5-2


 ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ――

 自意識が遥か彼方に吹き飛んでいた。僕……、今、生きている……んだよな? 自問自答すら、現実世界に存在しているのか危うい。

 数分間の記憶を呼び起こすことで、僕は自らの生存確認を試みた。


 シレネをタンデムシートに乗せ、郊外の大通りを自身のマシンで爆走していた僕の目に目的地である空き倉庫が映った。僕が減速し、手前で停車する準備を開始しようとしたところ、フルフェイスメットを着けていないシレネが僕の耳元で大声を、

「止めるな! このまま入り口に突っ込め!」

 彼女は僕に死刑宣告を告げたんだ。

「――なんでだよ!? 殺す気か!?」

「女は誰しも自分を守ってくれるヒーローに憧れているんだろう!? 登場は派手な方がいいに決まっている!」

「……は、はぁっ!? コレ、現実だぞ!? 漫画や映画じゃないんだぞ!?」

「大丈夫だ! 人の身体は存外、ちょっとやそっとのことじゃ死なんッ! 減速したら私がお前を殺すぞ!」

 一切の抗議が受け入れられない。どうやら僕には命の選択肢が与えられないようだ。

 ええいっ、ままよ――

 僕はスピードを緩めることなく右方向に旋回し、大通りから外れる。そのまま巨大なシャッター扉に向かって猪突猛進して――。


「やはり敵は多勢だったようだな」

 僕の背後ろで人が動く気配がする。おそらくシレネがバイクから降車し地面に降り立ったのだろう。僕も慌ててフルフェイスメットを外しバイクから降りながら周囲に目を向けると、異形の光景が視界に広がった。

 シレネの読み通り、その場所には犬塚と柳田以外にも見知らぬ男たちがいた。お世辞にも普段の素行が良さそうには見えない連中はみな、一様にポカンと大口を開け、僕らの登場に呆気取られているようだ。僕たちが突き破った入り口のシャッターとは反対側、倉庫の奥には背の高いスタンドライトが立てられており、薄暗い空間を気色悪いピンク色が照らしている。殺風景な空き倉庫におよそ似つかわしくない丸型のベッド、撮影スタジオのセットのような白い張りぼて板が、場の奇妙さを引き立たせていた。そして、ベッドの上に座らされている一人の少女の姿が見える。

 僕の視線が一点に釘付けになった。一週間振りの再会となる彼女――なるみもは、あられもない恰好で、手首を拘束されているようだった。彼女は猫目を大きく見開いて、信じられないという顔つきでこちらを見ている。

「――なるみもッ!」

 僕は彼女の元に駆け寄ろうと弾けるように足を動かした。しかしすぐに柄の悪い男二人が僕の前に立ちふさがり、僕は足止めを余儀なくされてしまう。僕が歯噛みを覚えるのと同時、

「ウソ……だろ」誰かが呆けた様にそうこぼす。

 声のする方に目を向けると、珍しく茫然とした表情を晒す犬塚が、ヨロヨロと覚束ない足取りで僕に近づいてきた。

「まさか、お前が……藤吉ごときが、そんな――」

 ブルブルと全身を震わせている犬塚が――でもすぐに。

 顔面の口角をニンマリを大きく吊り上げて、身体をくの字に曲げて、

「――アハッ……アハハハハハッ!」

 閉鎖空間に響き渡るような笑い声を吐き出した。

「アハハハハハッ! アハハハハハッ!」

 ゾッ――と恐怖心が背筋をなぞる。この世界には存在しない怪異に遭遇したような、得も言われぬ生理的嫌悪が全身を硬直させた。

 しばらくして笑い止んだ犬塚が、はぁはぁと息を整えながら、

「――サイッコー……サイコーだよ藤吉。俺、お前がこの場所を突き止めるなんて、全く想定してなかった。お前がここまでしぶといなんて思わなかった。こんなにも……自分の思い通りにならなかったゲーム、はじめてだよッ!」

