第二節 con brio
5.
ここまで騒々しい街があるのかと、いつもの荷車を押しながらジャックは感嘆した。
雑多に混み合う人々も、道幅を狭める建物の大きさも、その全てが、ジャックが初めて見るスケールばかりだった。寂れた故郷とは比べ物にならないほど、明るく、喧しく、少年が求めていた何もかもが揃っているような気がした。
帝国の擁する商業都市スクラップフィールド。散々憧れた巨大な街を、今、歩いている。
6.
事の起こりは一週間前、ジャックの元に一人の使者がやってきた。ラインデルフと名乗った中年の紳士は
スクラップフィールドが一般開放されて今年で五十周年を迎えるため、その記念に大規模なモニュメントを造る次第となったらしい。
過去の大戦の皺寄せが未だに残っているために日々の生活すら苦心する民が多い中、少しでも彼らを
記念劇場そのものは既に完成し、来月には大々的に開く予定となっている。が、一方でその劇場に肝心の出演者がいないということに気付き、急遽募集する運びとなった。そこまで話を聞いて、随分お粗末な計画性だと、ジャックですら思ったものだ。
ともあれ劇場の運営委員会が世界各国選りすぐりのエンターテイナーに声をかけたが、それでも頭数としては心許ない。掻き集めた面子もサーカスや奇術師、オペラの劇団など、実力派揃いであることは確かだが、その気になればどこででも観られるような出し物ばかりだった。
ここでしか観られない、目玉になる商材がもっと欲しい。
そこで白羽の矢が立ったのが、『スチームスポットのジャック』の存在である。
かの人形使い、その一族の噂は、町の外でも多少なりと有名だった。
至高の芸術品である少女の人形『プリ・マ・ドンナ』、それが舞い踊るための戯曲 《ただ寵愛される舞踏の姫》、これを三代に
さらに、噂の真偽を確かめるべくこっそり視察に訪れたラインデルフ達を驚かせたのは、その戯曲が噂以上に複雑かつ困難な構成であり、それゆえに人形があたかも本当に生きているかのような挙動を魅せたことだった。
被せられた幌に隠れて、肝心の人形使いの姿は見えない。しかし、舞台の天井から吊るされる銀糸によって操られる人形の動きを見ていれば、その腕前や技巧にどれほどの熟達があるか素人目にも解るというものだ。まして彼らは仮にも娯楽を主とする劇場の支配人達で、この時代の
これは目玉になる。今まで寄せ集めた連中の出し物など簡単に霞むほどの、圧倒的かつ前代未聞の人気を掴むだろう。
――以上が、ラインデルフがジャックを口説き落とすために用意した熱っぽい交渉の概略である。実際はもっと歯の浮くような賛辞やあからさまなゴマ摺りなどがあったのだが、思い出すだに鳥肌ものの記憶なのでジャックとしてはあまり追想もしたくない一幕だった。
さて、そんな話を吹っ掛けられた十三歳の少年であるところのジャックだが、一も二もなく食いつくほど単純ではなかった。
話自体はシンプルで、要は新設される劇場での出演依頼ということだが、どうにもジャックは懐疑的だった。それというのもまず、この話が展開された場所が悪かった。スチームスポット黄金時代の名残である庁舎の時代外れに豪奢な応接間で、大の大人がやけにニコニコと笑いながら少年一人を囲っているのだ。しかも、ジャックに対する仕事の依頼の話だというのに、部外者であるはずの小太り町長が退席しなかった。彼は元々スクラップフィールドの役人で、数年前に天下りしている。その事情を考えると、なにやらジャックの知らないところで裏の取引があるのではないかと思うのも無理はない。勿論、それらは直接にはジャックに関係することのない問題なのだが。
彼に直接関係することと言えば、この話を受けるか受けないか、その場合にどういった処遇となるか、だ。
スクラップフィールドへの招待。帝国の擁する大都市、若者の誰もが憧れる街、ここにいるよりもずっとずっと金を稼げる働き口。多分に漏れずこのジャックも憧れていた都会に、とうとう行けるかもしれない。
願ってもない機会だが、ただの観光ではなく仕事の依頼というのなら、考えるべきことは多い。具体的に現状の赤貧生活がどれだけ改善されるかというところが何より気にかかった。賞賛の言葉に興味はなく、現実的な条件の話のみをジャックは粛々と進めた。
