第33話 人道

(なんだこれは)


 氷の弾丸を辛うじて急所からそらした則宗は、目の前に映る現実を処理しきれていなかった。


「かははっ、どうした『若松童子』ィ! 動きが鈍くなってるぞ!」


 人が変わった様子で、嬉々として怪幻『若松童子』を蹂躙する愛弟子が、彼の両眼に映っている。


 そんなはずない。


 二人で決めた封印作戦は、則宗が怪幻の奇襲を受けたときに頓挫した。

 惣司に余力は無かった。

 則宗はあの瞬間、自身らの敗北と、日本の壊滅を覚悟した。


 ひるがえって、現実はどうだ。


(惣司、止まれ)


 声を絞り出そうとした喉は、血を吐き出すだけに終わった。


 もう声すら届かない。

 則宗も、とっくに限界を超えていた。


 だというのに、惣司は、

心象呪法しんしょうじゅほう――」

 際限なく、深淵へと堕ちていく。


千剣桜揆せんけんおうき


 そして、怪幻『若松童子』は死に絶えた。

 間違いなく、跡形もなく。


 名残雪も、どこかへ消え去った。


 だが、それは変わらず、その場に居座り続けている。


「あはははははっ」


 呪力を纏う、希代の呪術師。

 親友の忘れ形見の彼が、則宗の目にはおぞましい怪物にしか見えなかった。


  ◇  ◇  ◇


 心の奥底から、脳裏に、「殺せ、皆殺しにしろ」と声が響いている。


 知らなかった。

 自分がこれほどまで強力な破壊衝動を抱えていたなんて。


 そして、これほどまでに高揚感を覚えるなんて。


「惣司ッ!」


 名前を呼ばれた。


「爺さんか。何の用だ?」

「どこへ行く気じゃ」

「さあね。知らないし、知ってたとしてなんで言わなきゃなんねえんだよ」


 小さなことに、腹が立つ。

 俺を縛り付けようとする言葉が癇に障る。

 青筋を立ててぶちぎれそうになる。


「貴様はいま、怪幻に堕ちようとしている」


 ああ道理で。

 でも、どうでもいいな。


「俺は俺だ」

「いまならまだ戻れる。帰ってこい、惣司」

「……帰る?」


 帰るって、どこにだよ。


「俺の居場所は無くなった。11年前のあの日、奪われていたんだ。お前ら桜守の手によって」


 ああ、腹が立つ、腹が立つ。

 いっそこの爺さんも壊してしまおうか。


「帰る場所なんて、どこにも無いんだよッ!」


 呪力を込めた拳で爺さんを殴り飛ばそうと、思い切り腕を引く。

 その腕を、背後からつかむ腕があった。


「桜守くん!」


 柔らかく、しっとり汗で湿った腕だった。

 甘い匂いを発散させる彼女が誰なのか、俺には見当がつく。


「大丈夫だよ。桜守くんの居場所なら、ちゃんとあるよ」

「……アリス」

「何万人もの人がね、桜守くんの活躍を、待ってるの。だから、ね?」


 アリスが俺の背中に、頭を押しあてた。


「帰ってきて、お願い」


 11年前の話を聞いてから、ずっと収まりがつかなかった。

 その激情が、ゆっくりと、静かになっていく。

 頭の奥に響く声が、鳴りを潜めていく。


「ごめん」


 俺の居場所がきちんとある。

 そう言ってくれて、本当にうれしかった。

 でも、もう、戻れない。


「俺は今日、人を殺した」


 心の声の言いなりになって、理性を放棄して、感情のままに拳を振るった。

 やつが怪幻に堕ちたのは結果論で、仮に人のままだったとしても殺していた。

 確固たる決意と強靭な意志をもって、俺は殺人を企てた。

 それなのに、平凡な日常を願うなんておこがましい。


「俺は陰に生きる。だから、もう、お別れだ」

「桜守くん!」


 アリスが俺の腕の下に腕を通し、抱き着いた。

 だけど、なんて声を掛ければいいかわからないようで、彼女が次の言葉を紡ぐまでには時間が掛かった。


「……アリスはウサギを見つけました。そのウサギが懐中時計を見て言ったのです。『遅刻だ、遅刻だ』と」