 キラキラと目を輝かせ、両手を広げて鼻息を荒くする犬塚に、僕は一切の共感を見出せていない。彼は何故こんなにも嬉しそうなのか、興奮しているのか――理由は全くわからないし、わかりたくもない。犬塚樹を理解しようとする行為そのものが無意味に思えた。

「ちょうどいいや。藤吉が絶望に沈む顔、生で見たいと思ってたんだよね。プラン変更――」

 不敵な微笑を浮かべた犬塚が、パチンと指を鳴らして、

「なるみもの前で、お前の口から、お前自身の意志で――『敗北』を宣言させる」

 その音を合図に、柳田率いる周囲の男たちがのそのそと僕に近づいてきた。

 急な暴力の香りに、僕は思わず身構えて後ずさりをする。けど、遅かった。

 地面に転がっていた鉄パイプをだるそうに拾い上げた柳田が、ニタァと悪意に満ちた笑みを浮かべる。右腕をゆっくりと振り上げた彼は、「オラァッ!」そのまま無遠慮に、僕の脳天めがけて鉄パイプを振り下ろしてきた。僕は脊髄反射で身を引き、両腕をあげて頭をかばい――右腕が引きちぎられるような痛みを遅れて覚える。「……つぅ――」うめき声を漏らしながら僕はその場で膝をついた。

「ふ……藤吉くんッ!?」遠くから、なるみもの悲痛な声。

 しかし彼女の懇願をあざ笑うかのように、今度は柳田が僕の腹部を思い切り蹴り上げた。戻しそうになるほどの吐き気が自我を削ぎ、僕は両腕でお腹を抱えながら地面に倒れ込む。痛みを必死にこらえながら身体を縮こませた。

「藤吉……お前、バカじゃねーの? ザコのお前が女と二人で乗り込んだところで、この状況、どうもできねーだろ?」

 柳田をはじめ、周囲の男たちがゲラゲラと笑い出す。

 やがて柳田とは別の声が、恍惚としたトーンで、

「――オイオイッ! よく見りゃこの姉ちゃん、めちゃくちゃ美人じゃねぇか! オレ、こっちの方がタイプかも!?」

 痛みを意識から無理やり引き離した僕は、膝をついて上体を起こしグッと目を見開く。ドレッドヘアの男が下品な目つきでシレネに近づこうとしていた。彼女はというと、醒めきった灰色の瞳でドレッドヘアの男を睨み返すのみ。

「や、やめろ……」

 僕がヨロヨロの足取りで彼らの間に入ると、ドレッドヘアの男が露骨に顔を歪ませて、

「――はっ? 何お前。俺たちのお楽しみ、邪魔すんじゃねーよ」

 ドレッドヘアの男が乱暴に僕の胸倉を掴み上げ、僕の身がグッと引き寄せられる。ただでさえ全身に力が入らない中、五体の自由を奪われた僕の視界いっぱいに男の顔が広がった。男は右腕を振り上げ、今まさに僕の顔面を殴りつけようとしていた。

 ――クソッ、クソッ、クソッ、クソッ……ッ!

 己の無力さをただただ噛みしめ、状況を打破できない力不足が悔しかった。

 やはり僕みたいな奴は、好きな女の子一人すら守ることができないのだろうか――

 意識が薄らいでいき、ひとかけらの勇気が絶望になり変わろうとしていた。

 して、いたんだけど――

「もーっ!? アタシのこと、置いてかないでくださいよーっ!?」

 殺伐とした雰囲気におよそ不釣り合いな声がのん気に響いたもんで、僕の意識が『彼女の登場』に奪われたのは必然だった。

「……えっ?」ドレッドヘアの男が間抜けた声を漏らし、僕の胸元から手を離した。地面にへたりこんだ僕はゲホゲホとせき込みながらも、『彼女の登場』を視認しようと必死に顔を上げる。

 やはりというか、プリプリとふくれ面を披露するエーデルが両手を腰にあて、パタパタと真っ白な羽根をはばたかせながら倉庫内を浮遊している。

 やがて彼女はストンッ――と地面に降り立って、

「いくらアタシが飛べるからって、アタシ一人バイクに乗せてもらえず、何十キロも掴まったままついていくなんて……無茶苦茶なんですよーっ! 途中で手、離しちゃったじゃないですかーっ! アタシはか弱い乙女なんですからねーっ!?」

