3-3
なるみもとのツーリングデート当日の朝。
呪いによる死のタイムリミットまであと――十五日。僕は本日、比喩でも誇張でもなく命を懸けた告白を断行しなければならない。昨夜から心臓がバクバクと鳴りつづけてろくすっぽ眠れず、少しハイになっている僕の脳みそはとても平常とは言えない。……事故ったりしたら洒落にならないな。精神、集中――
午前七時の日曜日、閑散とした住宅街の道路で一人、僕が深呼吸を繰り返していると、
「……藤吉くん、何してんの? ラジオ体操?」
キャップ帽を目深にかぶった一人の少女が、やや呆れた笑顔を僕に向けた。
「な、なるみもっ!? いや違うけど……、お、おはよう!」
挙動不審に大声を出した僕を眺めながら、彼女がクスクスと笑う。
「おはよ~、天気良くてよかったね」
なるみもの登場に、僕は未だ夢遊を浮かんでいる心地になっていた。……マジでなるみもだ。生身のなるみもと僕は今日、デートをするんだ――
改めて彼女の全身を眺めると、無地のウインドブレーカーにジーンズ姿。人生初デートの女子というよりも、雨天ロケ中のテレビ局ADと称す方がしっくりくる風貌を為している。
「その恰好なら大丈夫そうだね。この季節だとまだ少し寒いし、薄着だと危ないから」
「あっ、本当? 一応言われた通りの服装にしてきたつもり。いや~、変に悩まなくて助かったわ。デートの服選ぶとか、柄じゃないし」
いつも通りあけすけな彼女の口調が、僕の心拍数を緩やかにしていく。
「あっ……あとは――」僕はタンクバッグをごそごそと漁り、フルフェイスメット、グローブ、プロテクター、インカムマイク――バイク用品を次々に取り出し、なるみもに手渡していった。
「おおっ! すげー本格的だ。……なんか、テンションあがってきた」
キャップ帽を外し、代わりにフルフェイスメットを被ったなるみもが、何故かピースサインを披露する。……いや可愛いからやめてくれ。彼女の無邪気に自意識が溶け出しそうになった僕はブンブンと首を振り、邪念を払う。
「プロテクター着けなきゃだから、ちょっと一回上着脱いで」
「いや~ん、脱がさないで~」
「……い、いいから、早く」
心頭滅却。心頭滅却……邪念よ、去れ。
なんだかんだ諸準備が終わり、「乗っていいよ」先にバイクにまたがっていた僕がなるみもに声をかけると、『よいしょっと……うわ、結構高いね』インカムマイクを通して、デジタル音声に変換された彼女の声が届けられる。
「手は僕の肩か腰の下あたりを掴んでいてね。両膝で僕の腰を挟み込んでおくと安定するから」
『あいあいさ~。藤吉くん、やたら詳しいね。実は女の子乗せたこと、あったりして~?』
「ち、違うよ。昨日必死にネットで調べたんだ。……じゃあ、エンジンかけるよ」
豪快な廃棄音と共に、マシンが振動を開始する。
『――うひゃーっ! 藤吉くん! お尻、お尻めっちゃ揺れるんですけどーっ!』
どこかテンションのおかしいなるみもが、僕の背中をバンバンと叩く。
「……は、走り出したらもっと揺れるから! とにかく、走行中は危ないことしないでね!」
『え~っ、どうしようかな~。怖かったら思わず、抱きついちゃうかも~!』
「それやったらマジで事故るってっ!?」
一抹の不安と百抹の期待を胸に、僕はハンドルグリップを力いっぱいにぎりこむ。ペダルを踏みこんで、僕のマシンがゆっくりと発進をはじめた。
『すごい! すごい! 進んでるよ藤吉くん!』
「そりゃ進むよ! っていうかそんなでかい声ださなくても、聞こえるから!」
この時間帯だからか人通りは少なく、街は閑散としていた。二車線道路にさしかかったところで僕は右折し、一気にスピードを上げる。
『やべー! 速い! 速いし風すごいんですけどー!』
「……だから、声、でかいって!?」
それでもなるみもは、しばらくの間すげーすげーと、まるで小学校児童のようにはしゃいだ声をつづけていた。いよいよ僕はたしなめるのを諦め、目の前の景色に集中する。すると、
――よかったね。自分でもバカみたいなことしているなって、ずっとそう思ってたんでしょ?
