第32話 『 』

 領域を現実に侵食させる怪幻は数百年に一度現れる。

 怪幻『若松童子』が現れたのは240年ほど前。

 現在から見て、二番目に新しい災厄にあたる。


 では最も新しいそれはいつだったか。

 答えは11年前。

 惣司の父親が封伐した、鬼神と龍が融合したような体長50メートルを超える怪幻だ。

 巨大な鱗と鋭い牙、執念の炎ですべてを焼き尽くすような瞳。

 対峙するだに恐ろしいそれは、封印という結末をもって被害を最小限に抑えられて今日に至る。


 だが、当時、呪術機関である金烏門きんうもんを追放されて7年になる惣司の父が封印器具を持っていた理由と、その封印器具は現在どこにあるのか。

 その2点は依然、謎に包まれたままである。


  ◇  ◇  ◇


(体の動きが悪い……! あの怪幻の放つ冷気が、筋肉の伸縮を制限しているんだ)


 怪幻『若松童子』との死合は苦戦を強いられていた。

 やつの動きは俊敏で、重力に縛られていないかのように軽やかで、縦横無尽に空間を移動する。


 やつを狙って攻撃してもとらえられない。

 対照的に、俺たちは奴の攻撃をしのぎ切れていなかった。

 体中いたるところに裂傷ができて、その傷口が冷気によって凍り付かされている。

 触覚が少しずつ遠のいていく。


(くそがっ、ほんの数秒でも時間を稼げれば)


 俺には必殺技がある。

 この状況を打開するだけの必殺技だ。


 心象呪法しんしょうじゅほう千剣桜揆せんけんおうき


 廃工場で怪幻を討伐した時にも使用した、呪術の神秘。

 心という形而上学で物理学を上塗りする、神の作り出した世界法則を冒涜する呪法。


 俺はこの戦いの中でそれを何度となく展開しようと試みている。

 だがその度に、怪幻が目ざとく反応し、俺を集中攻撃しようとする。


「惣司、何秒だ」


 則宗さんが言った。

 端的な表現が意味するところはつまり、心象呪法を発動するのに必要な時間と、則宗さんが囮になる時間のことだ。


「5秒だけお願いします!」

「長い、2秒にしろ!」


 無茶を言う。

 でも、それでも。

 無理を通さなければ敗北の道理が待ち構えているなら――


「行くぞ!」


 俺にできることはただ一つ。

 期待に応えることだけだ。


「心象呪法――」


 印を組み、呪力を編み上げる。

 今日のコンディションは凄まじい。

 かつてないほどの伝達効率で、俺の内側に術式の回路が作り上げられる。


 それでも……遅い。


(耐えてくれ、則宗さん!)


 必殺技を展開しようとする俺を怪幻が狙っている。

 マシンガンのように打ち出されるの氷のつぶてを、鋭利な刃物と化した氷柱の剣の斬撃を、則宗さんが身を挺してせき止めている。


 真っ赤な血が宙を舞う。

 極限の集中が世界をスローで再生する分だけ、一秒先が遠い。

 術式が完成するのがもどかしい。

 早く、コンマ1秒でもいい。

 則宗さんが生きている間に、完成しろ――ッ!


「千剣桜揆ッ!」


 刹那、漆黒の世界が広がった。


(討ち取った……ッ!)


