三.フィクション

3-1


 女子更衣室でのなるみも救出劇が無事閉幕してから一夜明け、呪いによる死のタイムリミットまであと――十七日。……だけど今はそんなことどうでもいい。スラッシュメタルも真っ青のビートで脈打つ心臓が、呪いとか関係なく僕の寿命をゴリゴリに削っていた。

 キーンコーンカーンコーン。滑稽な電子チャイム音が学校中に鳴り渡り、四限目の授業の終焉、また昼休みの幕開が全校生徒に告げられる。ついにこの時が来てしまった。

『助けてくれたお礼に私の手料理のお弁当、藤吉くんにごちそうしてあげるよ』

 昨日、なるみもが僕にそう提案してきた。

 ……マジで?

 つい先週までモニター画面越しでしか見ることのなかったなるみもが、リアルな肉体を以て、確かな発声を以て、彼女の意志で僕にお礼をしたいと言ったのだ。彼女は、僕のためだけの行為として時間を割き、弁当をこしらえると言ったのだ。

 奇跡かはたまた、夢か幻か妄想か。

 とりあえず自らの頬を自らの拳で横殴りにしてみる。……痛い。痛覚すら生々しく感じるとは、やけにリアルな夢だな――

「……藤吉、お前何やってんだよ」

 ハッと意識が現世に還り、僕の眼前にはいつもの如く、椅子の背もたれに両腕を乗せ座り込んでいる須王が呆れたような目つきを僕に向けていた。

「まさか須王が夢に出てくるとは。僕は奴のことを案外気に入っているのかもしれない」

「……はぁっ? マジで大丈夫かお前?」

 夢の中の須王が嘆息し、「そんなことよりもさ」僕の茶番は早々に打ち切られる運びとなる。

「藤吉……す、スマホ貸してくんねぇ? 五分でいいからさ」

 現実をようやく受け入れた僕は思わず片眉を吊り上げた。「えっ、なんで?」

 須王の要望は脈絡の欠片もなく、そして意図が見えない。

「い、いやさ……俺、妹いるじゃん? 同じ高校で一学年下の。アイツ今日、風邪で寝込んでてさ。両親も仕事でいないから、一人で大丈夫かなって心配なんだけど、俺のスマホの充電、切れちゃってさ」

「……はぁ」

 キョロキョロと視線を彷徨わせている須王は明らかに挙動不審だった。しかし彼に妹がいる事実は僕も知っていたし、先の発言が嘘だったとしても、なんでそんな嘘を吐くのかがわからない。僕が須王の胸中を掴みあぐねていると、

「た、頼むよ! 妹もドメタのファンなんだわ。同じ仲間のよしみってことで、ここは一つ」

 須王がパンッ――と両掌を合わせて頭を下げ始めるもんだから、今度は僕の方が慌てて、

「い、いや。減るもんじゃないし。そこまでしなくていいって」

 かばんから取り出したスマホのロック画面を解除して僕が須王に手渡すと、「さ、サンキュっ! マジ助かったわ!」言うなり須王はガタリと立ち上がり、そそくさと教室の外に出ていった。……? 妹に電話するだけなら、別にここでよくないか?

 一抹の疑惑を覚えた僕だったが、しかしすぐに、意識が別の次元へといざなわれる。


「――あれ? なるみも、鞄なんか持ってどこ行くの?」「ちょっと野暮用があってさ、今日のお昼、私はパスしとくわ。ごめんね~」「え~、男だけで飯とか、つまんね~よ~」「アハハッ、私はアンタらのホステスじゃないっつーの。じゃ、またあとでね~」


 クラスの男子連中となるみもの会話が耳に飛び込み、全神経がピンと張りつめた。

 無論、なるみもが言うところの『野暮用』とは僕との逢瀬に他ならない。その事実を僕だけが知っているのだ。

 ……逢瀬!? いや逢瀬なのかこれ!? 

