紡ぐ、たぐる、糸の色

sam

第一節 calmato

 

 ピン、ポン、ポロロン、オルゴールが鳴く。


 シン、シャン、シャララン、糸が張る。


 繰り糸にぶら下がった人形は絶えず四肢を蠢かせ、絢爛豪華な舞台の上で不器用に踊る。


 オルゴールのゆっくりとした伴奏に合わせるでも外すでもなく、ただ己の感じるままに爪先を立たせ、指先を宙に漂わせる。

 瑠璃色の夜空に星を散りばめたような瞳は憂いに伏せられ、観客を聘睨へいげいする視線は一方的な憐憫にも見えた。


ただ寵愛される舞踏の姫プリ・マ・ドンナ


 ひとつきりの演目を踊る人形は、まったくもって、嫌々しくも美しい。



    1.



 灰色に寂れた田舎町の、かつて繁栄していた時代の名残でもある噴水広場に、僅かばかりの拍手が響いた。

 暇な老人や退屈そうな子供たちが数人。その視線が集中する先には、粗末な紙芝居小屋を改造した荷車がある。

 外開きの扉の向こうにはハンカチーフのような垂れ幕と、細い木板を敷いたステージ。

 その舞台上で、豆電球のささやかな照明を浴びる人形の少女が、スカートの端を摘む礼をしたまま姿勢を固めている。

 小屋の向こうから少年が出てきた。端切れを繋いだシャツとズボンを身にまとい、そばかすの散る幼い顔面の主が、人形の礼に比べて幾分か雑に頭を下げた。数少ない観衆がさらに拍手を続ける。


 町の名を『スチームスポット』、少年はジャックという。

『スチームスポットのジャック』と言えば、この町の近辺では人形使いの通り名で知られていた。


 大昔には蒸気機関を発明し長く栄えた商業の町スチームスポットだが、時代の移ろいとともに蒸気を用いないエネルギーが台頭し、今や遠方の大都会に仕事や若い労働力を奪われた片田舎だ。

 退屈な日常を食い潰す手段として、酒やトランプに次いで数少ない娯楽の一つとして、この人形劇は親しまれている。

 手作りの小さな舞台上で、釣り合わぬほどに優美可憐なドールを操り、オルゴールのメロディとともに人形の舞踏を演じる。

 ジャックは齢十三にして、この町の人形使いとして有名だった。

 やがて気が済んだ観衆の町民たちが感想や雑談などを各々勝手に呟きながら散っていく。それに合わせて、ジャックも小屋の片付けを始めた。

 演目は一つきり。昼と夕方に一回ずつ、定刻になったら客の有無に関わらず始める。リクエストがあれば即興の舞踏をすることもある。今日は特に要望の声もなく、夕方の演目を閉じたジャックは同時に一日を終える。

 小屋の手前に放り出していたシルクハットの中には、いくつかの小銭と紙幣がそれなりに入っていた。さっきまで集まっていた観衆の数の割には少ない額だが、無料の出し物と思われるよりはマシというものだ。貧乏な町だが、ジャックの人形劇に価値を感じる者はまだ居るということである。

 僅かな日銭の全てを懐に納め、少年は小屋の片付けを再開する。とはいえ移動型の荷車に手作りの舞台を備えた構造だから、強いて面倒なものといえば人形の処理である。

 その片付けに手を出そうとしたところで、背中の方から声をかけられた。


「ジャック! 今日も見事な人形劇だった。世襲の通名は伊達ではなかったということだな!」


 声の主は小太りの中年男だった。寂れた町に場違いなタキシードとハットを装い、主張の激しい腹の贅肉をみっともなく揺らす彼は、スチームスポットの町長でもある。都会の役所から天下りしてきたという噂だが、ジャックはよく知らない。さして興味もない。


「こんばんは、町長さん」


 そんな素っ気ない挨拶だけを返しておく。


「うむ、良い心がけだ。この町の連中はほとんどが私に敬意を払おうとしない。技術革命を巻き起こした英雄達の末裔とは思えんほどに不躾だ。必死に働き税を納めておればいいものを、どいつもこいつも……。やはりつまらん町に居座る田舎者どもだ、教養も礼節もたかが知れているということか。ああ、そうとも、ここはつまらん。酒も食事も不味いばかり、女は不細工で娼館すらもない。娯楽というものが決定的に欠けている。私がかつて住んでいたスクラップフィールドとは大違いだ。あそこはよかった。まったく何故この私がこのような――」


