界広しと言えども、このような仕掛けを使った人形劇はスクラップフィールドでしか見ることはできない。
移動する人形劇の舞台とあれば、それ自体が大きな宣伝になる。
街を行き交うのは元々の住人だけではなく、諸国からの観光客も含まれている。あそこで見かけたあの荷車は何だ、あれはどこで使われているのだ。そうした噂が噂を呼び、結果的に劇場への客足が増える。そういう目論見らしい。
意図するところは理解できないわけでもなかったが、過剰に目立つのはジャックとしては不快だった。移動する時間帯は主に早朝か夕方。人目に付くのは後者だが、この時間帯のこの通りは大体の人間が出来上がっている。五分前のことも覚えているか定かではない酔っ払いどもに宣伝効果など期待できるものだろうか。
何よりも。
――――くす くすくす
声を潜めている気配がする。押し殺している音がする。眼だけがこちらに突き刺さっている。
物珍しさは、関心を呼ぶだけではないと、ジャックは学んだ。
異質であるということ、ただそれだけで嘲弄の肴にする輩もいるのだと。
知らないふりをしても、耳を聳てずとも、そういった視線は感じるものなのだと。
一日の仕事を終えてから、追い打ちのように突き刺さるそれらを、しかし仕事の一環ゆえに避けることもできず、結局この道が家までの最短距離ということもあって、ジャックは辟易としながら荷車を曳いて歩くしかなかった。
とにかく、早く、ここを出ていかなければと、疲れた足に鞭を打って、少しでも不快の元を遠ざけようとしながら。
13.
やがて街灯の光が届かない裏路地を抜ければ、雇い主に貸し出されたアパートメントが軒を連ねる一角に入る。この辺りの集合住宅はほとんどが劇場の所有であるらしく、同じ雇われの劇団員やスタッフ達も近隣に住んでいる。その三番館の一階、311号室が、今のジャックのねぐらだった。
スロープに改造させた階段を上り、あらかじめ外扉を開いてから荷車を玄関に押し込む。二重の施錠を確認した上で、荷車の格納庫から人形をしまった箱を取り出しジャックは部屋に入った。
半年も住んでいるが、日常生活に彩りを着ける意味というものが皆目解らない少年の一人暮らしは、朝起きてから乱れたままのベッドと、脱ぎ散らかした服、洗い物が積み重なったキッチン、枯れかかっている備え付けの観葉植物など、日頃の生活姿勢が滲み出る内装だった。誰を招く予定もない、不潔でない限り支障はないからと、片付けるということをほとんどしない。
ジャックはまっすぐ寝室に向かい、明かりも付けず着替えもせずにベッドへ倒れ込んだ。壁時計が午後七時の報を知らせる。眠気は無いが、身体は疲れていた。
実際、眠れない日が続くこともあった。
静かな空間に一人でいると、頭の奥でオルゴールが鳴る。幼少の修行時代から、耳に胼胝が出来るまで聞かされた一連の音楽は、もはやジャックにとって脈動と等しく脳裏に響く。
ピン、ポン、ポロロンと、昼も夜もその音に締め付けられ、人形を操り、舞わせてきた記憶が、時折に夢として現れる。割れた鐘のように頭を揺さぶるオルゴールが、繰り返し、何度も響く。引き攣る両腕の激痛が心に刻み込まれている。
暗く静かな部屋の中で横たわっていると、暇を持て余した脳が要らぬことを考え出す。内容は決まって、あのことの続きだ。考えないようにすればするほど、意識はそちらに集中する。
腹が空き、喉が渇くように、何かに飢えている。
思えばこれまでの生涯において、ジャックは何かに満たされるということを知ることがなかった。その正体が解らないばかりに、どう求めればいいのか、何を心がければいいのか、見当が付かなかった。
人形劇の終演後、観客は総じて笑顔だった。在り来たりに言えば、楽しそうだった。
ジャックは楽の感情を知らない。実感したこともない。乱暴に纏め上げれば、それが羨ましいのかもしれない……否、それもまた違う。羨望するほどではない。憧れているわけではない。それが何なのか解っていれば苦労はしない。
結論の出ない堂々巡りを繰り返してばかりの自意識に嫌気が差し、シーツに顔を擦り付けるようにしながら、亡者のように唸る。燃料切れを訴える腹の音も混ざって、何とも間抜けだった。
ふと、目線を横に振ると、同じくベッドに投げ出された木製の箱がある。保管の要であるからとこれだけは真新しく新調された木箱には、人形『プリ・マ・ドンナ』が入っている。
「…………ん」
何となく、それを引き寄せた。寝転がりながら開き戸の鍵を外し、姿勢を固定する金具を外して、胴を鷲掴みに取り出した。
繰り糸の張られていない人形は力無く五体を垂れ、それでも自然にジャックと目を合わせた。偶然であろうが、思わず少年はギョッとする。彫像のように造り上げられた、面白味のない、整っているだけの貌が、ジャックを伏し目がちに見つめてくる。
以前ほどの抵抗感もなく見ていられることに気付かず、やはり気持ち悪いとしか思えない人形の少女をしげしげと眺めつつ、記憶に反芻するのは初日の開演前のことだった。
声ならぬ声、聞き覚えのない少女の声色、そんな幻聴――あれは何を起因として、ジャックの脳内に響いたのか。あんな可愛げのない叱咤激励はどこから湧いて出たものなのか。
よもや人形が語りかけてきた訳ではあるまい。それこそ御伽話、寝物語の子供騙しだ。こんな物に魂が宿ることなど、有り得ない。
そうは思っても、ジャックはあの時、緊張ゆえに止まらなかった震えが一瞬で収まったことを覚えている。
あの時、幻覚に示されたのは、自分に出来ること。やるべきことを見失わず、ひたすらに研鑽しろということ。ジャックにとってはそれが、舞い、舞わせ、魅せることだと。
どの口がほざいているのかと思った。仮にそれが人形の意志だとして、よりにもよってその削り出されただけの作り物の口から出た言葉だとしたら、まったくもって腹立たしいことこの上ない。そのおかげで緊張が解れ、いつも通りの調子で劇を進められたのだとしても、感謝など一片たりともしてたまるかと、そんな意地になる。むしろ、ジャックの生き方を人形風情にまで決めつけられるなど、あってはならないことだ。
誰のせいで苦しめられたと思っているのか。生まれた時から人生を定められ、添い遂げることを強いられた、そもそもの原因がこの人形だ。少年としての自由を、有るべき選択肢を全て奪った最大の元凶だ。
こんなものさえ創られなければ、一族の狂気も、父の末路も、ジャックの現在と未来も、全く違っていただろうに。
あの日以来、人形は何も語りかけてこなくなった。だが、再び何かを喋り出すことがあったら、その時は怒鳴り散らしてやろうと思っていた。今まで溜めに溜め込んだ鬱憤全てをぶつけて、それが空虚だろうとも、多少は気が済むだろうと、そう思う。
――またあの声が聞こえてくることを期待しているなどと、ジャックはまるで自覚していない。憎まれ口を叩く相手が欲しいなどとは、露ほどにも思っていない。
ただ、外行きの格好を解くこともせず、吸い込まれるように、微睡みの底へと落ちていく。
人形を握る手を、決して離さないままに。
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