第8話 栄治、さわれない両想い

 テニス部に入り、昼休みは図書室に通う。そんな日が数週間続いたある日、部活が終わったあと、翔子に呼び出された。

 日が落ちるのも早くなり、あたりはもう薄暗い。中庭にある大きな欅の木の下。

「愛の告白か? 悪いけど俺、好きな人いるから」

 俺は思ったことをそのまま言った。

「違うわよ!」

 翔子はため息を付きながら怒り、続けた。

「もういい加減にしたら?」

「何を」

 俺はとぼけて言った。

 香奈のことか……。翔子は気になるのかな?

「香奈のことっ! ちょっとついてきて!」

 そういうと俺は翔子に手を引っ張られ、学校を出た。

 その間、翔子は何もしゃべらなかった。

 俺の「どこ行くんだよ」とか「愛してるよ」なんて問いかけも、すべて無視だ。

 こりゃ本気で怒ってるな。

 十五分ほど歩いただろうか、一軒の家の前で止まった。翔子は、ためらわずインターホンを押し、片桐です、と告げた。

 大理石のような表札には宮島の文字。

「おい。もしかして……」

 ここは……。

「そ、香奈の家」

 ドアが開くと、小柄でやはり香奈に似た女性が出てきた。おそらく母親だろう。

「翔子ちゃん、いらっしゃい」

「こんにちは。おばさん。こっちは私の友達」

 俺のことか。

「新山栄治です。不束者ですが、宜しくお願い致します」

 なんだ翔子のヤツ、俺に香奈の親を紹介させてどうする気だ? まだ早いだろ。

 俺の挨拶は、翔子の会話によって自然に流されると、和室に通された。

 色とりどりの花束と供え物に囲まれた仏壇。愛読書もきれいに並べられている。

 そこに置かれた香奈の遺影。

 おそらく翔子は、これが見せたかったんだろう。

 香奈が死んだという証拠。香奈はもういないという事実。

 俺は無言のまま、線香をあげた。

「おばさん、香奈の部屋も見て良いですか?」

 翔子は言った。

「え、ええ」

 今日でいったい何粒目の涙だろうか、ハンカチで目を抑えながら答えた。

 席をはずすように、俺は翔子に続き二階にある香奈の部屋に入った。

 階段を上がる途中で、和室から叫ぶような母親の泣き声が聞こえた。

 香奈の部屋は薄いピンクのカーテン、ベッドの脇にはクマのぬいぐるみ。まさに女の子の部屋だ。今さっきまで香奈が座り、勉強していたような机。天井まで届く大きな本棚には少女小説がぎっしり。何冊か借りていこうかな。殺風景な翔子の部屋とは大違いだ。

「分かった?」

 一息ついて翔子が言った。

「ああ……。香奈はやっぱり可愛いな」

 部屋を見回しながら言った。

「そうじゃなくって! 香奈はもういないの!」

「知ってるよ」

 即答した。うん。知ってる。

「じゃあ何で? 栄治はもう何もできないじゃない」

 翔子は声を押し殺したように言った。

 下にいる母親に聞かれない為じゃない。翔子が本気で怒っている時は、大声ではなく怒りを凝縮したような声で物を言うのだ。

 分かってる。分かってるよ、翔子。

 俺が出来るのはもっと香奈を好きになることくらいだ。俺は自分の思いを声には出さず、ただ香奈の机を見つめていた。

 ちりん……。

 開いていたドアのところで鈴の音がした。

 俺と翔子が同時に振り向くと、ドアの隙間からネコがこちらを見ていた。

「ミルク……」

 翔子はそうつぶやくと、白く人懐っこい顔をしたネコを抱き上げた。

 ナイスタイミングだな……。

 ニャ~。

 俺の考えに答えるように、俺を見てミルクは鳴いた。翔子があごの下を撫でているが、ミルクはやはり俺を見ている。

「何だお前。俺に惚れたか?」

 翔子に近づき、ミルクと呼ばれたネコの頭を撫でる。

「でもごめんな。俺好きな人がいるんだ。たとえ結ばれない恋でも、俺にできることがなくても、俺はその人が好きなんだ」

 そうミルクに言うと、ミルクは翔子の手から飛び出して出て行った。

 翔子がじっと俺を見ている。

 そんな目で見るなよ。

 俺はつい目をそらしてしまった。

 いかん。間が持たん。

 ふと、俺は机の棚にあった鍵のついた手帳のような本を手に取った。表紙にはダイアリーの文字。日記だ。

 香奈の日記。

 鍵か……。

 毎日書いてるだろう、きっとこの辺りに……。

 俺は机の引き出しを開けて鍵を探した。

「ちょっと!」

 引き出しの中を探す俺の手を掴んで翔子が睨んだ。

「頼むよ翔子」

 翔子の目を見て言うと、掴んでいた手の力が緩んだ。

 少しだけ、翔子の目が潤んだような気がした。が、翔子は俺から手を放し背を向けた。

「勝手にすれば」

 翔子の背中が言った。

 俺は無言で、引き出しの中から鍵を探し出すと日記を開けた。

 ちょうど今年の入学式から書き始められている。

 字も書き手の性格を表すように、小さく整っている。内容が短い時もあったが、毎日休みなく書かれている。俺なんか三日も持たないな。

 パラパラとめくると、あるページで俺の手と目が止まった。

 俺の名前が出ていたからだ。

 

 五月二十六日

 中略

 部活が終わるとテニスコートに翔子先輩の彼氏さんが先輩を迎えに来た。暗くてよく見えなかったけど、背が高くてスラっとしてた。

 先輩はえいじって呼んでいた。どんな感じだろう。一瞬目が合った時、心臓が跳ね上がった。長距離を走った時より、胸がドキドキしちゃった……。

 これって一目惚れなのかな? でも先輩の彼氏だし……。どうしよう……。


 その後の日記には毎日と言って良いほど、俺の名前が出ていた。

 体育の時、サッカーで一点決めたとか、廊下ですれ違った時、香水の香りがしたとか。俺の双眸からは、自然と大粒の涙が溢れていた。小説を読んでいた時とは、比べ物にならないくらい。

 なんだ、両想いじゃん。

 気が付くと翔子は部屋にいなかった。俺は涙をワイシャツの袖で拭き、東向きの窓を開ける。

 秋の夜風が香奈の部屋を通り抜けた。

 しばらくの間、香奈も見ていただろう窓からの景色を眺め、濡れた目を乾かした。

 一階へ降りると翔子は香奈の母親とリビングでお茶を飲んでいた。

「気は済んだ? じゃあ、おばさん、そろそろ失礼します」

 その後のことは良く覚えていない。翔子が何かを話しかけていたが、頭には全く入っていなかった。

 香奈が俺のことを好きだった。

 両想いじゃないか。何やってんだ俺は。

 いや、悩むことも無い。両想いなら俺が出来ることは決まっている。翔子、できることがあったよ。

 俺は駅前で翔子と別れ、家に帰ると自分の部屋に向かった。電気も付けずにベッドに倒れこむ。

 今まで無理をしていたのだろうか、どっと疲れが出た気がした。長い息をつく。母親が部屋に入ってきて何か言ったような気がしたが、頭は真っ白。そのまま俺は眠りについた。

 何故だろう、久しぶりに深い眠りだったような気がする。

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