 ズカズカとシレネに詰め寄り、マイペースに抗議なんかしている。

「何……今、浮いて――」ドレッドヘアの男がポカンと阿呆面を晒していた。しかし彼とは別の、茶髪の男が舌なめずりをしながら節操のない声をあげる。

「――き、金髪ロリ!? ……やばい、めちゃストライクなんですけどっ!?」

 茶髪の男が無遠慮にエーデルに近づき、こともあろうに彼女の後ろ頭を撫でまわし始めた。

 泣きそうな顔で振り返り、声もあげられずに恐怖するエーデルの顔が僕の脳内で再生される。

 僕は焦燥し、「ま、待て……」膝を立て、両足に全力を込めて全身を持ち上げた。茶髪の男をエーデルからはがそうと、フラフラの状態で彼らに近づき――

「……あっ?」

 次に起きた数秒間の出来事を、僕の脳はうまく処理することができない。

 だからありのままを綴る。

「汚ぇ手でアタシの髪、触ってんじゃねーよ。三下が」

 彼女のソレとは思えないほど低い唸り声をあげたエーデルが、茶髪の男の手を素早く払いのけた。振り返った彼女の表情は今まで見たこともないほど冷たく、その目つきは野犬のように鋭く――爛漫な笑顔をいつも絶やさぬ彼女と同一人物とは思えない。

 振り返り様、エーデルが男のみぞおちに強烈なボディブローを喰らわせた。「――グッ!?」茶髪の男がうめき声を一つ漏らしたのち、そのままグラリと地面に倒れ込む。

「な……なんだこの女――このッ!」恐怖に顔をひきつらせたドレッドヘアの男が先ほどの柳田同様、床に転がっていた鉄パイプを拾い上げ、エーデルに向かって振り下ろす。しかしエーデルは涼し気な顔のまま眼前に迫る鉄パイプを左掌で掴み取り、そのままぐいっと手前に引き寄せた。「……うおっ!?」体勢を崩したドレッドヘアの男は前のめりの恰好を余儀なくされ、エーデルの膝蹴りが彼の腹部に直撃する。断末魔を上げる隙すら与えられず、ドレッドヘアの男もまた消沈した。

「う……うわあああああっ!?」犬塚と柳田を除いた最後の一人――スキンヘッドの男が雄たけびをあげながらエーデルに突進した。エーデルは彼の猛進を間髪で躱し、ひらり身体を半回転させながら男の後ろ頭を片手で鷲掴みにする。男の勢いをそのままに身を屈ませたエーデルが、男の顔を地面に思いっきり叩きつけた。

「ぐふぅっ!?」地面に顔を突っ伏したスキンヘッドの男はピクピクと痙攣したのち、やがてガクリと動かなくなる。ドクドクと赤黒い血が水たまりを為した。

 立ち上がり、ぶっきらぼうに前髪を掻き上げたエーデルが、

「ザコ共が。アタシにケンカ売るならあと百回は死んできな」

 唾を地面に吐き捨てながら、フンと鼻を鳴らしていた。

 ……どういうこと?

「……どういうこと?」

 心の声がそのまま、脳のフィルターを通過することなくこぼれる。

 事の成り行きを遠巻きに眺めていただけの僕はあんぐりと口をあげながら、巨大な疑問符を噛み砕けずにいる。エーデル、キミは一体――

「エーデルの前世だがな」僕と同じく彼女の暴虐を流し見ていたシレネが、僕の胸中を察したのかチラリとこちらを一瞥した。

「界隈では有名な、札付きの不良だったんだよ。喧嘩させれば負け知らずで、暴走族チームの女総長をやっていたらしい」

「えっ……」驚愕の事実。開いた口がさらに開かれ、アゴが外れそうだ。

「……だから、僕のバイク、見ただけで車種がわかったのか――」

 心の片隅に引っかかっていた謎が一つ解けたところで、彼女の過去と普段のギャップが埋まるはずもなく。……とりあえず今後エーデルには逆らわないようにしよう――「アハハ」と乾いた声をこぼしながら、僕は彼女との距離の測り方を再考していた。


