3-2
バイト終わり。いつもなら無心で二輪を走らせるだけの僕だったが、今日に限っては胸中が穏やかではなかった。信号の切り替わりに気づかず、後ろからクラクションを鳴らされる体たらく。そのまま家に帰る気にはなんだかなれず、二車線道路に面している都市公園に寄ることにした。入り口付近にある駐輪場にバイクを停め、近くの自動販売機で缶コーヒーを買う。そのまま木造のベンチに腰を降ろして天を仰ぎ見るも、やはり心は落ち着かない。
ふいに、膝の上に乗せていた鞄の中から振動が身体を伝い、僕は脊髄反射でチャックを開けてスマホを取り出した。真っ黒な画面に目を向けると、白いテキストで『鳴海美百紗』と表示されている。
全身から汗が噴きだす。僕は緑色の応答ボタンに触れたのち、震える手でスマホを自身の耳元にあてがい、「……もしもし?」
『あっ、藤吉くん? なるみもだよ~。さっそく電話しちゃった。今、平気?』
デジタル信号に変換された彼女の声が、僕の耳に直接流し込まれていく。
思わず生唾をゴクリと呑みながら、僕は「だ、大丈夫だよ」情けない声で取り急ぎの応答を。
『よかった。私、レッスン終わって今家に帰ってきたとこでさー。身体バッキバキですわ』
なるみもはいつもの彼女らしく、快活でさばさばとした口調だった。僕はというと、不慣れなシチュエーションに動揺を隠し切れず、「そ、そうなんだ……」辛うじて相槌を打つくらいしかできない。
『でね。本題っつーか。今日のお昼に誘ってくれたツーリングデートの返事なんだけど』
心臓が跳ねあがる。なるみもの声だけが僕の意識を支配しており、聴覚以外の一切の五感が捨て去られた。ほんの一秒たらずの沈黙がひどくゆっくりと感じられ、無音の牢獄の中、僕はひたすらに彼女の発声を待ち続ける。そして、
『日曜のスケジュール確認してみたら、お昼からネット番組の収録があるんだけど、午前中は空いてた!』
いやに無邪気な彼女の声に、僕の全身がドロリと溶けだした。
「そ、それじゃあ……」
『うん。ツーリングデート、時間は限られちゃうけど、私でよければぜひ連れてって欲しいな』
僕は放心していた。思わず手からスマホをこぼし落としそうになっていた。リンリンと、ヒョロヒョロと、無節操な鈴虫の音だけが僕の意識をリアルと繋いでいる。
『……藤吉くん?』窺うようななるみもの声。僕は思わずハッとなり、思わずガバリ立ち上がってしまい、
「――う、うおおおおおっ!? よっ、よろしくおねがいしまままままっ!?」
ありていうに言うと、僕はテンションがおかしくなっていた。
僕の奇声に呆気とられたのか、少しだけ間を置いたのちになるみもが、『……アハハッ、藤吉くんバグりすぎ、もちつけって』たゆんだ声で愉しそうに笑っている。
「あっ、ご、ゴメン」我に返った僕が弱々しく漏らすと、軽快な口調から一転、
『でもね……』と前置いたなるみもの口調はどこか、不安定な足場を歩むようだった。
『私、男の子と二人でどっか遊びに行くの、実ははじめてなんだよね。周りに顔バレしないかなっていう不安も、あるんだけど』
道化の仮面をはがした彼女が、僕に素顔を見せてくれた気がして、
『ちょっと、緊張しちゃうかも』
すぅっと、僕の視界が開けていく。おぼつかない街灯に照らされた暗がりの風景が妙にクリアに映った。
しっかりしなきゃな。なるみもは僕が守る。そう決めたんだから。
「僕もだよ」張り付いた喉奥を無理やり引き剥がして、声を振り絞る。
「僕も、女の子と二人でどこかに出かけるのなんて初めてだ。誘う時だってめちゃくちゃ緊張したし、さっきOKしてもらうまで、ずっと身体が落ち着かなかった。……けど、だからかな」
