第8話
温くんはこの春に引っ越しをした。と、同時に私も家を出て、彼と正式に暮らすことになった。彼は通信制の高校を三年で卒業し、動画投稿していた自分のチャンネルを消して、都内で契約社員として働いている。そして私は通信制の高校に転校し、都心から少し離れた家の近くのスーパーでレジのアルバイトをしている。面接に行ったときはぽぽちゃんの存在を知られているかひやひやしていたけれど、昼間に働いているおばさんたちはみんな優しいらくらくスマートフォンユーザーだったので安心できた。交代の時間にすれ違う同い年くらいの女の子たちは、ぽぽちゃんのことを知っているようだった。けれど情報は洩れず、私はただの高校生として過ごすことに成功していた。
誰にも理想の私を押し付けられない生活は、今まで感じたことのない幸せを見つけることができた。例えば怒涛のお客さんラッシュを乗り越えたときの達成感、パートのおばさんから貰ったポテサラ、帰り際に夕飯のメニューを考えているときのリクエストの連絡。スーパーのお惣菜が半額になっていたからリクエストを無視して夕飯を作り、それを帰ってきた彼が「疲れてるのにちゃんとお皿に盛りつけてくれてありがとね」と食べてくれること。小さな幸せの積み重ねは毎日の余裕を生み出してくれる。私はあの日のように何度も吐き戻したりすることはなく、意味もなく涙が出ることも減った。
彼は家族と少し距離を置くことにしていた。彼の母親は、契約社員とはいえ彼が一般企業に就職したことを喜んでいるようだった。望んだ通りの未来を歩む子どもを見て、親は安心する。安心した親を見て、子どももほっとする。親子の関係性に正解なんてない。距離感が近ければ良い訳でもないし、遠ければ良い訳でもない。彼は彼なりに、彼の親は彼の親なりに、ここからまた成長を重ねていくのだろう。
相変わらず、私は両親と連絡を取っていない。私の両親は結局動画投稿を辞めることなく、私が出演しない夫婦としての動画を投稿するようになっている。あの人達はこれが仕事で、生きがいなのだから仕方がない。代わりに私が出演していた動画は全て非公開にされていた。時折コピーされた動画が知らない誰かにあげられていることがあったけれど、それは通報して見ていないふりをした。そのうち私は「そういえばそんな人もいたな」というくらいにまで忘れ去られてしまうだろう。それでいい。私はいつまでも両親のたった一人の娘で、恋人である彼に愛されていれば他に何もいらないのだ。
いつだったか、桃太郎の読み聞かせ動画に「永遠にぐずっていた私の子どもにこの動画を見せたら静かになりました! 本当にありがとうございます!」というコメントをしていたあの親とその子どもは元気だろうか。私もいつか子どもを育てるときがきたら、桃太郎を読み聞かせたりするのだろう。どんぶらこ、どんぶらこ。両親につけられた傷は一生消えないけれど、愛情もまた消えることはない。私は頭のなかでゆっくりと読み聞かせる母親の声を思い出す。どんぶらこ、どんぶらこ。濁流に飲まれる私を見て、母親は懸命に子育てをするあまり一緒に流され溺れてしまったのかもしれない。
みんなに可愛がられていたぽぽちゃんは、もうすぐ十七歳になる。私はぽぽちゃんが嫌いだ。だけど本当の私はほのか。だから大丈夫。もう、溺れないよ。
チャンネル 鞘村ちえ @tappuri_milk
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