住居は劇場が所有するアパルトメントに入ることとなっており、管理費などは全て支配人側が受け持つ契約となる。要は宿舎代わりだ。一人一部屋が当てられるというのだから気前がいい。
さらに、劇場に出演するにあたっての給料の額や出演者側への負担などを事細かに説明させ、気に入らないところがあれば都度その場で交渉し、可能な限りの好条件へと移行させた。一介の子供を相手にするだけと踏んでいただろうラインデルフや町長などは、
こんな日が来た時のことを、ずっと密かに考えていたのだから。
制約や証明書などの必要事務手続きまでその日の内に済ませてしまい、呆気にとられている大人達を尻目にジャックは庁舎を去った。ねぐらに戻ってからは早々に寝ようとしたが、少なからず気分が弾んでいたせいでなかなか寝付けなかった。
しかし、引越しとはいえ基本的に身一つで暮らしているジャックのことだ。今のねぐらも間借りしている物置でしかなく、強いて挙げるなら手製の改造荷車をどうやって運ぶかというところが難点ではあったが、他は軽い身辺整理だけで事は済む。それにしたって半日もかからない。先方は新居の準備に一週間ほど欲しいとのことだったので今すぐ発つという訳にもいかず、仕方なくジャックは一日二回の〝公演〟をいつも通りこなすしかやることがないのだった。
周りには何も言わなかった。これが栄転となるかどうかはまだ判らないし、取り立てて言いふらすようなことでもない。わざわざそれを報告する縁のある者もいなかった。家族には一報入れるべきかとも思ったが、余計な小言を言われたくなかったから、止めておいた。狭い片田舎でのことだ、どのみち言わずともいずれ知られることにはなるだろう。
もどかしい夜を幾度も越して、やっとやってきた出立の日。
早朝の町の外に、ラインデルフが手配した馬車が止まった。少ない私物もまとめて括りつけた重い荷車はどうにか馬車の後部と連結(というより荒縄で無理矢理縛り付けただけ)することで解消とし、ジャックは御者の大人に促され、生まれて初めて馬車に乗った。ここから半日の移動でスクラップフィールドに着く。
綿の磨り減った座席は居心地が悪く、舗装されていない道路を転がる車輪の反動は実に不快だったが、それ以上にジャックは、初めて拝む「外の世界」というものに驚いていた。
その日は珍しく晴れていて、車窓越しに広がる風景の何もかもが眩く輝いていた。路傍の草花も、遠くに連なる低い峰々も、道を行き違う行商の人々も、ジャックはその時生まれて初めて見た。
思えば赤ん坊の頃から生まれ故郷を出ていく暇さえなかった。家族も次代の人形使いを育成するのに必死だった。狭い町の中を行ったり来たりするだけだった生活から、だだっ広い野原というものを初めて見たのだ。たったそれだけでもジャックは、この話を受けた価値があったと、そう思った。
そうして馬車に揺られること数時間。
ジャックはいよいよ、憧れの大都会に到着した。
7.
「うわ」
初めて見る都会の空は、意外にも広かった。
背の高い建物が少ない。建築様式はスチームスポットとさほど変わりはないが、煉瓦造りを基調とした景色には高級感があり、街の入り口である門を潜った先にある噴水広場はスチームスポットの倍以上も大きく、噴水そのものも豪華で立派だった。街が開放されて五十年という話だったが、それを感じさせないほどに新しく、活気というものが滲み出ていると、ジャックはそんな印象を思う。
何よりジャックが驚いたのは、その広場を行き交う人の多さだった。老若男女の人混みは絶えることがなく、故郷の田舎町ではありえないほどの規模の数が、ともすれば密集しているようにも見える。しかしその波は立ち止まることなく流れ続け、各々がそれぞれの目的地へとつつがなく歩いていき、あるいは群れの中から外れてそこらを観光しているのだった。
他には、そう、パッと見ただけでも顔付きや肌の色がまったく異なる人々が多い。
何から何までが新鮮で、斬新で、刺激に満ちていた。
――これが帝国擁する都市、スクラップフィールド。これから自分が飛び込んでいく、新しい街。
「…………」
ごくり、と唾液が喉を下っていく。
たった今胸の中に湧いた何かを飲み下さなければ、それに呑み込まれてしまいそうな、そんな気がした。
場所を移そう。突っ立っていたらこのまま動けなくなりそうだ。そう思い、とにかく腰を落ち着けられるような場所を探そうと、ジャックは馬車との連結を外した荷車を押して歩き出そうとした。