頭の中で、誰かの声が響いた。
なるみもの声じゃない。……そうか、これは、
誰でもない、僕自身の声だ。
「……ホント、カミサマでもいなけりゃ、こんなこと信じられないね」
思わず僕は独り言を漏らしてしまい、なるみもが不思議そうなトーンで聞き返す。
『……えっ? 藤吉くん今、何か言った?』
「あっ……ゴメン。なんでもないよ。楽しいなって」
『……ふふっ、私も――』
目覚めたばかりの街を一台のバイクが駆ける。
二人だけの世界を、疾走する。
※
「着いたよ、先に降りちゃって」
エンジンを切り、僕がなるみもに降車を促すと、『はいよ~』デジタル変換されたのん気ななるみもの声。彼女がバイクから降りる気配を背後ろで感じながらフルフェイスメットを脱いだら、湿った潮風が鼻をくすぐった。
「お~! 世界が広いぜ~!」
遅れてバイクから降りた僕は、水平線に向かって仁王立ちしているなるみもの隣に移動する。彼女に習って遠くに目をやると、視界いっぱいに青と白が広がった。
僕たちがやってきたのは東京湾に面する都内の海浜公園。やはりというか、少し濁った東京の海はお世辞にも綺麗とは言えない。けれど普段、高層ビルの牢獄に囲われ、狭苦しい生活を強要されている都会っ子の僕たちにとって、ひたすらに空と海だけが広がっているその景色はそれだけで新鮮だった。
「よかった。やっぱりシーズンから外れているからか、人は全然いないね」
僕が周囲に目を向けながらそうこぼすと、なるみもがいたずらっぽい顔で八重歯を見せる。
「今だけは、この海は私たち二人だけのものってことだね、藤吉くん」
「……そういうことに、しておこうか」
彼女が小脇に抱えていたフルフェイスメットを受け取り、僕の分と合わせてバイクのシートの上に並べる。両手の自由を手にしたなるみもが出し抜けに「ねぇねぇ」背後ろから僕の右腕をギュッと掴んだ。
「……えっ?」急な体温の触れ合いに動揺した僕は情けない声をあげ、更に彼女は僕の腕をぐいぐいと引っ張りはじめる。
「もっと海の近くまで行ってみようよ」
「あっ、うん?」あれよあれよ。
堤防の階段を駆け下りるなるみもに連れられるまま、僕はおたおたと足を動かすばかりだ。
浜辺までやってきたところでなるみもは僕から手を離し、「藤吉くん、藤吉くん。波の音がするよ! ざざ~んって!」弾んだ声を爛漫にあげる。
やば、めちゃかわいいな――僕はひとかけらの自制心を必死に旋回させていた。
「そりゃするでしょ。海なんだから」
「いやそうなんだけどさ。私が言いたいのは情緒の話なんだよ。テレビとかアニメとか、そういう作り物の音じゃなくて、本当の波の音が聞こえるってことに私は感動しているんだよ」
なるみもがヤレヤレと滑稽に肩をすくめる姿に、僕の自意識が吸い込まれていく。
コロコロと移り変わる彼女の表情、一つ一つの変化に僕は目を奪われてしまっていた。そして彼女のテンションは留まるところを知らないらしい。
そわそわした素振りでなるみもが窺うように、「……水、冷たいかな?」
「どうだろう。さすがに海水浴はできないだろうね。そもそも今の時期は遊泳禁止みたいだし」
「足つけるくらいなら、平気だよね?」
なるみもが僕の返答を待ちもせず、スニーカーと靴下を脱ぎ始める。「えっ、ちょっ」僕が阿呆面で阿呆な声をあげている隙を縫って、裸足になった彼女は波打ち際ギリギリまで歩みを進めていた。
さざなみがなるみもの足首をさらうと、「――うひゃっ!?」
彼女はあふれ出すように表情を崩した。
「冷たーい! それになんかぬるぬるする! 気持ち悪いけど気持ちいい! 変な感じ~!」
ばしゃばしゃと水しぶきを蹴り上げながら、ケラケラと幼子のようになるみもが笑う。
彼女の無邪気に翻弄されっぱなしだ。ありていうに言うと、僕はなるみもの姿に夢中になっている。まっさらな空間で純白に輝く少女のワンシーンは、僕の人生で見た今までにどんな光景よりも愛おしく映った。
