黒猫はニャアと言った
ちりあくた
黒猫はニャアと言った
ある冬の昼下がりのことだった。僕は学校をサボり、近所の公園のベンチに黒ジャージ姿で一人、ぼんやりと腰掛けていた。
ハァ、と息を吐けば、たちまちに白いもやに変わり、やがて空気に溶けていく。当たり前の事象だ。けれど僕はあまりに暇だったので、その無益な行為を繰り返しては、消えゆく細かな霧の行方を目で追っていた。
「ニャア」
唐突に鼓膜を震わす鳴き声。キョロキョロと声の主を探してみると、向かいの藪の中から小柄な漆黒の像が浮かび上がってきた。姿を表したその黒猫は、もう一度、満月のような眼を開いて「ニャア」と言った。鳴いたのではない、言ったのだ。もちろん、常人に猫との意思疎通は不可能なので、これはあくまで個人的な空想だった。だが、何か黒猫は伝えたがっているように見えたのだ。
僕はふらりと立ち上がって、怖がらせないようにゆっくりと、猫の方へ足取りを進めた。黒猫は僕の気遣いなどまるで意に介さないように、呑気に毛づくろいに勤しんでいた。しかし、やがて僕が猫のすぐそばまでやって来ると、再び「ニャア」と言い、藪の中へ入っていってしまった。
どうすべきかと考えて、猫の後ろ姿が半分くらいまで小さくなったところで、「ついていくか」と決心した。藪の中で汚れたり怪我したりするのはまっぴらだったが、どうせ暇なのだ。ただ吐息を見つめているよりは、猫の行き先を探るほうがマシだろう。僕は唾を飲んで、眼前の闇を分け入って進んだ。
やがて、猫と僕は古い民家の裏庭へ出た。所狭しと雑草の茂る空間を五歩歩いてから、猫は止まった。
「ニャア」
四度目の声。猫に人間と同じような感情があるのかはわからないが、僕は身勝手にも、その声がどこかすがるようなニュアンスを含んでいるように感じた。
まるで磁石にでも引かれるように猫の元へ近づいていた。黒猫は何に困っているのか。僕に何ができるか。僕は黒猫を救えるのか。そんなことを考えながら歩いていると、まるで人のいい主人公にでもなったような気分だった。もちろん思い上がりも甚だしい、至極短絡的な思考だったが、その気持ちがなければ僕は猫のもとへ歩み寄らなかっただろう。今となっては仕方ないことだと思っている。
だがこの後、「黒猫を僕が救えるかも」という期待は粉々に打ち砕かれた。黒猫の足元にあったのは、薄汚れたゴミ溜まりだった。ペットボトル、黄ばんだボロ切れ、破られた新聞紙、使用済みのマッチ棒。どれも何の価値もないと判断できるほど、その空間は薄汚れていた。
僕は密かに落胆し、その不満を排出するように息を吐いた。頭の片隅では、足元にあるのが重体の子猫とか、凶悪事件の手がかりとかであれば良かったのに、なんて非道なことを考えてしまっていた。
僕が振り向いてトボトボと帰ろうとしても、猫はずっとそこに居た。まるで彫像にでもなったように不動のまま、ただひたすらに眼光をこちらへ飛ばしているだけだった。僕はその視線を背中に受けながら公園へと戻った。ずっと後ろ指を指されているようである種の罪悪感が湧いたが、思わせぶりな動きをした黒猫が悪いんだと開き直り、僕は公園を去った。ここ以外で時間を潰せるとこなんてあったっけ、なんて考えながら。
あれから約一ヶ月が経過した土曜日のこと。僕は風邪気味で家にいた。本当ならば、いつもの公園みたいな、家族にも同級生にも会わない場所に居たかった。家も学校も、どちらも僕が死にたくなる場所だ。今頃僕のいないライングループでは誰かの陰口で盛り上がっているし、両親は僕のことなど気に留めずに朝っぱらから喧嘩を続けている。僕は助けが欲しかった。誰かが僕に気づいて、いつか公園に一人ぼっちでいなくてもすむ日が来れば良いのに、なんて叶わぬ夢を持っていた。
「どうせあんたは私の苦労なんて知らないでしょ!!」
「黙れ、誰が食わせてやってると思ってんだ!」
階段下から聞こえる怒号の連鎖。僕は逃げるようにイヤホンをつけた。それから薄暗い部屋の中でスマホの画面を開き、頭を空っぽにしたままYouTubeのホーム画面をスクロールした。
「ニャア」
ふと、どこからか鳴き声が聞こえた気がした。あの黒猫とそっくりな声。しかし、窓の外を覗いても、その姿はなかった。
気を取り直して画面へ視線を向ける。すると、偶然なのか、もしくは運命的な必然なのか、僕はトップに出ていたニュース動画のサムネイルに目を丸くした。
『廃墟で5年間猫虐待 男逮捕』
液晶画面に表示された画像には、まさしく僕が一ヶ月前に猫に導かれてたどり着いた、あの廃墟の写真があった。
慌ててその動画を開く。わずか三十秒ほどの短いニュースだった。ニュースの内容を要約すると、こんな感じだった。
「〇〇県△△市の瓦橋公園付近の廃墟で、会社員の男が五年間、十三匹の猫を監禁して虐待を繰り返していた。二週間前、男が虐待に使用したマッチ棒で火災が発生したことにより判明。また、その火災により猫十三匹は全て焼死した」
普段の僕なら「ひどい奴もいるな」と仮初めの感想を心に抱いて終わるような内容。しかし、この時の僕は、なんどもなんども動画を見返しては、その度に顔を歪めていた。
ニュースの中では、「虐待されたと思われる猫の生前の映像」が流れていた。見覚えのある黒い毛並みと黄色い目。僕はようやく、あの時の直感が当たっていたことに気づいた。黒猫は間違いなく助けを求めていたのだ。必死になって廃墟から抜け出し、藁にもすがる思いでマッチ棒を僕に見せて。
……もしかしたら、助けられたかもしれないのに。どす黒い悔恨の念が僕を襲う。自分の無能さと勘の悪さ、そして何より、ヒーローぶっていい気になっていた気持ち悪さを呪った。僕は結局、助けを求める声を拾い上げられなかったのだ。自分で誰かの助けが欲しい、誰かに気づいて欲しい、なんて願っておきながら。
「……仕方なかった」
言い訳のように呟いた。仕方なかった、仕方なかったんだ。みんな僕に気づいてくれないんだ。ならば僕が黒猫に気づかないのも当然の摂理じゃないか。
「仕方なかった」
再び自分に言い聞かせるように呟く。滲み出そうな涙を堪えながら、僕はスマホの電源を切った。
黒猫はニャアと言った ちりあくた @chiri_aquta
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