五.ヒーロー
5-1
まどろんだ意識が溶け出していく中、埃っぽい臭いが私の鼻をくすぐる。
重たい瞼をゆっくり開くと、ピントの合わない映像がぼうっと広がる。
「おはようなるみも。気分はどう?」
誰かが私の名前を呼んだ。ボンヤリとした視界に人のシルエットが映って、少しずつ輪郭が形どられていった。「……犬塚、くん?」窺うように口を開くと、目の前の景色が徐々にクリアになっていく。
私の前で、犬塚くんがパイプ椅子に腰をかけ足を組んでいた。彼だけではなく、複数の男の人たちが私を取り囲むよう地べたに座り込んだり、ドラム缶にもたれかかったりしている。その内の一人は同じクラスの柳田くん、他は知らない顔だった。誰も彼も、お世辞にも育ちが良いとは言えない恰好をしていて、本能的に感じた恐怖が私の脳を叩き起こす。
キョロキョロと周囲に目を向け、私は必死に状況を把握しようとした。やたらと天井の高いだだっ広い空間に、むき出しの鉄柱や段ボールの山が散々としている。……どうやら、私は倉庫のような場所にいるらしい。
目にかかる前髪をうっとおしく感じた私が無意識に腕を上げようとして――
「……えっ?」
手を動かせない。手首の締め付けに気づいた私が脊髄反射で後ろを振り向こうとするも、半身をうまく回転させることができない。私はおそらく背後ろで手首を縛られており、拘束されている。
恐怖が焦燥に為り変わった。しかし視界が捉えた更なる違和感に、私の脳は完全に思考停止してしまった。
「なに……コレ――」
自分の全身を眺めながら私は茫然としている。
自分が身に着けている衣服に、全く見覚えがなかったから。
紫色のレースで纏った生地が私の素肌を薄く露出しており、胸元の上半分が大胆にあらわになっていた。腰回りのフリルが申し訳程度に私の下半身を覆い隠していて、太ももから下、私の素足はまる出しになっていた。
私は自分で着替えた記憶なんて一切ない。気づいたらこんな格好をさせられている。
つまり、私は誰かに――
「気に入ってくれた? ネグリジェなんて自分じゃ買わないから、よくわかんなくてさ。カワイイやつ選んだつもりなんだぜ。……うん、めちゃくちゃ似合ってるよ。万年後列組とはいえさすがはアイドルだね。そのへんの女よりもよっぽどスタイルがいい。でも――」
ゆっくりと立ち上がった犬塚くんがヌラリと私に近づく。ゾッ――と背筋が凍った私は本能的に身を縮こませて、「……い、イヤ――」懇願するような声で抵抗を試みるも、彼は一切の耳を貸さなかった。拘束されている私の左腕を無遠慮に掴んで、晒すように引っ張り上げる。
「コレ、生で見ると結構グロいね。まぁでも、マニアックな層には逆にウケるのかな」
私のリスカの跡をまじまじと眺めながら、犬塚くんが乾いた息を漏らした。
「――うわー、エグッ! いくら顔が良くても、俺は無理だな~」
「マジで? 俺、結構イケるかも。前にヤった女もめっちゃメンヘラで、なんでも言うこと聞いてくれたし――」
柳田くんをはじめ、周囲の男の人たちがゲラゲラと節操のない声で笑い出す。恥ずかしさと怖さでいっぱいになった私は声をあげることもままならなくなり――でも一点、先ほど犬塚くんが座っていたパイプ椅子の横に鎮座している『異形』に目を奪われた。
スタンド台に固定されたビデオカメラがまっすぐと私に向けられている。
無機質で心を持たない眼がジッと、私を凝視している。
「……ああ、コレ?」犬塚くんが私の視線の先を追って、
「生配信はやってないよ。バッチリ録画は回しているけどね」
私から離れた犬塚くんがスタンドカメラに近づき、その頭をポンポンと叩いた。
……えっ、録画? 私、今、この恰好、撮られて――
羞恥心が噴き上がり、私は思わず小動物のように身をギュッと縮こませた。素足が柔らかい布をなぞる感覚がして、自分がベッドの上に座らされている事実に気づく。空き倉庫には似つかわしくないピンク色の照明が私の素肌を照らしていて、状況に違和感を覚えた私が無理やり身体をひねって首を後ろに向けると、白い張りぼて板が私の後方を覆っていた。