電話越しの彼女は今、どんな表情をしているのだろうか。僕には想像することしかできないけど、なるみもはきっと、真剣な顔で僕の言葉に耳を傾けてくれている。
闇夜に身体が包まれているのをいいことに、僕は、丸裸の心の吐露をそのまま彼女へ伝えた。
「初めてのデートの相手がなるみもで、めちゃくちゃ嬉しいんだ。めちゃくちゃ……ワクワクしているんだ」
幾ばくかの無音が間を縫った。やがて『そっか』と綻ぶような彼女の声。
『藤吉くん。初めてのデートの相手に私を選んでくれたんだ。なんか、光栄だな』
照れ隠すように、砕けた口調。
『……うん。私も楽しみだよ。当日は藤吉くんのエスコート、お手並み拝見といこうかな?』
いつもの調子を取り戻したなるみもに僕はホッと胸をなでおろし、
「いやそんな、期待されてもプレッシャーなんだけど……」
軽口が電波を伝って交錯し、「ふふっ、冗談冗談っ! まず比較対象がいないっつーの」弾むなるみもの声に、僕も思わず口を綻ばせる。
「それに、プールでも話したけど、走行中はフルフェイスヘルメットを被ってもらうから、顔バレは大丈夫だと思う。目的地にしている海浜公園も、この時期なら人、少ないだろうし」
『ありがと。私がアイドルなんてやってなきゃ、変に気を遣う必要もないのにね。ゴメンよ』
「や、やめてよ。そんなの全然気にしていない。……それに」
僕は慌てたようにまくし立て、思わず、
「なるみもがアイドルをやっていたから、『ドメタ』で頑張るキミの姿を見たからこそ、僕は――」
飛び出しそうになったその言葉を、寸前で喉奥にしまいこむ。
「――キミを……デートに誘ったんだ。一緒にいたいって、そう思った……んだ」
ギリギリで軌道修正をかけたものの、これはこれでかなり際どいラインの発言だ。遅れて覚えた後悔に僕の全身がカッと熱くなり、なるみもからの返事はすぐに返ってこない。
ドクドクドクドク。心臓の鼓動音に僕の脳みそが押しつぶされそうになったところで、
『藤吉くん……ありがと。キミは本当に優しいね』
ゆっくりと紡がれた彼女の声はいたく穏やかで、子を諭す母親のように柔らかかった。
「そんなこと……」なんて返したらいいかもわからず、僕は二の句を継げない。クスッ、電話越しのなるみもが何故か、くすぐるような声を漏らしていた。
『じゃあ細かいことはチャットアプリで連絡してね。……改めてだけど、当日楽しみにしているから。おやすみ~』
「……えっ? あっ、うん。おやすみ――」
呆けている僕がハッとなると、ツー、ツー、ツー。無機質なブザー音が右耳に入って左耳を抜けた。僕はだらんと腕を降ろし、しばらくそのままボーッとしていた。節操のない鈴虫の音と、遠くから聞こえる自動車の走行音だけが僕の自意識に存在していた。
僕は今週の日曜日、なるみもとツーリングデートをする。
その未来は、ちょっと前までの僕にとって、『夢見事』でしかなかった。『夢見事』でしかなかったリアルが、突如として僕の目の前に現れたんだ。
「……マジかよ」誰に向けてでもなくそうこぼす。
やりようもなく暗がりで一人、ただただ思考を巡らせていると、
「――今の電話、どういうことだ?」
背後ろから突然の声掛け。……もはや何度目なのかもわからない。
僕の悲鳴が静寂をつきやぶるのは必然であったし、ほぼ同時、僕は脊髄反射でその犯人に当たりをつけていた。
「し、し、し……シレネっ!?」
全身をバッタの如く跳ね上げさせながらガバリ後ろを振り向くと、やはりというか、想像通りというか、能面のような無表情を晒す死神が灰色の瞳を僕に向けている。そしてもう一人。
彼女の隣りにはニヤニヤと、如何ともしがたい笑みを浮かべるエーデルの姿。彼女は何故かリポーターマイクを握りしめている。……いや、なんで?