 いつまでもつらつらと吐き出されるつまらない愚痴を聞き流しながら、ジャックは片付けを続けた。

 舞台の天井部分である蓋を開き、人形の無事を気遣いながら慎重に引き上げる。マリオネットの繰り糸にぶら下がる人形は、今はもう力なく、ジャックにされるがままとなっている。

 人間の造形を忠実にかたどった人形の少女ビスクドール。関節部分によく磨いた球体をめ、計算された箇所に打ち込まれた繰り糸によって、実際のバレリーナのような細かい動作を再現できるつくりになっている。

 無論、その舞踏は操り手の技量によって可憐にも醜悪にもなるが、ジャックはその若さからは想像しがたい熟達した運指と直感によって、人形の魅力を最大限に引き出す。

『スチームスポットのジャック』というのは、世襲によって受け継がれるあざなである。

 過去を遡れば彼の曾祖父の頃から続く伝統の一族であり、当代のジャックは三代目にあたる。幼少期より玩具人形マリオネットを与えられ、厳しい訓練と躾によって希代の腕前を後生まで残すことを家訓とした、職人気質な家の生まれだった。十二の歳まで修行を重ね、先代に認められると、このドールと演目が与えられる。

 百年以上前に作られてなお色褪せず、僅かほどにも軋むことなく、今もこうして滑らかに稼動し続ける『プリ・マ・ドンナ』と、三〇分に及ぶ演目 《ただ寵愛される舞踏の姫》。

 素朴なオルゴールのメロディと共に紡がれるのは、〝究極〟を求める孤独な物語だ。


 幼いだてらに美しく妖艶な少女は今の自分に満足せず、究極の美しさというものを追求するべく舞い踊る。しかしどれほどの歓声や人気を受けても満足せず、どこまでもそれ以上を求め、ひたすらに自身が思う以上の美を表現し続ける。

 どれだけ踊ってもいたることはなく、どれほど賞賛されようと満たされず、それでもやがてくずおれるその日まで少女は舞い続ける……そんな展開で構成される。


 この演目も初代『ジャック』が制作した筋書きであり、また、マリオネットの挙動の限界を追い求める皆伝書のようなものである。長年に渡って代々の『ジャック』が研究、修正、添削を繰り返し、洗練されてきた一連の振り付けは、激しい緩急の波や指先一つの細かい動きにまで精密な操作を必要とし、人形を鑑賞する客に対して、あらゆる動きに感情を思わせる工夫が詰め込まれている。

 無機物である人形に命を吹き込み、あたかも一個の人物としてそこに在るかのように。演者と人形のどちらもが、この演目の最終テーマである〝究極の美〟の完成を目指す。


 ――美しいだけの人形に意味はない。それは既に出来上がっている。

   さらなる高みを貪欲に追い求めてこそ、他の追随を許さぬ究極に近づけるのだ。


 ジャックの師匠である祖父の口癖であり、脈々と受け継がれてきた家訓。このドールを見る度に思い出すよう、一族に教育されたことだった。

 おんぼろな設備の中で唯一の貴重品であるドールを丁寧に収納し、ジャックはてきぱきと小屋の片付けを終えた。未だに昔の自慢話が途切れない町長に頭を振るだけの会釈をして撤収する。不満げな小太り男のことは一切無視して、ジャックは自分のねぐらを一路目指す。

 石畳を転がる荷車のガラガラといった音を聞くともなしに聞きながら、ジャックは一族の家訓を何度となく反芻しつつ、毎度のように思う。一日の公演が終わる度に、思う。



 …………こんなものの、どこが良いのだ。



    2.



 先代達の思い出話に拠れば、ジャックの曾祖父は熱心な人形愛好家だったらしい。

 戦争の時代、娯楽の少ない町に生まれた彼は、とある行商が飾りのように置いていた一体の人形に出会う。

 精緻に造り込まれた顔面、我が子を愛でるかのように仕立てられた可憐な服飾、何より一番目を惹いたのは白磁のように硬質で滑らかな肢体と、それらが自在に動かせるよう開発された球体の関節。姉や妹が飯事ままごとで遊んでいる縫いぐるみなどとは一線を画した、異質な雰囲気を醸し出す、初めて見る人形だった。

