第13話 翔子、思い出す天国
私は霧の中に立っていた。
天国かな、と思う。
天国に来ていいのかな?
霧が晴れると、足元にパンジーに似た、こんなクリーミーな色のパンジーはないが、花が咲いていた。
手をしっかり握っていたはずの栄治の姿はどこにもない。温もりも、もうない。
私の記憶が確かなら、落ちていく途中で、私は栄治を抱きしめていたような気がするんだけど……。
あたりを見回すが、やはり栄治はいない。
バカ……。
私じゃダメなのかな……。
なんだか頭が働かない。こんな不思議な場所にいるのに全然違和感がない。夢の中。それが、一番表現としてあっている気がする。
一歩。また一歩と、私は歩き出した。体だけ別の物のように動いている。
ああ、あの霧の中に行くんだ。そんな気がした。
前方には数メートル先も見えない、濃い霧のかたまりがある。
それに気が付いた時、私は私の名前を呼ばれた。
「翔子先輩!」
可愛くて女の子らしくて、そして懐かしい声。何度もその名前を呼ばれたことか、私の妹みたいな後輩。
香奈。
嫉妬さえしたが、私は香奈が好きだ。大好きだ。
声を聴いただけで胸がきゅっと苦しくなり、目から熱い涙が溢れる。振り向くと、やはり、いつものように優しく微笑む香奈がいた。
香奈!
口は動くのに声が出ない。
「先輩、ダメですよ。まだやることがあるじゃないですか? 私が言うのもなんですけど」
やること? 何だろう。とても大切なことだったような気がする。
「それから翔子先輩。私、先輩と栄治さんがお付き合いしている時、正直羨ましかったです……」
少し間をおいて香奈は続けた。
「……でも、二人が別れたって聞いた時、すごい悲しかったです……」
初めて知った、香奈の思い。普段は自分の気持ちを、あまりはっきり言わない子だ。それは私が一番良く知っている。おそらく今、人生最大の勇気を振り絞っているのだろう。
それでも香奈は笑顔で続けた。
「先輩はまだ……栄治さんのこと、好きですよね?」
そうだ。思い出した。栄治!
私は栄治が好きだ。
私をからかう栄治も。
私を見る栄治も。
私を愛した栄治も。
私と別れた栄治も。
私に笑顔をくれた栄治も。
私に涙をくれた栄治も。
私は栄治が好きだ。
「先輩、公開しないでくださいね。私のことは……忘れてください……」
そう言うと香奈は、天使のように光り輝き、霧の中に消えていった。
その瞬間私は、貧血で倒れる時のように視界が狭くなり、力が抜け重力に引かれるまま濃い霧の中に倒れた。
香奈……。
ごめん……。
ありがとう……。
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