 ――と僕がバグっている間に、掌をひらつかせていたなるみもが教室の外へと消えていった。……そろそろ僕も行かなくちゃ。ドックン。ドックン。ドックン。せり上がる心臓音が誇張無く胸を飛び出しそうだ。

 おちつけ、おちつけ、おちつけ、おちつ

「藤吉、ありが――」

「だっひゃああああっ!?」

 僕の奇声が世界を揺るがし、声掛けした須王の方も「うおおおおっ!?」とその身をのけぞらせた。

「――っくりしたな。藤吉、急にでかい声、出すんじゃねーよ」

「あ、ああ、ゴメン……」

 僕がおろおろしながらそうこぼすと、「ほれ、スマホ、ありがとな」須王が僕にスマホを差し出した。僕がそれを受け取りこそこそ教室の外へ出ようとすると、

「あれ? 藤吉、お前今日、弁当じゃねーの?」

 その言葉に再びビクンと身体を跳ね上げさせた僕は、ギギギッと旧型ロボットの如く首を旋回させる。ギギギっと凝り固まった口元をひきつらせて、

「い、いやちょっと、野暮用……があって」



 なるみもに指定された待ち合わせ場所――校内の屋外プール場にやってきた僕は、視界に飛び込んで来た光景に目を奪われ、呼吸を忘れてしまう。

 一人ポツン。なるみもはプールサイドに腰をかけていた。

 彼女のすぐ近くには脱いだ上靴と靴下が放られており、あらわになった足先がパシャリパシャリ、まったいらな水面に波紋を作る。無機質な表情で水しぶきを弄ぶ彼女は、暇を持て余しているようにも、玩具に夢中になる児童のようにも見えた。あまりにも無防備な彼女の存在が、僕の自意識を余すことなくさらってしまう。

 ふいになるみもの顔が移ろい、視線が僕に向けられる。「藤吉くん?」彼女は両手を背後ろの地面につき、軽快に腰を持ち上げた。濡れたつま先を軽く振りながら、丸い猫目をニンマリとたゆませる。

「来てたなら声、かけてよ~」僕はようやく我に返って、

「あ、ゴメン。なんかちょっと……」

 見惚れちゃって。

 ――こぼれ落ちそうになった言葉を、全力で心の奥底にしまいこむ。

「声、かけるタイミング失っちゃって」

 ごまかすように視線を逸らした僕は、ごまかすように声を重ねた。

「待ち合わせの場所、なんでプールなの?」

 僕が訊ねるとなるみもが、「ああ」と漏らしながら、彼女の鞄が置かれているプールサイドの脇へと移動する。

「ここ、本校舎から結構離れた場所にあるじゃん。だから水泳の授業でもなければ人がくることなんか滅多になくて、校内カップルが隠れて会うのに使われたりしているんだって。水泳部の子から、聞いてさ」

 カップルというワードに僕の心臓がドキッと反応してしまったが、なるみもの方はなんでもない様そうで涼し気な微笑を浮かべている。プールサイドを囲うフェンスを背に、再び腰を落としたなるみもがポンポンと横の地面を掌で叩いたので、僕はいざなわれるままに移動し彼女の隣に座った。

「ちょっと待ってね。約束通り、お弁当作ってきたからさ」

 彼女がごそごそと鞄をまさぐり始め――期待と不安がごった煮られた僕の脳内が、予測不能な未来のシミュレーションを無理やりに試みようとしている。

 なるみもの手料理だ。めちゃくちゃ嬉しい。夢みたいに嬉しい。それは間違いない。間違いない……んだけど――

 正直なところ、ずぼらな彼女が料理をできるイメージは皆無だった。

 『ドメタと夜更かし』でも何度か料理企画が行われたことがあるが、なるみもが作り手として参画したことはないので、その実力は未知のまま。……いわゆる『そういう見た目』の物体を差し出されたらどうしよう。ここはやはり男として、手放しに賛辞するべきなのだろうか。愛の試練と捉え、完食するしかないのだろうか。

 ……大丈夫。なるみもが作ってくれたものだったら、なんだって、僕は――

「はい」僕が一人勝手に腹をくくっていると、なるみもが手渡してきた弁当箱が僕の眼前に差し出される。女の子らしいというよりはなるみもらしく、モノトーンカラーでシンプルなデザインの弁当箱だった。横長というトリッキーな形状がやや気になる。