 打ち出される千の剣の軌跡は、一刀一刀が純粋な呪力で生み出された祓魔ふつまの力。


 篠突く斬撃の雨が、怪幻『若松童子』を八つ裂きにする。

 やつの全身からどす黒い瘴気が吹きこぼれる。


「ふっ、はぁ、はぁ」


 いよいよ呪力が底をついた。

 今度こそすっからかんだ。

 わずかな身体強化もできない。

 体が自分の物じゃないみたいだ。

 重い、指一本動かせない。


「おっと」


 ふらりと倒れそうになる俺を支える影がひとつ。


「よくやったな、惣司」

「則宗さん、怪幻は」


 肩を組んで、則宗さんが俺の視界を調整してくれる。

 そこに、特大の黒い靄が広がっている。


「祓われたよ、さすが、あいつの息子だ」


 倒した。倒したんだ。

 金烏門きんうもんの歴史でも最悪に分類される怪幻『若松童子』を、この手で討伐したんだ。


 だというのに、なんだろう。


「惣司?」

「則宗さん、怪幻を祓うと黒い瘴気を放って霧散しますよね」

「ん? ああ。何を当たり前のことを」

「だったら、現実に侵食した領域はどうですか? 怪幻を討伐すれば収まりますか?」


 雪は降り止まない。

 それどころか、ますます威力を強めている。

 まるで吹雪だ。

 視界が真っ白に染まる。


 そんな中で、どす黒い瘴気になった怪幻は、いまもなお霧状のまま、屋敷の庭にとどまり続けている。


「……領域は、怪幻によって生まれるものだ。怪幻が消えれば、領域も閉じられる」


 やっぱり、そうか。


「則宗さん、まだ祓えてないんだ、『若松童子』はまだ、生きている!」


 そう言っている間にも、霧は凝縮し、固体へ戻ろうと画策している。


 時間の猶予はわずかもない。


「惣司! もう一回いけるか!?」


 体中が重い。

 足を一歩踏み出す間に意識が飛びそうだ。


 それでも、畳みかけるならいましかない。


「ハッタリくらいなら利かせられます! 俺が囮になる間にやつの再封印を!」

「……ッ! わかった、死ぬなよ!」


 死ぬなよ、か。

 そうか。

 死ぬかもしれないのか。


 嫌だな、死にたくないな。


「本当に、割に合わねえよな」


 震える膝に鞭打って、言葉を紡ぐ。


「心象呪法――」


 その間にもやつは元の姿へ戻ろうとしている。

 やつの周囲にこぶし大の雹が無数に表れる。

 それは数秒後、俺に降り注ぐ銃弾の雨だ。


 呪力の切れた状態で、しのぎ切れるか?


(考えても仕方ないか)


 できる限りのことはやった。

 あとは任せよう。

 親父が信じた菊地の天才が、怪幻『若松童子』を封印してくれることを。


「千剣――」


 言い切る前に、雹の雨が降り注いだ。


 ただしその銃口を俺ではなく、封印器具を持って『若松童子』へと迫る、則宗さんへ向けて。


「……あ?」


 真っ赤な血飛沫が跳ね上がる。

 打たれた?

 どこを?

 致命傷は避けたか?

 血の量はどれほどだ?


「則宗さ――」


 駆け寄ろうとする俺にも氷のつぶては迫っていた。

 転がり落ちていく、俺の意識が、闇の奥底へと。


  ◇  ◇  ◇


 鬼神と龍が融合したような体長50メートルを超える怪幻。

 11年前に惣司の父親が封伐したそれは、封印方法も封印場所も、一切が謎に包まれたアンノウンだ。


 今日に至るまでは現在形で、だがいまこの瞬間からは、過去形で。


『殺せ、殺せ』


 暗闇に堕ちた惣司の意識の中で、声高に主張する怨嗟が響く。

 憎悪と怨念に汚れた邪悪な衝動。

 その声の主こそ、11年前に現れた最強最悪の怪幻。


『殺せ惣司。俺がお前を殺したように、お前があの怪幻を殺せ』


 11年前、惣司は既に殺されている。

 だから惣司の記憶には、父親が怪幻と戦う景色が途中までしか残っていない。


 彼の父は惣司の死体に術式を編み込み、怪幻の器として、諸行無常の理から彼をはじき出した。


 つまり彼こそが、人の依り代に宿った最強最悪の怪幻。


「殺す、殺す」


 惣司の眼前に迫っていた氷のつぶてが、突然湧き上がった呪力の余波で砕け散る。

 おおよそ、人が保有できる限界量を超えた呪力を湯水のように溢れ返し、惣司が怪幻『若松童子』をにらみつける。


「……皆殺しだ」


 希代の傑物が、目を覚ます。

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