頭に浮かんだ最悪な予感が、次の犬塚くんの言葉で確信に変わる。
「結構凝ってるでしょ? 映画の撮影とかで使われていたセット、ネットでわざわざ買ったんだよ。画角に収まる範囲だけで見ると、本物のラブホで撮ってるようにしか見えないんだぜ」
おもちゃを自慢する小学生のような口調で、彼は得意気に笑っている。
「……最低」
限界だった。
あらゆる感情が爆発しそうになっていた私は、震えた声で憎悪を吐き出す。
「こんなことして、何が目的なの。犬塚くん頭いいからわかると思うけど、コレ、拉致監禁だよ。立派な犯罪だからね」
「目的? ……そうだなぁ」犬塚くんが、のん気そうに天井を見上げ始めて、
「藤吉に完全勝利すること、かな」
かぶと虫を見つけた少年みたいに、くしゃっと笑う。
「宣戦布告してきたの、アイツの方なんだぜ? 俺が柳田と、なるみもを三か月以内にオとせるか賭けてたらさ、お前なんかに渡さない。なるみもは僕がもらうって、息巻いて」
「えっ……?」驚愕の事実に、私は思わず息を呑んでしまった。
でも犬塚くんは、私なんてまるで無視するようにペラペラと口が止まらない。
「俺……ワクワクしちゃったよ。あんな風に正面から勝負挑まれるの、久しぶりだったからさ。……ま、ぶっちゃけ最初はこのゲーム、ラクショーだと思ってた。クラスでなるみもを女王様のように祭り上げることで赤倉の嫉妬心を焚きつけて、いじめのターゲットにするよう仕向ける。傷心したなるみもを俺が優しく慰めてフィニッシュ――それで終わりだと思ってたんだけど……まさか、藤吉に先を越されるとはなぁ」
ヤレヤレと、おどけた調子で犬塚くんが肩をすくめた。
はぁっ。この世界のすべてを小ばかにするような嘆息を漏らして、
「俺が読み違えたのは、なるみものガードが思った以上に甘かったことなんだよな。まさか、藤吉ごときのデートの誘いにノコノコついていくとはね。……いやー、須王を使って藤吉のスマホに盗聴アプリ仕掛けておいて正解だったよ。おかげで……盤面をひっくり返すくらい強烈な『爆弾』、ゲットできたからね」
侮蔑と、怒りと、罪悪感と、悔恨と。
犬塚くんの口から真実が綴られる度に、マイナスの感情が私の身体中を駆け巡る。
「犬塚くん、やっぱりキミが私たちのこと……ッ」情動のままに、震えた声を漏らした私は――だけどその先をつづけることができなかった。だって、
藤吉くんのことを最後まで信じてあげられなかったのは、他でもない私だったから。
藤吉くんの想いを知りながら、私は彼を試すようなことをして、あまつさえ、突き放して。
「さて、と」後悔に打ちのめされている私を満足気に眺めながら、犬塚くんが私に近づく。
「そろそろ本題といこうか。……なるみも、今から藤吉に電話をかけて欲しい。そしてこう言うんだ。『私、犬塚くんと付き合うことになったの。だから金輪際、私に話しかけてこないでね』って。……それでこのゲーム、俺の勝ちが確定する」
私はいよいよ一切の共感を犬塚くんに持てなくなっていた。罵倒する気力さえ削がれていた。
この人は一体、何を考えているんだろう。
本当に、私たちと同じ、血の通った人間なのだろうか――そんな疑問さえよぎる。
ニヤリ。嫌らしく口角をあげた犬塚くんが、私の首筋を薄く撫でて、
「断ったら……まぁ、わかるよね? この状況」
「なに……それ――」
恐怖や羞恥心は消えていた。
代わりに私の意識を支配したのは、犬塚樹に対する圧倒的な嫌悪感。ただ、それだけ。
「犬塚くん、キミ、頭おかしいよ。ただ勝ちたいって……そんなことのために、どうしてここまでするの?」
「頭、おかしいかぁ。ハハッ! 言われちゃったなぁ。……ま、否定はしないけど」
犬塚くんが、心底可笑しそうにお腹を抱えはじめた。
「俺さぁ、人生で一回も勝負事に負けたことないんだよね。例えお遊びのゲームだったとしても、絶対に負けたくないんだよ。勝ちつづけたいんだよ」
ドカッとパイプ椅子に腰を落とした犬塚くんが、大仰な手振りと共に高揚とした声を、