僕がボーッと呆けていると、やがて彼女が不満げに口をとがらせはじめ、
「ちょっとちょっと、何、外野決め込んでんのよキミは。早くこっち来なよ~」
左手を腰にあてながら、右手でちょいちょいと手招きをはじめた。
「……えっ? 僕も入るの?」
「当たり前じゃん! 私一人ヌレヌレになってどーすんのっ」
「――いや言い方!? わ、わかったよ……」
僕も彼女にならって靴を脱ぎ、ズボンのすそをまくり上げた。恐る恐る浅瀬に足を踏み入れると、水温が僕の防衛本能をくすぐって思わず、「――ひょおうっ!?」
「……アハハッ! 藤吉くん、今の声めっちゃウケるわ~」
身体をくの字にして笑うなるみもが、その体勢のまま両手を水面につける。小悪魔のような微笑を浮かべた彼女が僕に向かって、水しぶきをすくいあげた。
「……つ、冷たっ!?」僕が思わず身体をすくめると、なるみもはなおもアハハと笑っていて、
「浜辺で水をかけあうの、ラブコメの鉄板でしょーが~、ホラ藤吉くん、ここは『やったなー』って言いながら反撃しないと」
「……えぇっ!? や、やったな~」
「はいダメ~、棒読みすぎ~、ペナルティで~す」
彼女が再び水をかきあげて、僕の顔面に海水がぶっかかる。
「ちょっ! クソッ……や、やったなー!」
「――ひゃっ!? ……藤吉くん、意外と容赦しないね。さてはドS?」
「なんでだよ! そっちが先にやってきたんでしょっ!?」
しばらく僕らは、童心に帰ったようにはしゃいだ。
過去も、現実も、未来も、すべてを忘れて。
今っていう瞬間だけがひたすら楽しくて、その他のことはどうでもよくなっていた。
遊び疲れた僕たちは浜辺を後にして、石段の埋め込まれた土手に腰を掛けている。……念のため、タオルを用意しておいてよかった。泥だらけになった足裏を拭きながら切に思う。濡れた衣服を秋風がかすめるも、火照っている身体をほだすにはちょうどいい気候だった。
「いや~、関東の海なんて綺麗なイメージないし、あんまり行く価値ないと思ってたけど、なんだかんだ楽しいね。こういうのホント、久しぶり」
素足を放りだしたなるみもが後ろ手をついて、天を仰いでいる。黒髪ショートがばさばさとなびき、陽光に照らされる一つ一つの線が、やけに輝いて見えた。
「僕も、海なんて小さい頃に家族と来た以来かな。その時の記憶ほとんどないけど」
「記憶……記憶ねぇ」
左足を畳んで両手で抱えたなるみもが、膝小僧の上に頬を委ねて、
「人間の脳なんて、案外いい加減だよね。都合の悪い過去は端に追いやられて、キラキラした映像だけが頭の中に残って」
ふいに、意味深なことを言い出した彼女に僕は虚を突かれてしまう。どう返していいかもわからずただ彼女に目を向けていると、なるみもが、
「ねぇ、ツーショット撮らない? 人生初デートをお互い、いつでも思い出せるように、さ」
言うなりポケットからスマホを取り出して、僕の顔面にずずいとにじりよってきた。
「えっ……えっ?」
甘くたるんだ匂いが僕の鼻孔を刺激するもんで、心拍数が急上昇するのは必至だ。
当のなるみもはというと、至近距離に関して一つも気にする素振りを見せない。太陽に向かって右手を掲げながら、「――ホラ、藤吉くん、もっと笑ってよ!」
デジタル画面に映るはよく見知った二人の高校生。男の方は顔面がひきつりすぎていてとても見ちゃいられない。無論、僕のことだ。――カシャッ。シャッター音を皮切りに僕はぷはぁっと息を吐き出し、脱力する。
腕を降ろしたなるみもが、得意げな表情でスマホを画面を僕に見せてきて、
「いい感じじゃない? 私、右斜め上からの角度が一番自信あんだよね。そういうアイドル的あざとさ、一応持ってるんだよね」
「ろくすっぽブログ更新しない上に、他のメンバーが載せる写真も変顔ばっかしている癖に、何言ってんの」
「……ぐはっ。返す言葉もございませんわ~」