 美しい。

 一目において魅了され、惑わされた彼はありったけの小遣いをはたいてそれを買った。人形でありながら人間のような存在感を持つそれは、一日中眺めていても飽きなかった。

少年ながら人形に執心するようになった曾祖父は、家族などから奇特な子どもと扱われるようになったが、彼はまったく意に介さず、その人形の世界にさらなる奥行きを求め、のめり込んでいった。

 成人し、働くようになり、金の元手がある程度貯まると、曾祖父は都会に引っ越した。より多くの人形と出会うため、美しい人形を出来る限り多く自分の手元に残すためだった。やがて彼は望み通り多くのドールを買い込むことになるが、趣味と酔狂が高じて、自分で〝究極の一体〟を創ろうと決意するまでに、そう時間はかからなかった。

 構想に五年、材質の研究と収集に四年、製造工程を修得するのに一年を費やし、膨大な労力と金を支払っても、満足の行くドールは完成しなかった。新たに得た同好の士のアドバイスを受け、そのことごとくを試し、ひとまず出来上がった試作品に愛着を感じつつも、求める究極に到ることはなかった。

 苦悩する日々が続き、たゆまぬ努力を継続しても、糸口は一向に見つからない。何かが足りないということは解るが、世界中から最高の材質を集めて作ったドールにこれ以上何が足りない。それだけが見つからなかった。


 やがて戦争が激化し、国土の大半が敵に焼かれ、曾祖父の家もまたその被害に遭う。身の安全を優先したばかりに、高価な材料や延べ百数体のを置き去りにすることになり、炭屑に変わり果てたむくろを眺めて絶望していたという。

 その日をどうにか食いつなぐ飯の種にも困り、人生を賭して追求し続けた人形への愛も揺れ始めた頃、彼は慰問に立ち寄った旅団の演劇に行き会った。道化の格好をした数人が面白おかしく騒いでいるだけの、しかし戦争に荒んだ心を一時癒すには充分な、楽しい時間の提供者達だった。

 それらの出し物の中に、マリオネットで遊ぶ道化がいた。適当に作ったような操り人形を器用に動かし、観衆の視線を集めて玉乗りに興じる、そんな出し物だったという。

 ボロボロになった街の一角に拍手喝采が響く。濁りきった民の瞳に一筋の光が蘇る。蒼白な顔色に血が通い、打って変わって生き生きとした観衆と同様に、曾祖父も再び呼吸を思い出したような気分だった。

 まだやれることはあるのかもしれない。

 決意を新たに、彼はかつての知己を再び集めた。戦禍に巻き込まれながらもしぶとく生き残った仲間を励ましあい、もう一度、〝究極の一体〟を創るのだと。

今度はただの自己満足ではなく、見る者に明日への活力を与えるための、自分達に出来る最大限の貢献を。


 程なくして浮かんだアイディアは、球体関節人形をマリオネットとして動かすことだった。ただし愉快に大笑いするための劇ではなく、美しい少女に魅了させるための、これまでの娯楽とは一風変わった新天地を目指した。

 ほう、と思わず溜息を漏らしてしまうような、かつて曾祖父が天啓のごとく得た感動を、より多くの人々に知ってもらいたい。

 その着想の元に制作は進み、知識人や第一線の職人から助言を得つつ、かつての単独制作よりも早いペースで形が仕上がっていく。美しい少女人形を糸で操るという悲願の達成に向け、人形師は指先が擦り切れるほどに材料を磨き、人形使いは考え得る最高の舞踏演目を練り上げた。やがて曾祖父は老体となり、寿命が近づく間際になってそれはついに出来上がった。

 付いた名は『プリ・マ・ドンナ』――人々の寵愛を受けて成立する少女にして、舞台にただ一人立つ幼き姫。


 死期を悟った曾祖父は、今際いまわに自身の本来の子供達に言い遺す。


 どうか最愛の娘を絶やすことのないように。

 今生では到り着けなかった〝究極〟を求め続けることを忘れないように。

 この最高傑作が後世に残り続けることこそ、己がこの世に生きた何よりの証であり、いつかの友を救う道標となるだろう。


 妄執の人形師ジャック・ベルメールの遺言は確かに引き継がれ、三代にわたる『ジャック』を育成し、この世に唯一つの美姫を生かし続けた。


 だが、当代のジャックにとって、それは呪いでしかなかった。


 息を引き取る老人の傍ら、彼を愛した多くの家族が啜り泣いているのを、遠目に見る少年が叫ぶ。


 ――僕は、人形こいつが嫌いだ。



    3.