その時、
「――ああ、ジャック! こちらです!」
聞き覚えのある声の方を向くと、そこに例の役人ラインデルフが手を振っていた。
数日ぶりに面会を果たす紳士は部下と思しき男を何人かを引き連れ、こちらにぞろぞろと歩み寄ってくる。仕立ての良いスーツを着こなしたラインデルフは、ジャックに近づくなり手を差し出した。
「ええ、そろそろだろうとは思っていましたが、行き違いにならずに良かった。お迎えに上がりましたよ『スチームスポットのジャック』様。ようこそ、民草の憩いの場所スクラップフィールドへ」
「……どうも」
握手は無視したが、使者の登場にジャックは内心安堵していた。迎えが来るという話は聞いていたような、なかったような、ともかく有り難いことではあった。
そういう感情を顔に出さない少年に苦笑する役人達は、しかし決して逆上することはなく、あくまで職務の話を続けた。
「まずは記念劇場の方へご案内いたします。工事は終わっておりますが一般人の立ち入りは禁止してますので、どういったものであるかをゆっくり見ていただければと。その後、こちらでのお住まいへお送りいたします。家具や調度品は一通り揃えてありますが、不足がありましたらお申し付けください」
「自分で頼んでおいて何ですが、随分な優遇ですね」
「ええ、何せこの街そのものが帝国の事業でありますれば、そこに携わる者達にも相応の報酬がなくてはならぬのです。ここで働く人間は皆がその分野の一流です。特にあの劇場は、これからこの街の顔として機能し、莫大な収益をもたらすことでしょう。そのための投資と考えれば安いものだと、委員会の意向というわけです」
「そうですか」
投資した分は働け、期待を裏切るな――そんな思惑が暗に聞こえてくるようだと、ジャックは内心で思った。実際その通りなのだろう。住み込みで働くようなものだし、事前に聞かされている公演時間も朝から晩までびっしりだ。それだけの収入を見込んでのことなのだろうが、帝国という巨大な母体が絡んでいるとはいえ余程の気合いの入れ方である。
「それでは劇場の方へご案内いたしましょう。お荷物はうちの者に運ばせますが」
「いえ、結構です。自分で持ちます」
遠慮というわけではなく、万が一にも商売道具を雑に扱われたり窃盗されたりなどを防ぐための警戒心だったが、彼らはこれを無礼とは取らなかった。「左様でございますか」というにこやかな会釈をしたきり、ラインデルフ達はジャックを先導するように歩き始めた。付き従いの部下達は手持ち無沙汰そうだったが、知ったことではないとジャックも追随していく。
目的地へ行く道中でも街の姿に目を奪われていたジャックを含め、一行が歩いて数分で、その目的地が見えてきた。
記念劇場、その様相の一端である尖塔が見え、ジャックは思わず独りごちた。
「――街の顔、ですか。なるほど」
それを耳聡く聞きつけたラインデルフが、実に自慢げな笑みを湛えて振り向いた。
「ええ。見晴らしが
随分気の早い話だとも思ったが、そう豪語するだけの根拠をまざまざと見せつける威容の建物だった。
先の噴水広場に匹敵するほど広い敷地には溜め池やら花壇やらが豪勢に配置され、劇場入口に至るまでは幅広の橋まで架けられている。劇場の外観もやけに巨大で、尖塔をそこかしこに突き出す様は、もはや王族の住まう城のようだった。
「これぞ我が帝国が富と芸術の粋を凝らした五十周年記念劇場。そして『スチームスポットのジャック』、貴方がこれから何万という観客に人形劇を披露する、その大舞台ですよ」
「…………」
わざわざ言わなくてもいいことを誇らしげに語る役人を無視するようにして、ジャックはしばらく劇場の威容に心を捕らわれていた。腹立たしいことに、その言葉を受けて再び足の
ややあってから劇場内部の方に案内され(荷車は信頼できる保管場所に停めた)、そこでジャックはまたも見たことがないほどの壮観を目の当たりにする。
入場したエントランスから分厚い扉を隔てた先は、巨大な吹き抜けのホールになっていた。外から見物した以上に広く感じる内装は一転して薄暗く落ち着いた雰囲気を演出しており、正面の大舞台をより多くの観客が観劇できるように四階層分の座席がぐるっと囲うように造られている。上階に座る客には