掌でデコを叩くという昭和的リアクションを披露する彼女に、僕はとりあえずハハハと乾いた笑いを返す。「あとで写真、送っておくね」目を細めた彼女は少しの間、スマホ画面を愛でるように見つめていた。
「っていうかさ」スマホをポケットしまいながら、なるみもが僕に顔を向ける。
「藤吉くんは私の推しだから、一方的に私のこと色々知っているわけじゃん? でも考えてみたら、私は藤吉くんのこと何にも知らないや」
「えっ?」
「私も、藤吉くんのこともっと知りたいな。趣味とかないの?」
挑発的な猫目をたゆませて、なるみもが僕の顔面をジッと見つめていた。
――妙な胸騒ぎに襲われた僕は、彼女から視線を逸らしてしまう。
「趣味なんてないよ。僕の人生、バイト行くか、学校行くか、推し活してるかの三択だし」
「バイクは?」
堤防の上。道路の脇に駐車していたバイクに向かってなるみもが目をやった。
「結構本格的なやつ乗ってるじゃん。今どき、バイクの免許を持っている高校生なんてかなり珍しいと思うけど?」
「いや、バイクは趣味ってワケじゃなくて……」
僕が口元をまごつかせていると、なるみもが不安気なトーンで疑問を重ねた。
「それに、気になってたんだけどさ。もしかして藤吉くん、グローブとかヘルメットとか、今日のために私の分も用意してくれたの? ああいうの結構高いんじゃ――」
「それは……新しく買ったんじゃなくて、前から持っていたんだ」僕は慌ててうわづった声を、
「というか、自分の分を買った時に2セット揃えた。免許代と一緒に、親に借金して」
なるみもに視線を戻すと、彼女はキョトンと目を丸くしていた。
「……なんでわざわざ?」
彼女の疑問はもっともだろう。だからこそ僕は少し困った。
真実を告げていいのかどうか、選択肢を掴みあぐねていた。
僕が逡巡すればするほど、無為な沈黙が重みを増すばかり。時が問題を解決してくれる場面ではないのもわかっている。僕はふぅっと息を吐き出した後に、グッと喉奥に力をこめた。
「なるみもが、『ドメタと夜更かし』で言ってたから」
「……えっ、私?」
なるみもの表情に動揺の色が浮かぶ。
僕はできうる限りの平静を装い、できうる限り落ち着いたトーンの声で、
「理想のデートを一人一人メンバーに聞くコーナーでさ。なるみも、二人乗りのバイクデートがしてみたいって言ってて。それを見た僕は次の日、バイクの免許が欲しいって親に頼み込んだんだ」
思わず地面に顔を背けた。シンプルに、彼女の顔が怖くて見れなかったから。
「例え僕がバイクの免許を取ったところで、なるみもとツーリングデートなんてできるワケない。アイドルと一介のファンっていう境界線を越えられるワケがない。……どうかしてるって、自分でもわかっていた。それでも僕は、衝動を抑えられなかったんだ。もしかしたらいつか、夢が現実になるかも……その希望だけを一心に僕は、教習所に通って、借金を返すためにバイトもはじめた。バイト先をわざと遠くの場所にすることで、運転に慣れるようにして――」
言葉を重ねる度に、心が高揚していく感覚があった。さきほどまで胸に渦巻いていた不安感が少しだけ鳴りを潜める。僕が恐る恐るなるみもに視線を戻すと、彼女はハッとなるくらい真剣な顔つきで、瞬き一つせず僕の声に耳を傾けていた。
僕は今ひとたび唇をはがして、
「初めてだったんだ。自分の意志で決断して、行動することが。……なるみものためならって考えたら、何でもできる気がしたんだ」
言葉が止まらなかった。口が乾いて喉がヒリつく感覚を、でも僕は一切無視した。
「なるみもが僕の人生を変えてくれた。キミと本当にツーリングデートができるなんて、まるで夢みたいだ。……バカみたいな絵空事だって、想い続けていればいつか叶う。なるみもがいるから僕は、僕の人生を、前を向いて歩くことができているんだ」
気づけばドクドクと、心臓の音が全身を揺らしていた。
今僕は、どんな表情をしているのだろうか。どんな顔を、彼女に見せているのだろうか。