「――アハハハハッ! すげー……、すげー展開ッ!?」

 無邪気な笑い声が静寂を切り裂く。

 エーデルに気を取られていた僕が声のする方に目と耳を向けると、満足気な笑みを浮かべる犬塚が、パチパチと大仰な拍手を披露していた。

「若井さん……だっけ。すごいねぇ! 女の子なのにケンカ強いだなんて、憧れちゃうよ。ちなみにその恰好はコスプレ? さっき浮いていたよね? あれ、どういうカラクリかな?」

 問われたエーデルはというと、「……あっ?」苛々し気に唸りながら、野犬のような目つきで犬塚を睨み返すのみ。しかし犬塚は彼女の態度を意に介さぬようペラペラ口が止まらない。

「羽黒さんといい、なんでキミたちが藤吉に加担するのかは知らないけど、藤吉がここまでやれたのは、きっとキミたちの協力があったからなんだろうね。でも――」

 スッと真顔に直った犬塚が視線を動かす。僕も思わず彼の目線の先に顔を向け――

「……なるみもっ!?」

 彼女の名前を呼びながら、僕の全身からドッと汗が噴き出た。

 なるみもは、いつの間にか彼女の背後ろに移動した柳田によって、口元を無骨な掌で覆われていた。彼女の頬には小型のナイフが突きつけられている。恐怖に滲んだ彼女の瞳が、心の底から救済を求めている気がした。

 僕は彼女に駆け寄ろうとして――「っと……動くなよ藤吉、そこのお二人も」犬塚の言葉に制止され、思わず足が止まった。

「これから先、一歩でも動いたら可愛い可愛いアイドルの顔が台無しになるぜ?」

 勝ち誇ったような犬塚の表情に、僕は心の底から憎悪を覚えていた。行き処のない怒りはギリギリと歯噛みするくらいでしか消化することができず、「……この外道が」エーデルもまた反吐を吐くように言い捨てる。

 フッと一息を吐いた犬塚が、いやに柔らかいトーンの声で、

「藤吉……お前は本当によくやったよ。俺、ここまで追い詰められるとは露ほども思ってなかったんだぜ? ホント……楽しいゲームだった。でも、鳴海美百紗という泣き所をこっちが抑えている以上、最初からお前らに勝ち筋なんてなかったんだよね」

 彼はユラリと右腕をあげて、伸ばした人差し指をまっすぐと僕に向けた。

「懇願しろよ藤吉。『お願いします。なるみもを離してやってください。この勝負、僕の負けです。金輪際なるみもには近づきません』――そう言ったら、勘弁してやる」

「何……言ってんだよ。お前」

 僕の声は震えている。

 侮蔑という言葉ではまかないきれないほど、僕は犬塚樹という人間がわからなくなっている。

「僕が今ここで負けを宣言したとしても、お前がいうところの『ゲーム』で、お前の勝ちは訪れない。何故なら、お前の本性を知った以上、なるみもがお前に心を開くことなん絶対にないからだ」

「……わかってないなぁ。藤吉」

 犬塚がヤレヤレと、人をコケにするような所作で嘆息した。のそのそと移動した犬塚が、ポンポンとビデオカメラの頭を撫でる。

「なるみもの秘蔵映像はバッチリ回させてもらってるんだよ。ちなみに、ネグリジェのお着替え動画もちゃんと撮ってある。コレをネタに、俺はなるみもを脅迫し続けるよ。何年かかったった構わない。……知ってる? 人の精神力って有限なんだぜ? どんなにタフな野郎でも、三日三晩拷問をつづければ何もかも洗いざらい白状する。心ってのは、みんなが思っている以上に脆いんだよ。人ってのは、けっこう簡単に奴隷に成り下がるんだよ」