座席の間の通路を歩いて舞台に近付きながら、先導するラインデルフがペラペラと口を回している。
「この劇場も諸国の建築物を参考にしていまして、内陸の貴族国家では既にこういったオペラを観劇するための劇場が造られてましてね、先の大戦時に焼け落ちたとのことだったのですが、その際に携わった建築技師を呼び寄せて、かの豪奢な内装を再現させたのです。もちろん丸ごと猿真似したわけではなく、随所に我が帝国由来の伝統技法や最先端の芸術性などを盛り込み、この世に二つと無い、この劇場そのものが一個の芸術作品として完成したわけであります。観客にストレスなく観劇してもらうために座席のクッションなどは特に気を配りまして、他にもこの吹き抜けゆえの音響を――」
……広すぎる。
様々な角度から射し込む熱いスポットライトを感じながら、ジャックはようやく口を開いた。
「すみません」
「やはり大道芸もこれだけのスペースが確保されていれば様々な演目を――は、
「確認なんですが、僕は本当に、ここに立って、人形劇を観せるんですか?」
「いえ、その予定はありません」
当然のように即答するラインデルフの言に、ジャックは思わず面食らった。それに構わず続ける役人は曰く、
「恐れながら、そちらの人形劇を事前にリサーチした上で、同程度の舞台装置などを用いた
「では、僕は……」
「エントランスの正面右手側に設営中のテントがあるのはご覧いただけておりましたでしょうか? ジャック様はあちらで、別席としての上演を検討しております。――ああ、後ほどご案内さしあげる予定だったのですが、申し訳ありません」
では何のためにこの大舞台に先に通したのか、と疑問が湧くが、要はこの大規模で豪勢な設備を自慢したかっただけなのだろうと思えば納得出来る。流石にこんな広々とした所でちゃちな人形劇を強行させてくるほどの能無しではなかったようだが、無駄に心配して損した。こんなだだっ広いところでやる人形劇など、恥を掻くだけだ。
ともあれ、壮大な舞台に立つことはないと判明したことに安堵しつつ、ジャックは一抹の歯痒さのようなものも感じた。それの正体が何なのかは、彼自身にとっても不可解なことだった。
その後にホールを退出し、ラインデルフの言う『テント』に案内された。
濃い紫色の生地に白斑を散りばめ、夜の星空をイメージしたようなそれは、先の大舞台に比べれば当然ながら小さかったが、それでも相応の規模として設営されていた。
垂れ幕の入口を潜ると、木製のベンチが既にいくつか置かれている。確保された席数はざっと二十程度。正面にちょうど荷車を収容できるだけの空間があり、そこに対して観客が三列ほど並んで座るような造りだ。室内の照明は橙色の裸電球が一つぶら下がっているのみ。雑なようだが、雰囲気としては悪くない。
「最後部から観覧するのに支障が出ないようにするならこの広さが限界でしょう。実際に上演してみて不都合などがあれば、席に段差を付けるなど対策も出来ます。照明の明るさなども、ですね。ともあれ細かい微調整などは明日以降とさせていただければと思います」
「そういえば、劇場が本格的にオープンするのはいつなんですか?」
「五日後を予定しています。現在、大ホールの方で出演する劇団やオペラなどとのリハーサルの真っ最中でありまして、何しろ集めた数もそれなりなものですから、スケジュールなどの調整も含めて、といったところです。勿論、ジャック様もオープン初日までは本劇場へ足を運んでいただき、各所の下見や視察など御自由にしていただいて結構です。新天地に移る大道芸者なども、まずはその舞台の雰囲気などを掴むことが重要だと言っていましたので」
その上で話題に挙がったのは、ジャックの荷車の保管についてだった。
「裏手に備品などを置く倉庫があります。当然施錠できますし監視員も常駐していますが、こちらでお預かりしましょうか?」
「いえ、あれは持っていきます。盗難がどうこうではなく、毎日移動させていないと駄目なものなんです」
『スチームスポットのジャック』が代々使う人形小屋の荷車は、それそのものが独立した舞台装置だ。オルゴールの音響やゆっくり回転する背景、それらの動力は古臭いゼンマイ仕掛けだった。車輪から繋がるチェーンによってゼンマイが巻かれ、蓄えられた力を開放して各部が駆動するというもの。《ただ寵愛される舞踏の姫君》一回分の駆動力を得るにはそれだけ車輪を回さなければならず、スチームスポットにいた時はねぐらから噴水広場までの一往復でちょうど事足りた。