僕の脳みそが平静を取り戻すより一手早く、前かがみの姿勢で踊り出たエーデルがリポーターマイクを僕の頬に突きつける。僕は手に持っていたスマホを思わず地面に落としてしまった。
「玲希さんっ! さっき、デートって言ってましたよねっ!? 電話のお相手はもちろん、美百紗さんですよねっ!? ねぇーっ!?」
「ちょっ――近っ――やめっ――」
「今日のお昼休み、二人でこそこそどっか行ってましたけど、もしかして何か進展あったんですかーっ!? どうなんですか!? そこんとこーっ!?」
「いやっ――なにっ――あのっ――」
「さぁさぁ!? このエーデルめに全てを洗いざらい白状してくださいまし! 決して悪いようには、いたしませんからーっ!?」
「少し黙れ」
シレネがエーデルの頭を引っぱたいたところで、僕は混沌から救い出された。
木造のベンチに腰を掛け、全神経を深呼吸に集中させていた僕の血脈はようやく平常運転を取り戻すことができた。エーデルはブロンドヘアの脳天をさすりながらも、キラキラと星マークを瞳いっぱいに浮かべていた。シレネもシレネで無言の圧力を僕に対してかけつづけており、結局僕は事のあらましを全て二人に話した。
僕はてっきり、情報の共有不足を二人になじられるもんだと思っていた。いたんだけど、実態はその逆。
「でかしたぞ」珍しく満足気に口元を綻ばせたシレネが、僕にユラリと視線を向ける。
「いじめの一件を解決したことにより、お前は鳴海美百紗の信頼を得た。次なる一手を考えねばならんと思っていたところだが、まさかお前が、独断で事を進める器量を持っていたとはな」
彼女の言い方に相変わらず引っかかりを覚えた僕は、不満を隠そうともせず嘆息する。
「……別に呪いとか、キミたちのためになるみもをデートに誘ったわけじゃない。僕は僕の意志で彼女と一緒にいたいと思ったんだ」
「――トゥンクッ!? 今のセリフ、甘すぎエモすぎ糖分過多注意報ーっ!」
自身の胸を鷲掴みにしながら膝から崩れ落ちたエーデルを、当然のようにシレネは無視して、
「過程や動機はどうでもいい。お前は、目的達成のための最善手を自らの判断で断行した。その気概を私は評価したんだ。これからもその意識を保て」
……何を言っても無駄かな。シレネと僕とは思考回路というか、モノの見方や考え方の角度があまりにも違いすぎる。
「……はいはい」全てを諦めた僕が白旗を振りながら視線を地面に逃がすと、
「それにしても玲希さん、バイクなんて持っていたんですねーっ! 草食系かと思いきや、意外にワイルドな趣味をお持ちなんですねーっ」
いつの間にか立ち上がったエーデルが、すぐ近くの駐輪場に止めてあった僕のバイクに近づき、まじまじと眺めはじめる。
「趣味ってワケじゃ、ないんだけど――」
「おーっ! アプリリアRS250じゃないですか! めちゃくちゃ速いやつ乗ってるんですねーっ! 玲希さんって実はスピード狂なんですかーっ?」
……ん? 一抹の疑問を覚えた僕だったが、取り急ぎ応答を、
「いや、僕が選んだんじゃなくて、もう乗らないからって親戚から譲ってもらったんだよ。だから性能とかよくわかんなくて、メンテナンスも自分でできないからやってもらってて」
「あーっ、だから高校生の癖にイタリアのバイクなんて乗ってるんですねーっ、玲希さんの家、お金持ちなのかと思っちゃいましたよーっ!」
「……っていうかさ」一人勝手に納得してやがるエーデルに向かって、僕は端に置いていた疑問符を手放しで投げつけた。
「エーデル。なんで見ただけで車種わかったの? なんでそんなにバイク詳しいの?」
「エッ」
僕はさも当然なる質問をぶつけたつもりだった。だけどエーデルはすっとんきょうな声をあげながら、「や、ヤダなーっ、もーっ!」挙動不審に目を泳がせながら、
「天使のアタシがバイクに詳しいだなんて、そんなことあるわけないじゃないですかーっ! 漫画か何かでたまたま読んで、覚えてただけですよーっ、あ、アハハ―ッ!?」
……絶対ウソじゃん。
エーデルはなぜか真実を故意に隠蔽しようとしている。若干の引っかかりは覚えたものの、これ以上彼女を追及してもお互い何の得もないだろう。僕はそう判断した。
「……あっそう」気の抜けた返事を返すと、仕切り直すようにシレネが口を開く。
「私やエーデルにできることはもう何もないな。あとは天命を待つのみ、か」
彼女は夜月に視線をやり、達観するように目を細めている。駐輪場から戻ってきたエーデルもまた、「ですね。……いや~、最初にS級案件をブッ込まれた時はどうなることかと思いましたが、これでまた一つ、人間界の恋に貢献できましたねーっ」
先ほどの動揺など素知らぬの様そうで、しみじみと感慨深げに目を瞑っていた。
僕は二人の台詞に、二人の態度に違和感を覚えていた。「いや、二人ともさ、」抱いた違和感をそのまま、山なりにポーンっと放った。
「なんで、『すべては終わった』みたいな顔してるの?」
シレネとエーデルが二人ほぼ同時、きょとんとした顔を僕に向けた。そのままほぼ同時、示し合わせるように顔を見合わせて、
「なんでも、クソも」詰まらせた声でシレネがそうこぼすと、
「玲希さん、今度のデートで美百紗さんに告白するんでしょう?」エーデルが彼女の言葉を繋ぐ。……って、えっ?