 犬塚樹が薄く笑った。その顔はどこか恍惚としている。

「――だから、いつかは訪れる。疲弊しきったなるみもが、お願いだから私を彼女にしてくださいって、泣きながら俺に頼み込んでくる日が……ね」

「……おかしいよ」全てを諦めたような声が、僕の口からこぼれ落ちる。

「犬塚、お前、頭おかしいよ。どうか、してる……」

 言葉が勝手にこぼれ落ちていた。言ったところで場がどうにかなるわけではない。でも、漏らさずにはいられなかったんだ。

「……ハハッ! ソレさっき、なるみもにも言われたなぁ……まっ」

 犬塚は相変わらず愉し気だ。軽蔑を向けられてむしろ、喜んでいる節さえあった。

「そんな言葉、聞き飽きているけどね?」

 ……ダメ、だ――

 犬塚は、コイツは――

 対話するとか、コミュニケーションをとるとか、共感するとか、思いやるとか。

 そういう『感情のやり取り』が、一切通じない類の人間だ。

 表面上は理解しているんだろう。だからわかっている『振り』をするのは上手い。だけどそれって、他人の声に、本当は一切耳を傾けていないってことだ。奴に何を言っても無駄なんだ。

 僕がいくら声高に叫んだところで、なるみもが、犬塚樹の呪縛から逃れることはない。

 それこそ、魔法でも使わない限り――

 グルグルグルグル、僕の頭が回っている。盛大に、空回っている。

 ……クソッ、ここまできたのに、あと、一歩なのに。

 ……なるみもは僕が救う。今度こそ本当に、自分の想いを彼女に告げる。

 ……そう、決意したのに……ッ!


 沈黙に支配された閉鎖空間。ふいに彼女が口を開き、静かな波紋を作った。

「犬塚樹。お前は私と……似ているかもしれんな」

 予想だにしない角度からそんなことを言った。

 おそらく、この場にいる全員が彼女に目を向けていた。


 死神シレネがいつもの仏頂面で、淡々と喋りよる。


「結果こそが全てだろうと考え、目的のためには手段を択ばない。一切の忖度や遠慮を持たず、配慮という概念を言葉としてわかってはいるが、心で理解していない」

 灰色の眼光に据えられた犬塚が、真顔になった。

「お前は狡猾で常に冷静だ。他者を操ることに長け、自らの手を決して汚そうとしない。……だけどな、人は操り人形ではない。自我をもった人間なんだ。誰もが当たり前に知っている事実だが、本当の意味で他者を量ろうとしないお前にはそれがわからない」

「何……何が言いたいの?」

 犬塚が苛々し気にこぼす。

 終始余裕に満ちていた表情を崩し、奴は初めて、己の感情を露出させていた。

 波形狂わぬ機械音声のような声を、犬塚の耳奥に塗り込むようにシレネがつづける。

「犬塚樹。お前はミスを犯した。……私にはわかるんだ。私も過去に、似たような過ちを犯したことがあるから」

 犬塚は口を挟まない。でもピクピクとこめかみを痙攣させている奴は、明らかなる動揺を顔に浮かべていた。要領の得ないシレネの発言意図を掴もうと必死なんだろう。それはこの場にいる他のみんなもきっと同じ。死神の考えていることなんてわかるワケがない。

 でも僕は直感していた。再三の経験則から僕だけが知っていた。

 死神シレネは無意味な発言を決してしない。

 彼女の言葉はいつだって、裏の意図をはらんでいる。

「『重要な局面』を、決して他者に委ねてはいけない。……勝利のためには、切り札は最後まで自分の手元に置いておくべきなんだ」

 シレネはそこまでいうと、フゥッと一呼吸を挟んだ。

 あさっての方向に視線をやりながら、思い出したような声を再び、

「時に柳田とやら。お前は以前、私に性交渉を求めてきたな?」

 言うなり彼女は、自身の黒ローブの胸元あたりをギュッと両手で掴みこんで、

 左右に引っ張ったかと思うと、力任せにひきちぎった。……って。

 えっ?