内部構造が複雑なだけに全体重量もそこそこあるので移動させるのも一苦労だし、保管してくれるというなら喜んで預けたいのが正直なところだが、こうした構造上の問題もあり、何よりもアレを使わなければ仕事にならないということから、全く不本意ではあるものの常に肌身離さずいなければならないのだった。
これも人形使いとしての意識を高めようとする一族の陰謀だろうか。
一通りの訳を話すと、ラインデルフも納得した。
「かしこまりました。それではこれよりジャック様の新居へご案内したいと思いますが、よろしいですか?」
「ええ。さして用もありませんので」
自分のためのスペースが与えられていること、見た限りで支障はなさそうだということ、どこで何をすればいいのかが明確に解ったということだけでも、ジャックにとっては大きな収穫だった。
そうして一行が移動しようとした矢先に、劇場の職員と思われる若い男が駆け寄ってきた。
「ラインデルフさん、すみません。本部の者から電話が」
「何だ、今は案内中だぞ。この時間の対応はリンベルク君に任せろと言ったろう」
「それが、支配人をすぐに出せと言って聞かないんですよ。リンベルクさんも大層お困りで」
「……何事だと言うんだ、まったく」
苛立った様子で部下に先へ行くよう命じ、改めてラインデルフはジャックの方へ振り返った。
「ジャック様、誠に申し訳ありませんが、一旦外させていただきます。大変恐縮なのですが、私が戻るまで少々お待ちいただけますでしょうか」
「構いません」
「申し訳ありません。それでは」
そう言うとラインデルフは踵を返して早々に去っていった。本部の者、つまり彼の上役だ。機嫌を損ねると面倒なのだろう。
さて、とジャックは周囲を見回す。向こうの事情でしばらく放っとかれるわけだが、とりあえず荷車を回収して、この辺で待機しているべきだろうか。それとも劇場の外に広がる大きな花壇を眺めてこようか。出来上がったばかりの清潔な溜め池には水鳥なども多く訪れていた。暇潰しにこの近辺だけ観光しても文句は言われないだろう。迷子になるような歳でもない。
何はともあれ荷車を保管している場所まで向かおうと、ジャックが記憶を頼りに歩き出す。
その時、行く手の方角から、五人ほどの男女がこちらへ向かって歩いてきた。背丈も格好もバラバラな集団が、明らかにジャックを視界に収めて、向かってくる。
気にせずに横をすり抜けようと、こちらも構わず歩いていくが、両者の距離が肉薄した時、目の前の集団が立ち止まった。ジャックの行く手を阻むように、だ。
「…………」
嫌な予感がしたものの、ジャックは歩を止めない。しかし集団の先頭に立っていた偉丈夫な男が、明らかな阻害の意図でジャックの目の前に立ちはだかった。
「……なにか?」
さすがに足を止めたジャックは、努めて平静に、それだけを口にする。それを受けて偉丈夫の男は、ジャックよりも頭三つは高い視点から、嘲弄するように言った。
「ハッ、『なにか?』と来たか。ド田舎からのお
明らかにこちらを挑発するような物言いと、恐らく彼はリーダー格なのだろう、他の取り巻きがクスクスと含み笑いをしている。
じろじろと無遠慮に、品定めするようにジャックを眺めていた男は、これ見よがしに溜息まで吐いてみせた。
「ったく、
「おいおいバート、そう言ってやるなって。実物見てみりゃびっくりってこともあるかもよ?」
「知るか。
……なるほど。
これはまさしく挑発なのだろう。どこの誰なのかは知らないが、言葉の端々から、相手はこちらのことを少なからず知っているようだと、ジャックはうっすらと理解した。初対面で挨拶もなくいきなりこの調子というのも大層失礼なものだが、はたして彼らに礼節云々が備わっているか疑問だ。
自身の生業を貶されることに対してはそれほど苛立ちはしない。実際ジャックも〝こんなもの〟とは常々思っている。
だが、気に入らない。こういう類の人間もいるのだということは故郷でも散々目にしていたが、場末の酒場で騒いでる呑んだくれの方が幾らかマシというものだ。素面でこれなら始末に負えない。スチームスポットでも、特に夕方の公演では絡み酒の親父が少なからず存在した。ここまでタチが悪いものではなかったが、そういうものの追い払い方は少々心得ている。程度も知れているというものだ。