 幾ばくかの躊躇を胸中に潜め、なるべく自然なる所作で僕がそれを受け取ると、

「……先に言っておくけど、あんまり期待、しないでね」

 彼女はばつの悪そうに頬をかいており、僕の不安に加速度がかかった。

 ええい、ままよ――ふぅっと息を吐き出した僕は勢いのままに、弁当箱のフタを開け放って、

「……へっ?」

 ぷしゅーっ。全身を纏っていた覚悟が、毛穴という毛穴から抜け落ちる。

 パンドラの箱の中に入っていたのは、災いでも希望でもなかった。

 大きな大きな三角おにぎりが、三つだけ。

「い、いやさー!」

 唖然としている僕の様そうを見かねてか、なるみもがわかりやすく慌てたような口調で、

「昨日はああ言ったものの、私、料理なんててんでできなかったんだわ。……慣れないことして腹壊すようなもん作ってもなーって。おにぎりなら、お米にぎるだけだから誰でもできるじゃん?」

 なるみもがヘラヘラとだらしなく笑う。彼女らしいやり口に心がほだされてしまった僕もまた、フッと口元を緩ませた。そのまま掌サイズのおにぎりを手に取り口に運ぶ。

 ちょうどいい塩加減が僕の舌をほどよく刺激し、社交辞令でもなんでもなく、

「……おいしい」僕はそうこぼした。

「ほ、ホント?」ひまわりのような歓喜を、なるみもが顔いっぱいに広げて。

 僕はもぐもぐと口を動かしながら、「うん、おいしいよ。そういえばコンビニ以外のおにぎりなんて、久しぶりに食べた気がする」ゴクンと呑み込み、二口目にかぶりついた。

「よかった~。いやよかったよ。おにぎりすら作れないとか、女として終わる気がしてさ。……一応、ネットで握り方調べたりしたんだよ?」

 声を弾ませる彼女もまたひょいとおにぎりを一つ手に取って、あむりとほうばって、「……うん、たしかにおいしい。私、意外とやるじゃ~ん」ニコニコと満悦そうな笑顔を浮かべていた。

 ……そっか。

 僕は気づく。当たり前で、しかし衝撃的な一つの事実に。

 このおにぎりはなるみもが作った。つまり彼女が、自身の手で握ったということだ。

 僕は、トップアイドルが握ったおにぎりを胃の中に収めているのだ。

 ……他のファンに知られたら、殺されても文句は言えないな――

 なんだか身体が熱い。僕が押し黙って虚空を見つめていると、「……どしたん?」不思議そうな表情でなるみもが僕の顔を覗き込んできたので、「――ッ!? な、なんでもないよ! あー、おいしいなー!」僕は三口目を大口でかぶりついた。

「アハハッ。慌てて食べるとむせるよ~。……あっ、ちなみに具とか、入ってないから」

 ケラケラと、彼女の頬が無邪気に弾んでいる。

 そよぐ秋風がいやに涼し気だった。火照った肌を撫でる感触が心地よく、僕の血脈を緩やかにしていく。


「ごちそうさま」

 三角おにぎりを完食した僕は弁当箱のフタを閉じ、脇に置く。そのまま背後ろに両手をついて足を前に投げ出した。隣のなるみもは体育座りの恰好で、両腕の上に頬を寝かせている。

「私が用意するって言っておいてなんだけどさ、おにぎりだけで足りる?」

「大丈夫。普段から僕そんなに食べないし。あんまりお腹、すかないんだ」

「ふーん。確かに藤吉くん痩せてるしね。羨ましいわ~。私なんか、常にお腹すいちゃって」

「なるみもこそ、おにぎり一つで足りるの?」

「アハハッ。たぶん足りないね。でも鞄の中にお菓子、常に常備してるから。腹減ったらそれでなんとかしのぐよ」

「……いっつも鞄の中にお菓子入れてるの、ホントだったんだ」

「おっ、さすが私推し。よく知ってるね~。私、ドメタのメンバーの中じゃ『駄菓子屋鳴海』の異名を授かってるからね。地方遠征するたびにご当地ポテチ、買い漁ってるからね」