 町外れの朝、間借りしている下宿の物置で、ジャックは目覚める。雑に建て付けた木板の壁の、その隙間から漏れる陽光に顔をしかめて、人形使いの一日は始まる。

 脇に置いてあった水差しを傾けて喉を潤し、ボサボサな寝癖を適当に直しながら、裏手の井戸に歩く。使い込まれて壊れそうになっている桶に水を汲み、そこはかとなく黴臭かびくさい冷水で顔を洗う。


 ……また、嫌な夢を見た。


 顔面からしたたる滴をタオルで拭きながら、ジャックは暗鬱にそう思う。

 幼い頃から言い聞かされてきた初代の伝説――一族きっての自慢話。初代の子である祖父、その子供の父、結婚してからまるっきり洗脳された祖母と母、外戚の大人達。さも我が事のように誇らしげな昔話を、ジャックはその情景を詳細に思い描けるほどにまで叩き込まれた。実際に曾祖父の跡を継ぎ、『スチームスポットのジャック』として確かに伝統を守り抜いた直系の子孫からは特に、熱心に初代の素晴らしさを説かれた。

 世襲によって受け継がれるあざなと技巧。かつて組み上げられた《ただ寵愛される舞踏の姫》を寸分の狂いもなく後世に残すためには、血筋の遺伝に頼らない厳しい修業が必要だった。単なる人形使いとしての腕前を会得するのではなく、希代の演目を完全再現するための細かな指導、手癖の矯正など、それこそ血の滲むような英才教育が必要だと、二代目の祖父が始めたことだった。それを経て次代の『ジャック』は一人立ちし、この舞踏を後の世代へ連綿と受け継がせる責を負う。

 このジャックも、そんな家に生まれたばかりに、わずか三歳から玩具のマリオネットを与えられた。

 学校には行かされなかった。必要最低限の読み書きと算学だけを教えられ、後は昼も夜もなく人形劇の修行ばかり。

 子供であろうと容赦のない教育は苛烈に過ぎ、泣こうが喚こうが一日の修行を達成するまでは食事にありつくことも許されなかった。年齢を考慮した段階的な課程も一応はあったものの、祖父は人形使いとしては優れていても、指導者としては不適性だった。

 同じ修業を経て重篤な怪我に追い込まれた父の失敗例もあったからこそ、力が入ったのだろう。間を置いて見事三代目として認められたジャックには、本来とは真逆の気質を植え付ける結果にしかならなかった。

 ジャックは、人形が嫌いだった。

 修業の末の忌避が嫌悪に変わったのではない。それより以前、繰り糸を握るよりも前の赤子の頃、豪奢な飾りつけで大袈裟に祭り上げられた『プリ・マ・ドンナ』を一目見たときから、ジャックはこれを美しいとは思えなかった。

 樹脂の肉体はつるつるとしていて冷たく、繊維の髪は指に絡まって離れず、磨かれた石の眼球は深い夜闇のような恐ろしさがあった。

 構成するもの全てが無機物でありながらヒトに近い造型を施され、そのくせ服や靴は一丁前に貴婦人の着るような贅沢品を与えられる。

 精巧に人間を模していながら、精巧であるがゆえに現実離れした出で立ちの人形を、幼いジャックは気味悪がった。

 因みにこの服飾も人形使いが制作することを義務づけられており、修業の一環として縫製も習わされる。元より手先の器用な一家であるために小さなドレスをこさえること自体難しくはないが、フリルやリボン、繰り糸を貫通させる部分などで手間がかかり、やたらと費用が嵩む。ジャックの普段着の数十倍の値段が掛かり、人形劇での収入の大半がそれらの製作費に回される。先代のお下がりを多少引き継いでいるとはいえ、おかげでジャックの生活は赤貧もいいところだった。

 ヒトでないモノのために、ヒトよりも贅沢な品を揃え、ヒトの生活を疎かにしてでも一族が求める〝究極の美〟。

 これも心身を鍛え研磨するための修業だと思えと、祖父は言っていた。

 お前が大成して後生へ残す語り部になれと、父は言っていた。

 この素晴らしい伝統を絶やしてはならないと、祖母と母は言っていた。

 さして好きこのんでもいない人形風情のために、人生を賭けろと、そう言われて、ジャックは育っていった。

 これが呪いと言わずして何と表せばいいだろう。

 物置小屋のねぐらに引き返したジャックは、ほろを被せて放置している荷車、その中に放り込んである人形を思う。

 ジャックの一族、その生家とされるスチームスポット。産業革命を後押しした一因である蒸気機関工学の発祥とも言われているこの町は、しかし西方におこった帝国の擁する都市スクラップフィールドに多くの技術者と労働力を奪われた。この町が寂れているのは、若い人間がこぞってスクラップフィールドに独り立ちしていくからだ。