 不思議な国のアリス。

 その冒頭が中学生のころ、英語の教科書に載っていた。

 アリスが口にしたのはまさにそれだった。


「ウサギは地中の穴へと走り込んで消えてしまいました。アリスが彼を追いかけると、彼女は穴に真っ逆さま」


 アリスが俺を振り返らせると、彼女はイタズラな笑みを浮かべていた。


「さて問題です! アリスはどこに落ちたでしょう?」


 彼女は地球の真ん中に落ちてしまったのか。

 いいえそうではありませんでした。


「彼女は不思議な国に行ったのです」

「ぶっぶー! 正解は、恋に落ちた! でしたー! あはは、桜守くんは勉強不足だなぁ!」

「なんだそれは」

「アタシのメインチャンネルの小噺こばなしだよ! そんなんじゃアリスリスナー検定3級も受からないよ!?」

「俺はお前のリスナーじゃないし、検定も受けない」

「えー!?」


 困った顔を見せたアリスが、ふっと優しく微笑んだ。


「ほら、笑えた」

「え?」

「大丈夫だよ。桜守くんはまだ若いんだから、失敗なんて何回したってお釣りがくるよ」


 笑っていたんだろうか、俺は。


「惣司ぃ! 貴様! オレを勝手に殺すなぁ!」

「叔父っ、なんで生きて、死んだはずじゃ!?」


 背後に、気づけば、叔父がいた。

 殺したはずの叔父がいた。

 まさかこいつ不死身か⁉


「……不完全な術式が、こいつの命を救ったのじゃろう。まったく、悪運の強い息子だ」

「父さん! 離せ! 俺はまだあいつに!」

「黙れ。貴様のしでかしたことを考えれば追放してもおかしくないんじゃぞ。むしろまだこの場においてやっていることに感謝しろ」


 そう言って爺さんが叔父を締め上げて気絶させた。


「キャー!? 桜守くん! ひ、人が、人が死ん――」

「落ち着け。気絶しただけだ」

「目の前で、人が失神したのになんで落ち着いていられるの⁉」

「誰が人で無しだ」

「言ってないけど!?」


 人が生き返ったことと比べれば、気を失うくらいありふれた事象だろ。


(そういえば、『若松童子』はこいつから分離した。あの時点ではまだ死んでなかったってことか)


 そう考えれば腑に落ちないこともない。

 というか、そろそろ驚くのにも飽きた。

 納得できる答えが見つかったならそれで我慢しておこう。


「さて、惣司」


 爺さんが俺と向き合った。


「見ての通り、あいつは死んでおらん。不出来な息子じゃ」


 頭を下げて、爺さんが言う。


「お前の腕を汚す価値など無い。そうは、考えてはもらえぬか?」


 ……復讐なら、すでに達成した、気になっている。

 その結果得られたのはわずかばかりの高揚で、失ったと感じたものはとてつもなく大きい。


(俺はギリギリ、人の道を踏み外さずに済んだのか?)


 もう一度、やり直せるんだろうか。

 この場で答えは出そうにない。

 これからの人生で見つけられるだろうか。

 俺はまだ引き返せるのか、それとももう、手遅れだったのか。


「あー!」


 アリスが突然、耳元で大声で叫ぶ。


「大変だよ桜守くん! アタシ、道中に荷物置いてきちゃったんだった!」

「馬鹿なの?」

「ばっ、違うよ! ここですごい爆発音がしたから、それで慌ててたの!」


 ……心配、してくれたのか。


「だから、桜守くん」


 彼女が俺の腕を引く。


「一緒に、取りに帰ろ? 失くしたものをさ」


 進むことも戻ることもできずにいる俺に、彼女が道を照らしてくれている。


「……ああ、いま行くよ」


 そうして俺は……俺とアリスは、金烏門きんうもんの所有する伊勢市豊川町の屋敷を後にした。


 怪幻の領域の収まった後の空は、いつもより晴れ渡って見えた。

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