第三幕

 男は、自分が8歳の頃を思い出していた。

 両親の喧嘩が激しくなってきた頃だった。

 絶え間ない怒号と女の金切り声、強い物音、悲鳴、静まる居間、バタバタという足音の後、啜り泣く声。これら全てを受け止める情緒を男は持っていなかったため、毛布を被って日々をやり過ごすしか無かった。

 時々、自室のドアが開いて、父親の悲しそうな顔が自分を覗くのが、耐えられなかった。

 朝起きて、不穏な空気を残して、一つでも大きい音を立てたら、はち切れそうなあの空間が、耐えられなかった。


 どちらの味方なのか、分からなかった。


「おい、おい!」

 男はハッとして前を見ると、信号はとっくに青で、後続車がクラクションで急かしている所だった。

「ボーッとしてるのは感心しないぜ。お前に今死なれちゃあ元も子もない」

「これでもゴールド免許なんだけどね。冷や汗冷や汗」

 嫌な汗でべっとり濡れた首元のボタンを緩めて、ネクタイを外した。

「、、、次のニュースです。***では子ども兵士の増加が深刻化しており、現在***は、、」

「嫌な時代なこった。子どもが鉄砲持って戦争だなんてな。火薬でトランスしてラリってるガキがウロチョロしてるなんて、生き地獄だ」

 馬は吐き捨てるように言った。しかしそれは、正義の光からくる悪への憎悪ではなく、ゴシップ誌に唾を吐く中年と何ら変わりなかった。

「その通りだ」

 こんな間抜けな返事をする自分が情けなくなって、続けた。

「なぁ、君は、君は自分より不幸な人間が10億人居たら、自分は幸せだと思うかい?」

 男は狂乱で、必死になって言った。もしかしたら泣きそうだったのかもしれない。

「フン、そんなわけが無い。第一に幸福は相対評価じゃない。第二にそれが70億人でも違う。第三に何でそんな事聞いた?」

「失礼、馬鹿が興じた」

「自分に言い訳したいんだろう」

 男はギョッとした。表情には出さなかったが(悲しいことに、人は本当に図星をつかれた時は驚くほど冷静でいるように装うのだ)すぐにでもこの駄馬を捨ててやりたかった。

 その通りだ。男は自分の不幸せを認知したいに過ぎない。

 男の学生時代は至って平凡で、少し優秀な生徒、という評価を受けた。友人に囲まれる事も、恋愛をする事も、教師に反抗する事も人並みにやってみせた。

 しかし、冗談を言って笑う仲間と卒業後に飲みに行く事も、昔の彼女を思い出して切なくなる事も、恩師にお礼をしに行く事も無かったのだ。


 “人のフリ”


 男は人に、不幸を指摘される事がなかった。それは彼の家庭が抱える問題が表面化しなかった事が原因ではなく、ただ彼が、それは厚かましいと思ったからである。

「あの人に比べたら、自分なんて」と大真面目に考えて、振る舞っていたのだ。

 離婚してからの母は、忙しい中自分を育て上げ、その献身は男の自立を大いに促した。しかし居間に潜む黒い、ドス黒い影が幸せを粉微塵にしてしまいそうで、怯える日々を過ごした。


「図星かね、つまらん男だな。」

 馬はますます不機嫌になって、男の方を向かなくなってしまった。

「すまない、こうも回りくどくしないと済まない性質でね」

 肩をすくめて見せても、反応はなかった。


 高速道路を出て、ようやく山に向かった。

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