 都市開発にあたり並みならぬ義理を取り付けた前町長の功績もあって、流れてくる格安の物資や助成金などの恩赦のおかげで生活には何とか困らずに済んでいるが、娯楽にかける余裕はほとんどない。せいぜいが酒や煙草、ささやかな賭事ばかりなもので、ジャックの人形劇に足を運ぶ人間は決して多くはない。それでも固定化したファンが居残っているのは、曾祖父の代から続く栄えある伝統のおかげと言えるのだろう。

 しかし実際のところ、都市で溢れんばかりに求人されている仕事の方が稼ぎは良いのだ。年頃の男児であるところのジャックにしても、寂れた田舎町でいつまでもくすぶっているよりは、華やかな都市で人並みの暮らしをしてみたいとも思う。

 人形こんなものはかなぐり捨てて、何もかもから逃げ出してしまいたいと、今までどれほど思い悩んだことだろう。むしろそういう選択肢の方が現実的ではあるはずなのだ。正直、家のしきたり自体にはうんざりしているゆえに、その逃避行自体に抵抗はない。

 では何故、こんなところで足踏みを続けているのか。


「…………」


 物心ついてからこれまで、人形の糸を繰り、人形を映えさせるための仕事ばかりしてきた。それと同時に、金を稼ぐということがどれだけ難しいかということも、ジャックは痛感していた。

 真っ当な人生を目指すなら、都市へ進出することが最も現実的だ。

 だが、はたして自分に、それ以外のことが出来るのか――この田舎街から出ていけないのは、ひとえにそういうことだった。 

 他に取り柄が無い。あったとしても、それを過信することが出来ない。皮肉なことに、幼少からの修行漬けの毎日はジャックに呪縛と併せて依存をも与えていた。

 これより他に道はないと諦めを強制され、この道を邁進するしかないのだと、否が応でも前を向かされる。血と汗と涙、全てを捧げ賭してきた日々が、決して後戻りを許さない。


 ――こうするしかないのだ。


 太陽が中天に座し、人形使いの一日が始まる。スチームスポットはいつでも曇り空。暗澹あんたんたる気分をそのままに、少年は今日もひっそりと家業を踏襲する他にないのだった。



    4.



《ただ寵愛される舞踏の姫》は全体を通して三十分に及ぶ舞台演目であり、その間は一切の休憩を挟まない長丁場の構成となっている。

 長時間の伴奏のための巨大なオルゴールや、その動力でゆっくり回転する背景など、演出装置を簡略化し単独での公演を可能とするため徹底的に改造された荷車は、それそのものがからくり仕掛けの大舞台である。

 ささやかなメロディーを奏でながら開始する物語は、幼い少女が〝究極の美〟を求めて自己表現に奔走する、人生そのもの。


 ――……動かずとも、その佇まいだけで他を魅惑して止まない。

 少女は、村で一番の人気者だった。しかし成長するにつれて身内からしか賞賛されないことに飽き、余所よその世界――自分のことなど何も知られていない、まったく新鮮な環境を求めて、生まれ故郷を出ていってしまう。

 どんな街を転々としても、少女は相変わらず愛でられ、褒めそやされた。最初のうちは新天地でも受け入れられたことに上機嫌だったが、額面通りの誉め言葉しか吐かない有象無象の人々に、少女はいつしか軽蔑を感じるようになる。一般的な民衆も評論家気取りのお偉いさんも等しくだ。どれだけの拍手喝采、注目の視線、歓声と矯声を浴びても、どこまで行っても代わり映えしない。

 人々からただ承認されるだけでは満足しないと悟った少女は、次いで己が想う〝究極の美〟というものを探求することにした。自分の素の表情だけではなく、そこからさらに昇華させた美しさ。麗しく、儚く、可憐であり、ある種の皮肉のような――形のない曖昧なものの究極を求めた。