さて、どうしたものか。
「……失礼ですが、あなた方は? 僕より早くこちらにいらっしゃったと見受けますが」
こんな連中相手に敬語表現を使うのも馬鹿馬鹿しいが、バートと呼ばれた大男が分厚い胸板を張って答えた。
「そうだ。音に聞こえしカラプシ一座、東の国の喜劇団よ。このスクラップフィールドほどじゃあないが、五年で巨万の富を築いた実力派――」
「知りませんね」
男が喋っている間に、ジャックは遠慮なく切り捨てた。
「ご覧の通り、僕は片田舎の生まれですので、世事にはそれほど詳しくありません。今まで人形劇のことしか教えられなかったし、それ以外の些末なことに気を取られないよう教育されてきました。癪ですが、おかげで興味のないことにはとことん興味を持たずにいられる。どこの誰が有名だとか、どれだけ金持ちなのかとか。酔っぱらいの戯言は聞き流してでもいないとやってられないということも自ら学んだ。ましてや自分に酔いしれる碌でなしなんざ、毛ほどの意識も向かない」
「なに……?」
「腰巾着の相手にはうんざりしてるんだ。親元の自慢がしたいならよそでやってくれないか? 年功序列にも経験の差にも興味はないんだ」
下らなさそうに言うジャックの言葉に、目の前の五人は一瞬その意味を考え、理解した者から順にその表情を強ばらせていった。最後に気付いたのはバートという大男だった。
「……ッんだとガキ、ナメてんのか!!」
「そのガキ相手に油売ってる時点で程度が知れるって言ってるんだよ。その暇使って稽古に身を入れたらどうなんだ。要らん騒ぎを起こして怒られるよりは、お互い大人しくしていた方が賢明ってやつなんじゃないか? こんなことで名前を落としたくないだろう」
言いつつジャックは自分の後方にちらりと目線を振り、そちらに指を差し向ける。支配人のラインデルフが駆け足でこちらに戻ってきている姿が遠目に確認できた。
それを理解したバートが、何かを言い返そうとし、苦い顔で噛み潰す。諍いを見咎められたくないと思う程度には保身も考えるらしい。まったく不満げな顔のまま、男女が一斉に背を向けた。
「クソガキが、後悔しないうちに田舎に帰るこったぜ」
「そっくりそのまま返してやる。チクらないでやるからさっさと失せろ」
捨て台詞の応酬をやりとりして、劇団員は足早にその場を去った。入れ替わるように駆け寄ってきたラインデルフが息を切らせて、ジャックに声をかける。
「大変お待たせいたしました、ジャック様。……彼らが何か、粗相を?」
「いえ、擦れ違ったので挨拶してくれたんですよ。ご丁寧にね。おかげで身が引き締まる思いです」
はあ、と頷くラインデルフには見えない角度で、ジャックはカラプシ一座とかいう劇団員の背中を睨みつけた。
安い挑発に乗ってしまった自分も自分だが、恐らくああいう手合いは多いのだろう。転じて考えてみれば、ああいう絡み方を恥ずかしげもなく出来るということは、それだけ自分の属する劇団に力があるという自信があるからだ。心強い後ろ盾があるからこそ目が眩む。これからもこうして因縁をつけられる機会が増えるかもしれない。
加えて、人形使いというものに対する見方も、今の応酬で大体察することができた。黴臭いお飯事、まったくその通りだ。《ただ寵愛される舞踏の姫君》がどれほど持て囃されたとしても、そういった偏見が既に始まっているということなのだろう。この支配人も契約の時はずいぶんご機嫌な様子だったが、心底ではどう思っているか解ったものではない。
そんな心中を知ってから知らずか、ラインデルフは汗だくのまま、にこやかな笑顔を浮かべて、ジャックに声をかけた。
「そうですね、どこかのタイミングで演者や裏方とも顔を合わせることがありますので、その時はまたよろしくお願いいたします。さ、それではお住まいの方へ御案内しましょう」
「ええ」
こんなことが多くなるのだろう、とジャックは思う。これから自分は、そういう所に身を置くのだ、と。
それを進んで選んだのは自分であるからこそ、
茨の道、針のむしろ。そうであろうとも、進むしかないのだと。
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