「それも、圧倒的に勝ちたいんだ。相手のことを徹底的に打ちのめしたいんだよ。悔しがって、絶望して、青ざめていく敗者の顔見ると……ゾクゾクするんだ。ぶっちゃけセックスするより、全然興奮できる。勝つためだったらさ――俺は、何だってやるよ」
足を組み替えた犬塚くんが、口元に手をあてながらニヤニヤと嫌らしく笑っていた。舐めるような彼の視線にゾッと悪寒を覚えた私は思わず、「……イヤ」
ありったけの軽蔑を込めて。喉の奥を絞り上げた。
「……キミみたいな奴の言うことなんて、絶対に聞いてやらない。キミの言いなりになんて……絶対にならないッ!」
私の金切り声が、だだっ広い閉鎖空間に虚しく反響していた。
「……へぇ? ま、俺は別にいいけど」
再び立ち上がった犬塚くんが、三文役者のように空々しいトーンの声を、
「――『現役の国民的アイドル! 今度はプライベート〇〇映像が流出!? まさかの乱交プレイ』――とか? やっすいタイトルだけど、下手なタレントのスキャンダル記事より、よっぽどインパクトありそうだよね」
彼の言葉で嫌な想像が頭の中に広がり、再び顔を出した恐怖に私の自意識がさらわれる。
でも私はギュッと目を瞑って、自分に言い聞かせた。
コレは罰だ。
藤吉くんを最後まで信じることができなかった、私の贖罪。
例えどんな目に遭わされたとして、今後の人生を台無しにするような恥を背負ったとして、
私に文句なんか言う資格はない。だって、
私の言葉で、藤吉くんは深い深い心の傷を負ってしまったはずだ。彼は私に人生を救われたと言ってた。私がいるから、頑張って生きていられると言ってた。
それを知っていながら私は、彼のことを見捨てたのだ。
犬塚くんがくいっと顎をしゃくる。それを合図とばかりに、地面に座りこんでいた男の人たちが立ち上がり、ドラム缶にもたれかかっていた柳田くんも上体を起こした。
一様にだらしなく、前屈みの姿勢でだらだらと歩く彼らが私に近づく。
「マジかよ……ちょっと車運転しただけで、金もらった上にアイドルとヤれるとか……犬塚さまさまだな。やばっ、よだれ出てきた」
「お前さっき、メンヘラ無理とか言ってたじゃねーか。調子いいな、オイ――」
眼前に迫る捕食の予感。私は拘束された両手を動かし、身をよじらせ――無駄な抵抗なのは重々承知だ。でも本能が理性を勝ることはなかった。ベッドの上に乗り出し、膝をついたドレッドヘアの男の人がヌッと手を伸ばしてくる。男性特有のすえたような臭いが鼻を刺激した。
脳が現実を直視するのを明確に嫌悪する。私はぎゅうっと強く目を瞑る。内ももを撫でられる感触に鳥肌が立った。ガクガクと全身が震えた。
イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤ――
助けて。心の中でその言葉を噛み殺す。
迫りくるリアルに拒否反応を示した私は、思わず願ってしまった。ほんの数ミリ程度の希望に弱気を見せてしまった。
……藤吉くん、私――
ドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!
――と。
轟音が空間に響き渡った。
数秒間の間、私の意識は聴覚に奪われてしまった。脳が緊急指令を発して、思わず私はパチリと目を開ける。私に近づき、うぞうぞとベッドの上に乗り出していた男の人たちが、そろって背後ろに目をやっていた。犬塚くんも例に漏れず、何事かと倉庫の入り口の方に顔を向けている。私も彼らに習って――
……えっ?
ドルルルルッ、ドルルルルルッ。聞き覚えのある振動音が耳に飛び込み、手放していた自意識が返還された。
信じられない光景が広がっている。想像だにしない景色が視界に映る。
入り口のシャッターが派手に突き破られていて、唸るようなエンジン音を上げ続ける一台のバイクが倉庫の中央に突如現れた。
黒と赤を基調とする少し小柄なそのマシンに、私は見覚えがある。
全身を駆け巡ったあらゆる疑問が一つのテキストに集約され、思わず、私の口からこぼれて、
「どう、して」
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