 それはもはや人の賞賛など無関係であり、ただ自分が満足する高みを求め、ただ追い縋る道。

 他人の気を逸らすことにこだわらない探究心は、それ故に邪念に妨げられることが無くなり、以前にも増して少女を洗練し、より多くの人々を惹きつけた。己の天賦に驕らず、更なる高嶺へ至らんとする少女の姿を、誰もが美しいと感じた。

 少女は、少女の思う〝究極〟を見つけることが出来るのか。その果てにあるのは万雷の喝采か、それとも孤高の静寂か。

 未だ見ぬ理想を追って、まずたゆまず、今日も少女は舞い踊る。

 憂いに伏せた瞼の奥、炯々けいけいと輝く飢餓を絶えさせず――……。


 忙しなくドールを動かし続け、演出装置の稼動に支障がないか常に気を遣い、客の反応などにはもはや見向きもせず、ひたすらに演目を滞らせることなく進行させる。

 繰り糸を制御する十字型の繰板は少年の手には些か大きく、扱いが難しいため腕の筋が引き攣ることも多い。それでも手首のスナップや指先の力加減で絶妙なアクセントをドールに伝え、〝人形らしからぬ〟〝人間らしい〟動作を忠実に再現する。改変を重ねられた 《ただ寵愛される舞踏の姫》はもはや繰り手の事情を考慮しない域にまで達しており、どれだけ『プリ・マ・ドンナ』の美しさをアピールできるかという点のみを追求する。当代のジャックもまた、それを踏襲し、自分なりのアレンジを加えつつ大筋から外れることのない演舞を披露していた。

 一族の呪いじみた家業を継ぎ、嫌気が差しつつも寂れた町でひっそりと人形を手繰る日々。まったく自分は一体何のために生まれてきたのかと、四六時中そんな疑問がジャックの思考に纏わりつく。

 だからこそ、ジャックは糸を操る指先に激しい情動を宿らせる。

 修業中も言われ続けたことだ。美しいだけのモノに意味は無い。前例を追うだけの芝居は響かない。継承だけが目的ではなく、その途上で『プリ・マ・ドンナ』を最大限に魅せる方法を探すことも必要だ。そのためには、人形を操る者の理念や気魄きはくが込められていなければならない。演者の感動なくして、その芝居に観衆は惹かれない――。

 劇中の物語は佳境に入り、少女は自分が思う最高の自分を表現していく。年相応の可憐さに、自分にしか出せない美しさを掛け合わせ、小さな身体をめいっぱいに使って、己の全てを出していく。これまでに経た嘆き、落胆、苦悩、それら全てを、出し切らなければならない。そうでなければ〝究極〟に到り着くことなどないと思うから。

 そんな感情を表現するために、人形使いもまたこれまで以上に壮烈な舞踏を演じなければならない。指先一つ、呼吸の一つにまで神経を尖らせ、少女の全力を再現する。

 舞台を囲うハコの上、糸を垂らす天井から翳す操板は縦横無尽に動き、それらは決して観衆に見られることはない。どれだけ激しい操作をしようとも、人形に複雑に打ち込まれた糸それぞれが絡まることはなく、少女の舞踏は円滑に進んでいく。

 師匠に叩き込まれた技巧と、ジャック自ら探り当てたコツ、それらを幾重にも統合して初めて成立する腕前の冴え。

 しかしそれらは、あって当然のものであり、独り立ちするためには最低限習得していなければならない必要条件でしかなかった。あの監獄のような家から足枷付きでも出ていくために、ジャックはこれをどうにかモノにしなければならなかった。その上で人形使いとして、自分だけのオリジナリティを込めなければ客など寄せられないという。客が入らないということは金が入らないということであり、食いっぱぐれるということだ。今のところ収入源がこれしかない以上、ジャックとしても無視するわけにはいかない。

 ならば、とジャックは思う。自分自身の裂帛れっぱくとばかりに迸る感情。渾身するに足る理念や気魄とは何なのか、と。


 ……僕は、人形が嫌いだ。薄気味悪い人間もどきが必死に人間の真似をして、こんなもののどこがいいのだ。挙げ句テーマが〝究極の美〟とは笑わせる。

 ああ、嫌だ、いやだ。こんなものに振り回される宿命も、こんなものに全てを賭けたがる連中も、何もかもが。


 ――そういった、嫌気の感情。


 ある種の怨恨、呪詛を唱えながら、ジャックは繰板の手を止めない。遺伝によって授けられた天賦に加え、決して最適とは言えなかった過酷な修行を経て手に入れた——否、手にさせられた冴えの技巧によって生み出すのは、当代のジャックならではの自己表現。

