第6話 エマ。

 べリックの妻は、エナと名乗っているが、本来の名はエマだったのだろう。


 十年前、エマと言う少女は、女子修道院に預けられている。

 不帰かえらずの大森林にほど近い、沼地に面した土地に在る女子修道院だった。

 

「本当に――酷い話でしょう――」


 両親を流行病はやりやまいで無くし、頼った祖父母も直後に強盗に殺されたという身の上は、思い出しても再び頬を濡らす悲話らしい。


 聖へレナ女子修道院で司書を務める女が、私の前で涙を流し語っている。彼女の手元にある記録簿が濡れないかと気になっていた。


 本来なら煩雑な手続きを要するのだろうが、聖女という立場は司書の警戒心を容易に溶かす。


「そうですわね」


 私は記録簿を盗み見しつつ答える。


 後見人の名はべリック・バーゼルと記載され、付記された持参金を見ると、修道院側が詮索などせずに歓迎すると思われる額面だった。

 宿屋の買収にあてるつもりだった金を、そのまま渡したのかもしれない。


「エマは、今でもお元気なのでしょうか?」

「それが――」


 司書の女が言い淀む。

 

 一年間の見習い期間を過ぎた修道女は、滅多なことでは外に出るのを許されない。

 最も穏便に済ませるには、家族か後見人が、さらなる高額の喜捨きしゃをする必要がある。ようは金を出せということだ。


 あるいは――、


「――逃げたのです」


 別に珍しい話ではないのだが、修道院の目が届く教区内で生きていくのは難しくなるだろう。


「十三ぐらいでしたわねぇ――多感な時期ですもの」


 司書の女は、辺りに目を配った後に顔を近付けてきた。


「――多感過ぎたのか、少し成長も早かったんですの。随分と顔付きも変わって、その、何て言うのかしら――おと、おと、男好きのする感じ?」

「まあ」


 私は口元に手を当て、聖女としての恥じらいを表現しておいた。


「肉体が罪を呼び寄せたのかもしれません」

 

 そう言って彼女は、下唇を舌で舐めた後に一瞬だけ瞳を閉じた。淫らな想念が浮かんだことに、神の赦しを請うたのかもしれない。


「僅か十三で、男好きのする――ですか――」


 突如として襲った一連の悲劇は、彼女の成長を早めた可能性はある。


 そして――、


 べリックの妻エナは、まさしく「男好きのする感じ」ではあった。


 絶世の美女というわけではないが、抱き心地の良さそうな肉付きと、匂い立つ淫靡な眼差しを脳裏に浮かべる。


 女の私でもそうと分かるのだから、男からすれば魅力的に映るのだろう。


「では、それっきりですのね?」

「ええ。残念ながら」

「彼女の許へ良く訪ねて来た人はいませんの?例えば――後見人のべリック氏とか――」


 早熟した十三歳の少女とはいえ、ひとりで修道院を飛び出して生きていけるとは思えなかった。

 何者かが手引きしたか、外に出たとしても頼れる相手がいたはずなのだ。


「いいえ、一度も面会に来ない後見人でした。何と冷淡なのかしらと腹が立ったのを覚えています」


 それが事実なら、べリックは、エマを女子修道院に預けてからの足跡を知らないことになる。


 となれば――と私は考えた。


 べリックは、エマとは知らず、エナとして出会い結婚に至った可能性が高い。

 十歳の頃とは顔付きが異なっており、殺した相手の孫娘とは知らず妻にしたわけだ。


 他方で、エマは気付かぬはずがない。


 その彼女が、エナと名前を変えてべリックに接近した理由はひとつしか考えられなかった。


「ただ――」


 記録簿の羊皮紙を指先で繰りながら、司書の女が口を開いた。


「後見人ではないのですが、良く面会に来ていた方がいましたわ」


 その名を聞いて、私の眉が思わず上がる。


 面会人の名は、モーガン・ハインドマン。


 シルミオネの現町長を務める男だが、既に病床に在り、天に召されるのを待っている。

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