楽園より愛を込めて

楽園より愛を込めて

 左隣の同僚がスナック菓子を頬張る音。

 自分の口の中で響くガムを噛む粘着質な音。

 胸焼けしそうな甘い香り。

 右隣の同僚が睡眠薬をスニッフする音。

 煙草の煙がオフィスに充満して視界不良を起こしている。

 アルコールの臭気に当てられて酔いが回っていく。

 チャイナカラーの襟元が汗ばんでくる。

 電話の呼出音。

 頭痛がする。


 かつて喫煙所と呼ばれていた場所は無法者たちで溢れかえっている。

 今では煙草なんてどこでも吸っていい。電車の中でもスーパーの食品売り場でも。

 社内は勿論のこと、社外に出ても健康な人間なんていない。生まれてから一度も心に病を抱えていない人間を見たことがない。

 一人たりとも。

 私は首から下げた名札を手に取ってみたが、長く伸ばした爪は手入れが行き届いていないせいでぼろぼろに割れていてそれを眺めていると無性に腹がたって仕方がなかった。

 気を紛らわすように大きく印字された名前を目でなぞる。

 私が生まれる少し前から今まで続いている、歌人の名前を子供に付けるという馬鹿げた流行り。そんな流行の波に乗って私を含めた大勢の命が生まれてきた。

 誰かの泣き声が聞こえる。

 一人二人とつられて泣き始める。

 隣の人間が鼻を啜り始めたところで私は「喫煙所」をあとにした。


 彼らはオフィスにいる気力も体力もないのだろう。

 でもこのセカイはそれを許してくれるのだから、それでいいじゃないか。それでいいじゃないかと自分に言い聞かせる。

 そんなの許されるはずないじゃないか。


 六月の湿気を含んだ空気が背骨の上の彫り物を疼かせる。

 私は公務員なのに、セカイは私の我儘を許してくれた。どんな身分のものにも平等に甘くていい加減で、とても美しい。

 彫っても良いと言われたから彫った。親も友達も誰も駄目だと言わなかったし止めなかった。けれど良いとも言わなかった。これは、多分はじめて私が自分で決めた自分の痛みだ。

 むず痒い、軋むような鈍痛に堪えて家路に着く。


 マンションの最上階まで高速エレベーターが芋虫のように駆け上っていく。なんでこんな高い家を買ってしまったのだろうと思う。値段も高かった。

 こんなところに住むべきではなかった。

 玄関の前まで来て私の憂鬱は限界に達する。足がガクガクして仕方ないので

太ももに深く刻まれた幾本の傷痕が薄桃色に浮き上がっているのを眺めていた。ここと職場を比べたら職場のほうがまだマシかもしれない。

 大丈夫。

 これはイニシエーションだと思って自身に暗示をかける。なんて馬鹿らしい行為だ。

 大丈夫!

 扉を開けようと手をかける。汗で手が滑ったが、どういうことかドアノブは回った。

「シキちゃん、おかえりなさい」と穏やかな、あまりに穏やかすぎる両親の声が出迎える。ドアノブを開いた母の右手には赤い線が数本増えている。

 私はこの完璧な団欒を壊さないためになんとか自然な笑顔を作って「おかえり」と口を動かしたが、その声はガラガラで梅雨の時期には似つかわしくないように思えた。


 夕飯を食べながら私はその場で全て吐き戻してしまわないように細心の注意を払っている。

こういうときはどうでもいいことでも考えてやり過ごすのが一番いい。

遠い昔、自殺者には罰金刑が課せられなかったという。

なんと羨ましいことか……

「おばあちゃん、最近どう?」

 母の声だ。顔が見えないのでわからないがおそらく父に何か質問をしているのだろう。

 私はその時「非道者」と小さく呟いてしまった。いつものように我慢すれば良かったのに。

 欠けた角砂糖のように、幸せが崩れる音。


 私は一つ溜息をついてトイレから書斎に向かってよろよろと移動していった。

 小さな花瓶に大きなスクリーン、お菓子の空箱とプロジェクター。

 旧世紀のライブラリの一部は禁書扱いとなり今では閲覧することができない。戸棚のロックを解除すると箪笥がくるくると不規則に回転し花瓶の水が飛び散る。カーペットに小さな染みができた。

 書物はかつてこの世界が楽園のようであったことを教えてくれる。

 私にとって旧セカイは楽園だ。

 セカイはどんどん残酷で大らかになっていく。

 私たちは常に居場所を探している。住む家があっても物足りなくて誰かの心に住み着きたい。

 世界はどんどん私に残酷で大らかになっていく。


 左隣の同僚がスナック菓子を頬張る音。

 自分の口の中で響くガムを噛む粘着質な音。

 胸焼けしそうな甘い香り。

 右隣の同僚が睡眠薬をスニッフする音。

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楽園より愛を込めて @murasaki_umagoyashi

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