「い、いや、あのさっ」僕は慌てて立ち上がり、
「僕、そんなこと一言も言ってないんだけど」
焦った声を並べると、ポカンとした様そうで二人が硬直してしまう。
やがてエーデルがワナワナと肩を震わせはじめ、そのまま破竹の勢いで僕に詰め寄った。
「は……はぁっ!? アンタ……何、考えてんですかーっ!? 恋に焦がれる乙女に恥、かかす気ですかーっ!?」
僕の両肩を無遠慮に掴んだエーデルが、ぐわんぐわんと僕の五体を前後に揺らす。定まらない視線のさ中、呆れたように斜めから僕を見るシレネの姿が映った。
「藤吉玲希。お前を一瞬でも買った私が馬鹿だったな。お前は同じ過ちをまた繰り返す気か? 千載一遇の好機を、何故わざわざ見逃す?」
「きゅ、急に言われても心の準備が……、それになるみもだって、初デートでいきなり告白されても迷惑じゃ――」
全身を揺さぶられながらも僕がなんとか返事を返すと、眼前のエーデルが鬼神の如く顔面を歪ませる。彼女はそのまま右手を大きく振りかぶって、
「こんの……ドヘタレがーっ!?」
僕に渾身の平手打ちをかました。脳髄が外界にすっとばされる錯覚に陥った僕の五体が、土くれの地面へと派手に転がったのは言うまでもないだろう。
「……いいですか? 玲希さん」
僕がムクリと身体を起こすと、エーデルがひどく興奮した顔つきで僕に人差し指を突き出していた。
「美百紗さんは『デート現場を人に目撃され、アイドル生命を断たれるかもしれない』という危険を冒してまで、玲希さんの誘いをOKしているんですよ? それでも、玲希さんとデートをしたいってことなんですよ? そんなの……美百紗さんの方も、玲希さんに気があるに、決まってんじゃないですかーっ!?」
「なるみもが……僕なんかを?」
ジンジンと痺れる痛みを左頬に感じながら、同時に僕は、エーデルの言葉を脳内に反芻させている。幼気な表情で八重歯を見せるなるみもの笑顔が、角膜に浮かび上がった。
「藤吉玲希。やらない理由を考えるより先に、『やらなかった時にどうなるか』を想像してみろ」
地面に横たわっている僕に近づいたシレネが、無表情のまま僕を見下ろして、
「鳴海美百紗は学校では常に犬塚樹らに取り囲まれ、他者が接触する機会を奪われている。今回の機会を逃せば、お前が彼女に想いを告げるタイミングはもう訪れないだろう」
一定のトーンで紡がれる彼女の声が、僕の耳奥に滞留していく。
「そのうち犬塚樹に先を越され、奴の悪徳に鳴海美百紗が弄ばれ、心をボロボロにされる様をお前はまざまざと見せつけられる。惨めな結末だけがお前の人生の結果となり、やり切れない気持ちを抱えながらお前は、呪いによるタイムリミットで死を迎える」
ジワリジワリ。シレネの言葉が僕の胃の中に浸食し、僕は吐き気さえ覚えはじめた。そして、
「お前はそんな末路を、本当に望んでいるのか?」
最後の問いが巨大な鉄球と化し、僕の頭蓋を横殴りにした。
僕は想像してみる。虚ろな瞳で、茫然と虚空を見つめるなるみもの表情を。地べたにへたりこみ、泣き叫び喚いても、誰も手を差し伸べない彼女の姿を。一切の光を失い、笑顔を忘れてしまった彼女の未来を――
イヤだ。
何があろうと、例え僕自身がどうなろうと、なるみものそんな姿だけは絶対に見たくない。
「……わかったよ」
僕は端的に声そう言い膝を立て立ち上がった。申し訳程度に衣服を払いながら、シレネとエーデル、二人を順繰りに見やる。
ふぅっと一呼吸を挟んだのち、
「今度のツーリングデートで、僕は、彼女に僕の想いを告げる。……なるみもに告白するよ」
いつもより少し大きな僕の発声が、暗がりの空間に響き渡った。
やもすると、満面の笑みを顔面いっぱいに広げたエーデルが、
「……よく言ったぁーっ! 今夜は赤飯じゃあーっ!!」
僕の背中を思い切りひっぱたいたが故、僕の五体は再三に渡って地面に転がる運びとなる。
僕の決意を見届けた二人はいつものごとく忽然と姿を消し、天界へ帰っていった。リンリンと、ヒョロヒョロと、無節操な鈴虫の音だけが再び、静けさを僕に伝える。
……僕も帰ろうかな。よっこらせと木造ベンチから腰をあげた僕は空っぽになった缶コーヒーを鉄網のゴミ箱に投げ捨て、すぐ近くに停めてあったバイクに向かう。すると、
「あの~」
背後ろから声掛け。……またシレネか?