 人形の魅力を出し尽くすことが第一義の人形使いとしては、あまりにも裏腹に過ぎる憤怒の如き苛烈な奏演。

 人間離れした人形の、己が思う最も気味の悪い舞踏。

 こんなものを押し付け、この人生を縛り、それをまったく毒とは考えていない悪辣な一族の思考回路への、これはせめてもの復讐だった。


 誰でもいい。どうか気付いてくれ、人形これはこんなにも気持ち悪いものなのだと。僕はこれが嫌いで嫌いで仕方がないのだと。

 こんなにも、――下らないものなのだと。


 終演後、いつも通りのまばらな拍手と申し訳程度の小銭を得て、ジャックは昼の部を無事に終える。

 芝居小屋に改造した荷車の裏、幌を被せて演者を隠すそこから出てきて、通例どおりに一応の辞儀を示す。とにかく慣習に口うるさい一族にこれでもかと染み付かされたルーチンのようなものだ。こうしなければならないと強迫観念に迫られるほどには調教されている。

 人形劇が終わった後、ジャックの両腕は決まって痺れと痙攣にさいなまれる。手の大きさに合っていない操板を無理に扱い、加えて延べ三十分間もの緩急激しい人形劇を休み無く演じ続けるために、成長途中の筋肉が著しく疲弊するのだ。現役時代の祖父なども終演後は消耗し尽くしていたという話もあるから、この演目は成長期半ばのジャックにとっては甚大な肉体的負担となる。多少なりとも楽が出来るようにアレンジを利かせているとはいえ、それでもだ。

 いつものことだが、この痙攣も嫌気の一端になる。実の父は行き過ぎた修業の果てに腕への負担が深刻化し、ついには使い物にならなくなった。食器を持つことすら困難になった父は、『スチームスポットのジャック』を継ぐ者として不適切と見倣され、一族中に睨まれながら次代の子を産む種馬として勤しむほかなくなった。

 父さんの分まで頑張ってくれと、口癖のようにジャックに言い聞かせていた。やっと産まれた跡継ぎにかかる圧力はあまりにも重かった。

 立派な人形使いとしての父を見て育っていれば、また何か違っていたのだろうか。

 意味のない空想を舌打ちとともに吐き捨て、両腕を揉みほぐしつつ今日の見物料を勘定する。

 役立たずの烙印を押されようと、過度な期待を寄せられようと、どちらにせよ待っているのは針のむしろだ。あんな家に生まれた以上、こうなる定めは覆らない。今日も明日も明後日も、こうして人形劇を開き、少ない観客の見世物になり、身体が軋むのと割に合わない金を得て、使い物にならなくなったらどこぞの女と結婚でもして、子供を産んで、その子々孫々も死ぬまで慣習に縛られて――――、


 ……ああ、何で生きてるんだろう。

 何のために生きてるんだろう。


 曇り空を仰ぐ。果てにあるはずの蒼は厚く覆われ、太陽すらもぼやけてかげる。今にも雨が降り出しそうでいて、天気は何も変わらない。

 何のために。幾度となく繰り返した、答えの出ない自問。

 人としての自由と尊厳を捨ててまでこの木偶人形に身命を賭す、その甲斐とは何なのか。価値の解らない物を後生大事に抱えて盲目的に護り抜く原動力はどこにあるのか。

 まったく、嫌気が差す。

 盛大な溜め息をゆっくりと吐き出しながら、ジャックは懐の巾着袋に小銭を入れ、一旦ねぐらに引き返そうと荷車の片付けに取りかかる。

 と、


「おおい、ジャック! 待て待て! ちょっとこっちに来い!」


 後ろから聞き覚えのある声に留められ、胡乱げに振り返ると、小太り町長がいた。血気盛んに手を振って、ジャックに大声を張り上げている。


「おまえに話がある! こっちに来なさい!」


 何だろう。今更この人形劇を咎めるつもりだろうか。しかし自分だって毎日足繁く見物しているくせに、何を言われる筋合いもないはずだ。

 いぶかって動こうとしないジャックを見て、町長はもどかしそうに声を上げる。


「――商売の話だ! スクラップフィールドの組合から使者が来ている! お前を街に招待するそうだ!」

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