「藤吉くん……」
なるみもがポツンと、間を埋めるようにこぼす。少しだけ目を細めた彼女の表情は、恍惚としているようでもあり、寂寞をまとっているようでもあり、困惑が浮かんでいるようでもあり――僕は彼女の心中を推し量れない。
でも少なくとも、僕を拒否しているようには見えなかった。
僕の脳裏にとある二文字がよぎる。
秘めたる想いを打ち明けるなら、今ではないだろうか。
「あのさ、なるみも。……僕はキミに、伝えたいことがある」
声が少し震えてしまった。でも躊躇なんてしている場合ではない。
彼女の顔つきは相変わらず無色透明で、彼女が今どんなことを考えているのか、見当もつかない。……けど、構うものか。
僕はあんぐりと大口を開け放ち、
「なるみも、僕は、キミを――」
「待って」
しかし僕の思いの丈が、彼女の発声に遮られる。
「『ソレ』を言う前にちょっと、見て欲しいんだよね」
そして、イニシアチブが譲渡される。
出鼻を盛大にくじかれた僕は露骨に動揺してしまい、言葉を失った。
徐にウインドブレーカーを脱ぎ始めた彼女が中に着ていたパーカーの袖をまくると、左腕の素肌があらわになる。彼女は遠慮がちに手の内側を僕に見せながら、力ない微笑を浮かべた。僕はというと、
視覚情報をそのまま受け取ることができず、一切の思考が停止してしまっていた。
昂っていた体温が急降下し、身体を動かす手段を奪われた気がした。
彼女の左腕に、見るに堪えない切り傷がびっしりと刻まれている。
「アハハッ……やっぱ引くよね。これ全部、自分でやったんだよ」
なんでもないようなトーン。いつもの、人を煙に巻くような口調。
「『ドメタ』に入る前はさ。いじめのことばっか考えちゃって。親とか男友達にも、なんか相談できなくてさ。一人で部屋にいると、胸がつっかえる感じがするんだよ。息、うまくできなくて、苦しくて苦しくて……」
彼女の声はどこか遠くで鳴っているようで、僕はうまく咀嚼することができない。
遅れてやってくる言葉の意味に、ただ、狼狽している。
「そんな時はね、自分の左手首にカッターナイフで傷をつけるの。死にたいとか、そういう気持ちがあったワケじゃないんだけどさ。……なんでかな、血の塊がぷっくり浮かび上がって、つーっと腕に流れていくのを見てると、妙に落ち着くんだよね。癖に、なっちゃって」
パーカーの袖を戻したなるみもが再び膝を立て、全身を抱え込む、僕ではなく、水平線の向こうに向かって言葉を飛ばしている。
「それだけじゃないよ。藤吉くんは、いじめられていた時に呪いのノートとか、書かなかった? 私はやったよ。私をいじめていた子の名前書いて、死ねって。……一冊のノートにびっしりと。写経みたいに何時間も。腕、めちゃくちゃ疲れてんのに、やめらんなくてさ」
何かを言おうと思った。でも、何を言っていいのかがわからなかった。
テキストの羅列が胃の中で大渋滞を起こし、僕の喉奥を塞いでいる。
「牛の刻参りはさすがにしなかったけど。人を呪う方法とかはネットでめっちゃ調べたよね。今思うとそんなの、効くワケないってわかるのにさ。当時の私は大マジで、私をいじめてた子全員、本気で不幸になればいいって、そう思っていて」
ペラペラと口の止まらないなるみもが、出し抜けに立ち上がった。僕は意志を持たない人形のように、ただただその姿を目で追っていた。
少し離れた位置まで移動した彼女が振り返る。
首を少しだけ傾けて、何故だか彼女は口元を緩ませている。
「キミは言ってくれたよね? のん気でマイペースなのが私のいいところで、そんな私をみんな好きになってくれたんじゃないかって。でもそれって、外側の私でしかないんだよね。『編集』された私の姿でしかないんだよね。みんなから見えない部分――内側の私はすごく……ドロドロしている。弱くて、根暗で、陰湿で――私はね、本当の自分が周りにバレないよう、必死でピエロ演じているイタイ子なんだよ」
――あれ……?