僕が脊髄反射で振り返ると、しかし真っ黒なローブを纏う死神の姿は見えない。代わりに、
「……エーデル?」
真っ白なワンピースを纏い、真っ白な羽根を生やした一人の天使が、珍しくしおらしい表情を浮かべて僕を見ていた。
「帰ったんじゃなかったの? シレネは――」
「シレネ様は天界に戻られました。アタシは玲希さんに渡したいものがあって、こっそり戻ってきたのです」
いつものおちゃらけた雰囲気とは異なり、どこか真面目な顔つきのエーデルに、僕は少しだけ緊張を覚える。
「渡したいもの?」
「はい」言うなりエーデルは、自身の手で握りこんでいるソレを僕に差し出した。
ソレは細長い棒状の物体で、暗がりだが金色に薄っすら光っている。先端は鋭くとがっており、尾には白い羽がついていた。僕は思わずソレを受け取り、
「なにこれ。……矢?」
「はい、これは、『恋の矢』と呼ばれる、恋愛課でも使用が厳しく制限されている天界アイテムです。シレネ様は配属になったばかりなので、存在すら知りません」
今一つ要領を得られない僕は訝し気な目をエーデルに向けた。そして、
「この矢が当たった人間はですね、最初に視界に入った相手に対して、無条件で恋心を抱いてしまうんです」
「……えっ」
僕は虚を突かれる。エーデルの説明はあまりにも浮世離れており、突拍子がない。
彼女が柔らかく口元を綻ばせた。その顔はどこか、寂しそうにも見える。
「玲希さん。さっきも言った通りアタシは、美百紗さんも玲希さんに気持ちが向いていると思います。いわば二人は両想い。玲希さんが告白さえすれば、二人の恋は無事成就すると信じています。……でも、もしも」
エーデルが口をつぐみ、視線を地面にやった。その所作は彼女の葛藤を浮き彫りにしているようで、天真爛漫ないつもの彼女のソレとは思えない。思えないくらい――物憂げだった。
「玲希さんが、美百紗さんに想いを告げることができなかったら。また、あなたの想いが美百紗さんに届くことがなかったら――」
あまりにもか細い彼女の声。僕はこの段になってようやくエーデルの意図を理解する。
彼女が再び顔を上げた。潤んだブルーアイで、僕をまっすぐに見つめていた。
「この『恋の矢』さえ使えば、美百紗さんは絶対にあなたに振り向いてくれます。シレネ様のかけた呪いは解かれ、あなたは命を存続させることができます」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
僕は慌て、情けない声であわあわと、
「ようはコレって、惚れ薬みたいなもんでしょ? こんな……人の気持ちを勝手に変えてしまうようなモノ、使えるわけないじゃん。返すよ」
「玲希さんならそう言うと思った。……けど」
すべてを見透かすように瞳を細め、エーデルは首を少しだけ傾ける。
「万が一のため。これは玲希さんが持っていてください。使うかどうかはお任せします」
僕が恋の矢を突き返そうとするも、背後ろに両手を組んだエーデルは受け取る素振りを見せない。やがて彼女はポツポツと、にわか雨のような声を紡ぎはじめた。
「アタシだって、自然に想い合った二人が結ばれる恋の方が素敵だと思いますし、『恋の矢』の使用に関しては消極的なんです。……でもね。神様だからといって、人智を越えた力で人の命に介入し、生き死にを勝手に決めてしまうなんて……アタシは、間違っていると思うんです」
淡々と語るエーデルの表情にはいつもの無邪気さ存在しない。
一つ一つの発声から、彼女が持つ強い意志がにじみ出ていた。はっきりと言及こそしなかったものの、エーデルはきっと、シレネのやり方に疑問を覚えているんだ。
「だから、もし玲希さんが、理不尽な運命に本気で絶望を覚えてしまうくらいなら、生きたいという欲をいたずらに削がれて、人生に後悔を覚えてしまうくらいなら」
エーデルが微笑む。
女神の慈愛を顔いっぱいに広げて、安寧の海へと僕をいざなうように。
「嘘みたいな奇跡に頼ったところで、誰もあなたを咎める権利はありません。アタシは、そう思いますよ――」
消えゆく声と共に、真っ白な天使の姿がフェードアウトしていく。
エーデルは僕に返答の余地を与えず消えてしまった。やり切れない気持ちだけが悶々と僕の胸奥に残る。
僕は手に握っている恋の矢に目を落とし――そのままだらん、脱力するように腕を降ろした。
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