第4話
愛すべくは、若く美しい人見知りの女子研究医である。
先輩の麗しき姿を追い求め、医学部キャンパス内を歩き回っていると、必ずと言っていいほど、先輩が先輩たる所以を否が応にも目撃してしまう。
先輩は極度の人見知りである。故に、友人が皆無だ。友人がいないならいないで、同じ研究室の仲間とくらい適当につきあえばいいものを、不必要なまでに他人を排除してしまっている。確かにそういう僕だって、せっかく開いてくれるという法医学教室伝統の新歓焼肉パーティーを断り、意図はしなかったものの先輩方の待望する貧しき学生生活を潤してくれる一輪の薔薇にも似た「焼肉摂取の道」をまんまと頓挫させることに成功させてしまった所存である。
しかしながら、本人にしたらちょっとした気恥ずかしさの為に、結果的にありとあらゆる誘いを断り続けているだけ、ということであるかもしれないのに、ちょっと客観的に見たらどうだ。これでは、本来自室にひきこもるべきところを研究室へと場所を移したに過ぎないのと、ほとんど同義ではないか。いや、しかし、そういう僕だって他人から見たならば、例の「研究室ヒキコモリ」と変わらないのではないだろうか。難儀なことである。頭を抱えざるを得ない。
「ああ、また、今日もひとりで泣いている」
顔を上げると、人目を避けるようにして唸っている先輩がいる。そうやって先輩はどんな感情も飲み込んでしまう。あれでは、いつ堪忍袋が破裂してしまうかわからない。
どうしようか、声をかける? こんな時、自分は無力だと思い知らされ、無性にうら寂しくなる。自然と目尻には水滴が溜まる。一体、どれほどの涙を先輩は流してきたのか。紙を握りつぶし、それをまた広げたのに似ている。目の前の空間が散逸していく。息苦しい。こんな先輩は見たくない。そう思いはしても、日毎に先輩と僕との立ち位置とが縮まっていく。随分、煮え切らないものだと、内なる自分がいらだつのを自覚する。頭の中で、均一に金属の音が鳴り響く。もう、こりごりだ。歯を食いしばり、あふれでようとする胃の内容物を制御してやる。
「話、聞きましょうか」
先輩の目の前に立っていた。無感情な瞳に後れて光が宿る。ちっともそんな風には見えないのに、先輩は「おかしいな」と呟く。
「背景が話し掛けてくるなんて」
むっとしたのは、背景扱いをされたからではない。今の今まで、ただ傍観しているばかりで、先輩の涙を拭うこともできなかったふがいない自分に対してだ。
「知らないんですか。世の中には、口を利く背景だってあるんですよ。なんだ、医学博士も大したことないですね」
頬を伝う涙を拭おうとするが、僕の指先だけではとても追いつかない。慌てて白衣のポケットからハンカチを取り出す。
「もう、なぐさめているのに、何故、余計に泣くんですか」
「だって、だって」
ぐずる先輩の手をひき、ベンチに座らせる。俯く先輩が、両手で顔を覆う。ハンカチを差し出すが、いらないと首を振る。
「は、鼻から涙が」
「鼻水じゃないですか」
駅前で貰ったポケットティッシュを手渡す。
「元は涙だもん」
眉間にしわを寄せつつ、受け取る。涙と鼻水とを拭いた先輩は座りなおし、空を仰ぐ。横顔が美しい。突然、先輩が笑い出す。
「な、何。何ですか」
「映画。好きな映画、思い出したの」
とびっきりの笑顔を向けてくる。こんなのずるい。不意打ちだ。胸が高鳴る。
「ヒロインがね、お店の人に馬鹿にされたーって大泣きするの。それで、男の人がハンカチ渡して」
先輩が鼻をかむ仕草をする。一瞬、意味が解らなくて呆けていたが、すぐにふたりして馬鹿笑いしていた。
「ああ、何だっけ。その映画。僕も知っています。先輩は、恋愛映画がお好きなんですね」
先輩が頷く。雰囲気が和らいだのを感じる。
「君の好きな映画は何?」
それから自分の好きな映画をさんざん挙げたのだが、先輩が知っているのは作品名ばかりでちっとも内容を知ってはいないので随分肩を落とすはめになる。
白っぽいと言われる関西の空だが、夏らしく真っ青なのに気づく。今まで、こんなにうるさかったセミの鳴き声が聞こえていなかったのかと驚く。
本当の意味で、「背景」から脱することのできた日だった。
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