「自慢ではないが、私は自分のプロポーションにいささか自信がある。私に興味を持ったお前にも意見を求めたいのだが……感想はどうだ?」

 真っ白な素肌をさらけ出したシレネが、薄い微笑を浮かべた。

「……はっ?」柳田が呆けた声を漏らす。

 言わずもがな、彼の視線はシレネの胸元に釘付けになっていた。

 シレネの奇行は、思春期真っ盛りの男子生徒一人の意識を奪うには、十二分に効果的だった。

 コンマ一秒の間を縫って、状況が転回する。

「――いでぇっ!? いでででででででっ!?」

 醜い絶叫が空間にこだました。顔を歪めた柳田が野太い声をまき散らしていた。

 なるみもが柳田の隙をついて顔を動かし、ナイフを手にしていた奴の右手首に噛みついていた。苦悶の表情のまま柳田が思わず掌を開いてしまう。奴の手からナイフがこぼれ落ちたのを、僕の目はしっかりと視認していた。

「――バカッ! 柳田……鳴海美百紗から、目を離すなッ!?」

 犬塚が怒声を飛ばす。奴は焦ったように後ろを向き、柳田たちがいる方へと視線を向けた。

 つまり犬塚は、『僕』から目を離したんだ。

 ……バカは、お前だよ。

 今まで、あらゆるチャンスを散々無下にしてきた僕でも、流石にわかる。

 ここでハズしたらすべてが終わり。

 僕たちに訪れた最後の勝機――それが、『今』なんだ。

 切り札を最後まで取っておいた者がゲームの勝者となれる。

 嘘みたいな魔法でも使わない限り、この盤面をひっくり返すことはできない。

 ……完璧だ。『全てのピースはそろった』。


 僕は背後ろをまさぐり、上着の裏に忍ばせていた『ソレ』を手に取った。

 『ソレ』を掴んだまま、徐に右腕を振りかぶる。

 犬塚。僕の勝ちだ。

 心の中で静かなる勝利宣言をこぼした僕は、右腕を思い切り振り下ろした。

 僕の手によって投げ放たれた『恋の矢』が、犬塚に向かってまっすぐに飛んでいき、奴の背中に命中する。

「……グッ!?」呻き声を漏らした犬塚がその場で膝をついた。

 様子の変化に気づいた柳田が「い、犬塚!?」なるみもから離れて慌てて奴に駆け寄った。膝を立てたまま顔を上げようとしない犬塚の肩を揺さぶり、「お、おいっ、どうしたんだよ!?」焦った声をまくし立てていた。

 やがて犬塚がユラリと顔を上げる。ボンヤリと柳田の目を見つめているその表情は、意識がハッキリしているようには見えない。

「なんだよ……お前、藤吉に何されたんだよっ!?」

「やなぎ……だ?」どこか恍惚としている犬塚が、トロンと溶けだすような顔つきで、

「お前の顔……こんな、可愛かったっけ?」

 あらゆるスイーツも敵わぬであろう、甘ったるい声を漏らした。

「……はっ? いや、何言って――」

「俺……なんで今まで、お前の魅力に気づかなかったんだろう」

「こ……こんな時に変な冗談、よせよ」

「冗談? 冗談なんか言うものか。俺は、本気で――」

 犬塚が艶めかしい所作で柳田の頬を撫でる。界隈の女子が見たら狂喜乱舞しそうな絵面だが、僕からしたらその光景は地獄絵図でしかなかった。当の本人である柳田はというと、

「う……うわあああっ!」

 まぁ――言わずもがな、顔を青くして思い切り後ろに飛びのいたワケで。

「ちょっと……逃げないでくれよ」犬塚が寂しそうな瞳で、柳田に近づく。

「ヤメロ、ヤメロ、ヤメロ……来んじゃねぇぇぇぇぇぇっ!」

 雄たけびをあげながら、柳田が全速力で駆け出した。犬塚もまた、「待って……待ってくれよぉぉぉぉぉぉっ!」柳田の背中を必死に追い、二人は空き倉庫から飛び出し郊外の闇夜へと消えていった。前途ある二人の若人よ、幸あれ。