「ハハッ。せめて一日、一袋にしときなよ」

「マネージャーみたいなこと言わんでくれよ」

 なるみもが笑いながら、僕の脇を小突く。

 二人の間を軽口が交錯して、僕は同時に不可議な感覚にいざなわれていた。

 ついこの前まで、モニター画面越しにしかなるみもを認識していなかった僕が、現実の彼女を目の前にした時、声を発することすらできなかった僕が――

 彼女と言葉を重ね合っている。それも、無理に自分を着飾ったりせず、等身大の自分で。

 冷静に考えると信じられない状況だ。心はどこか浮ついているのに、頭は妙に冷めている。だから不思議な感覚だった。この時間がずっとつづけばいいのに、そう思ってもいた。

 そんな折、「……あー、なんか藤吉くんと喋っていると安心する」

 なるみもがボソリ。そんなことを言うもんだから、「えっ?」思わず僕は彼女に目を向けた。

 無意識に出た言葉だったのだろうか、彼女は焦ったように「あ、いや」視線を斜めにやって、

「なんかね。家族以外の人で素で喋れてるの、久しぶりな気がして」

 彼女がポリポリと頬をかく様を、僕はジッと見つめながら、

「ドメタのメンバーとは? 学校でも、僕なんかよりよっぽどクラスの連中と仲良くやれてるように見えるけど」

「まぁ、アコは親友みたいなもんだけどさ。アイドルを中途半端な気持ちでやってるっていう負い目がどうしてもあってね。……学校は~、犬塚くんたちは私に良くしてくれるけど、やっぱ『idol.metaのなるみも』って意識が私側にあってさ、喋っててもどっか、言葉選んじゃったりするし。素ではいられないんだよね」

 なるみもが自嘲気味に乾いた息をこぼす。物憂げに目を伏せっている彼女の表情は寂し気で、見てはいけない彼女の顔を見てしまった気がした。

「だから、かな」弱々しく呟いたなるみもが、ゆったりと顔を上げて、

「藤吉くん。昨日、なるみもはそのままでいい。私がダメダメなのなんて、みんな知ってるよって――そう言ってくれたから。私、藤吉くんの前だと油断しちゃうのかも」

 照れたように髪をさわるなるみもが、視線を移ろわせる。

 たゆんだ彼女の猫目が、僕の顔面を捉える。

「改めて、昨日はありがとね。……キミは、私に救われたって言ってたけど。私も、藤吉くんに救われたんだよ」

 紺色のブレザーに覆われた彼女の上半身が、幼気に八重歯を見せる彼女の表情が、僕の水晶体のレンズ上に大きく映し出されていた。背景をぼやかした一枚のスナップ写真のように、やけにくっきりと。

 僕は言葉を返すことができない。すべての五感が、視神経に支配されてしまっていたから。

 僕の眼前、様々な表情を見せるなるみもは、トップアイドル『idol.meta』の一人であり、同時に、僕たちと同じ一介の女子高生であり、同時に――僕にとって、初めての片思いの相手だった。

 キーンコーンカーンコーン。滑稽な電子チャイム音が遠くから。

「……あ、もう昼休み終わりか。戻らないとだね」なるみもが立ち上がる。脱ぎ捨てた上靴と靴下を拾い、立ったまま履きだす彼女を僕はボーッと眺めていた。

 夢の世界にはタイムリミットが存在するらしい。

 『今』が終われば僕もなるみもも、それぞれの日常に還っていくのだ。

 座ったまま立ち上がろうとしない僕を怪訝に思ったのか、「……藤吉くん?」彼女が首を傾げながらこちらを見やる。

 イヤだな。僕はシンプルにそう思った。

 犬塚にとられたくないとか、呪いを解くために恋を成就しなければならないとか、そういった事情を抜きにしても、

 僕は、彼女との時間をこのまま終わりにしたくない。なるみもの顔を、もっと見ていたい。

「――あのさっ!」

 堰を切ったように立ち上がった僕は大声を裏返らせており、急な所作に驚いたのか、なるみももビクッと肩を跳ねさせる。「な……何?」

 困惑した彼女の顔つきに僕はハッとなった。衝動的な自身の行動に遅れて気づき、後悔の念が喉元を締め上げた。「あ、あの……」

 だけど、一歩前に踏み込んでしまった以上、覆水が盆に返らない事実も知っている。

 ギュッと目を瞑る。……もう、どうにでもなれ。

 たぶんここは僕の人生における、正念場ってやつだ。

 僕は一切の見てくれを捨て去り、本能の導くままに大口を開け放ち、

「こ、今度の休み……僕と、ツーリングデートをしてくれませんかッ!?」

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