視界が薄ぼんやりと輪郭を失い、なるみもの全身像が滲む。
ノイズが混ざったモニター画面のように、彼女の姿がジャギって見える。
幾多のドットで埋め尽くされた彼女の口元が、無節操に点滅して、
「藤吉くんはさ、私のためならって。私がいたから変われたって、そう言ってくれた。その言葉自体はとっても嬉しい。言葉にできないくらい嬉しいよ。……だけど結局さ」
視認すら不可能になった視覚映像が、プツンと遮断されて、
「藤吉くんが見ている私って、藤吉くんの中での私……でしか、ないんじゃないかな」
明確な凹凸と肉体を有するなるみもが、僕の目の前に突如現れた。
彼女は両手を後ろに組んで、妙に醒めた目で僕を見下ろしている。
胃の中に溜まったテキストの群れがドロドロと溶けだし、巨大な疑問符へと成り変わった。
僕が好きなのは、モニター画面の中で踊るトップアイドル、なるみもなのだろうか。
……それとも、
あけすけな笑顔の仮面を被った一介の女子高生、鳴海美百紗なのだろうか。
わからない。
わからない、わからない、わからない、わからない――
僕はその問いに答えることができない。
僕は彼女が好きだ。……好きだ。けど――
僕は今まで、『好き』という言葉を、どういう意味で使っていたのだろうか。
僕の『好き』には、なるみもの意志が存在したのだろうか。
僕は、なるみもを好きになってから人生が変わった。彼女のためならなんだってやれるし、彼女のためなら、どんな嫌なことでも我慢できる。……でもそれって、
彼女の意志を無視した、僕の一方的なエゴじゃないか?
僕はなるみものことが『好き』って……自分のタメに思い込もうとしていただけじゃないか?
だとしたら、僕は――
「――なんつって」
気の抜けた声とともに、僕の意識がリアルに返還された。
首を傾げたなるみもが、ペロッと舌を出している。
「ゴメンゴメン。ヘンな空気になっちゃったね。……私が今言ったこと全部忘れて。私の腕のことも、見なかったことにして」
あっけらかんとした声を出したのち、なるみもは地べたに座り込んでいる僕に向かって近づき、屈みこむ。子を諭す母親のような口調で、
「そんでさ、私たち、なんつーか……友達として、今まで通りの関係をつづけていこうよ」
心の内を、見透かされている気がした。
僕の告白は、誰でもない『なるみも』によって寸前で阻止された。
僕はだらしなく口を半開きにしながら、彼女の顔を直視することも、返事を返すこともできない。やがてポンポンと、なるみもが僕の頭を優しく撫でで、
「……帰ろっか。そろそろ戻らなきゃ仕事、間に合わないし」立ち上がりグッと伸びをした。
その後のことはあまり覚えていない。
無心でバイクを走らせ、グルグルと解のない考え事ばかりしていた気がする。
でも別れ際、彼女が最後に言った言葉だけは耳に残った。
「藤吉くん。今日は楽しかったよ。……ホント、ありがとね」
また行こうねとは、どちらも言わなかった。
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