「……なるほど。恋の矢にはああいう使い方もあったんですねーっ」

 レディースモードが解除されたのか、いつもの調子に戻ったエーデルがふむふむと口元に手をあてがいながら頷いている。シレネはというと、上裸のまま(※なお下着はつけている。黒だった)だるそうに後ろ髪を掻いていた。僕の視線に気づいたのか、彼女がこちらに顔を向け、

「……なんだ藤吉玲希。お前も私のプロポーションに興味があるのか?」

「い、いや、そういうワケじゃ――」

 僕は彼女から慌てて目を逸らして――って。

 僕はこんなことをしている場合じゃない。

 僕は『彼女』に目を向けた。「……なるみも」彼女の名前をこぼした。

 肩と腹部の痛みをこらえながら、僕がヨロヨロと彼女に近づくと、「ふじ……よし……くん」彼女もまた、僕の名前を呼ぶ。

 僕は彼女が座らされているベッドの上に乗り、まずは自身の上着を脱いで彼女の素肌を覆った。彼女の両手首を縛る縄をほどいてやった。その間なるみもは、ジッと僕の目をみていた。迷子の子どものように弱々しい顔つきだった。

「藤吉くん……私、私、私……私ッ!」

 なるみもが僕に抱きつき、僕の胸元に顔をうずめる。

「う――うわああああああんっ!」感情を爆発させるように、彼女はわんわんと泣いていた。

 ズキッ――僕の胸に痛みが走る。

 彼女がどれほど怖い思いをしたのか、どれだけの不安を感じたのか、どれだけの嫌悪を感じたのか――男の僕に測り知ることができない。気持ちがわかるなんて口が裂けても言えない。

 いつだってマイペースに、人を煙に巻くような笑顔を崩さぬなるみもが、天下無敵の彼女が、赤子のように泣いているのだ。本能の赴くままに気持ちを溢れさせているのだ。それって……限界まで張りつめていたなるみもの心が、安寧によって解放されたってことだ。

「なるみも……」

 僕もまた彼女の全身を、両腕で覆う。

 僕は心の底から彼女を愛しく感じていた。布越しに感じる彼女の体温に、ずっと触れていたいと思った。絶対に離したくないと思った。

 徐に顔を上げたなるみもが、ぐずぐずと鼻をすすりながらばつの悪そうに顔を伏せる。

「なんで……藤吉くん、私のこと助けに来てくれたの? 私、藤吉くんに、ひどいことっ、言っちゃったのに。……藤吉くんのこと、し、信じて、あげられなかったのに……ッ!」

 ……ああ、そっか。

 彼女が涙を流す、本当の意味を知った。

 なるみもは僕に対して、罪悪感を覚えていたんだ。

 僕にしたこと、僕に言ったことを、後悔していたんだ。

 なるみもに謝りたいってずっと思っていた僕と、同じように。

 僕たちはこの一週間、互いに相手のことばかり考えていたんだ。

 幾ばくか逡巡したのちに、僕は口を開く。

「そりゃあだって――」ニンマリと口を綻ばせ、ポンと彼女の頭に手のひらを乗せると、なるみもが窺うように僕を見上げた。

「前にも言ったじゃん。ファンは、推しを守るのが使命だから」

 おどけた口調でそう言うと、なるみもはキョトンと、奇をてらわれたように猫目を大きく広げていた。その顔があまりにも幼気で、僕は思わずフッと息を漏らしてしまう。

「なにそれ……ずるいよ。藤吉くん、ずるすぎ――」くしゃっと顔を潰したなるみもの瞳から大粒の涙がこぼれた。僕は彼女の身体を再び引き寄せて、慈しむように背中を撫でる。彼女の口からこぼれた吐息が僕の胸元を濡らし、暖かった。

 ひっくひっく。しばらく彼女はしゃくりを上げ続けた。彼女のが落ち着くまでこうしていよう――なるみもの黒髪ショートに頬を委ねて、僕は目を瞑る。

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