第3話
「
「隣、いいですか?」
理知的な瞳から眼をそらす。手元の大学ノートに集中する。
「入試前の研究室訪問に、入試の面接。それから、先日のふたり飲み会以来、まともに話していませんでしたよね」
解剖時はさすがに指示を仰がねばならぬが、基本的には自由にやらせてもらっていた。
「人間が嫌いです。生きた人間は見たくもないけれど、死んだ人間ならまだ我慢できます」
面接時の僕の言葉だ。何故、法医学教室を志望したのか。率直に、思ったままを述べた。大学院に落ちたら、仕方あるまい。医師としての業務はしっかりこなそう。そう、思っていた。
「前橋教授は、死んだ側の人間に似ている」
前橋教授が繰り返した過去の自分の言葉を聞き、思わず洩らしていた。
息を呑んだ後で、前橋教授はなるほどと笑ってみせた。
「僕には、友人がいません。実は、ここの大学に入る前は、別の大学に通っていたのです。事情があってね、当時の僕は、同世代との交流はなるべく避けていたのです。今の菅沼くんみたいにね」
茶目っ気溢れる笑顔で、コーヒーを差し出す。こちらは、気まずい顔をして受け取る。
「焼肉のこと、未だにひきずっているんですか」
「ここの法医学教室は、代々、新歓コンパは焼肉って決まっているんです。僕は別に構わないけれど、どちらかというと君の先輩方がね」
なんとなく、先輩方の中では、あいつは放っておこうという雰囲気になってきている。それは、願ったり叶ったりだ。プライベートのつきあいが悪いので、確かにとっつきにくい印象は持たれているだろうが、今のところ嫌がらせもない。仕事もきちんと教えてくれる。先輩方は、僕のような偏屈な人間には過ぎるくらいに優しい。
「多少は、すまないとも思いますが、僕は生きた人間が苦手ですので」
「法医学教室は人数が少ないからね。彼らもできることなら親しくなりたいとは思っているだろうけれど、無理強いはしないよ。菅沼くんのように、人間が苦手だという学生も少なからずいるしね」
胸が疼く。居たたまれなくなって、コーヒーを一気に飲み込む。
「まあ、今すぐにではなくてもいいよ。いつか皆で焼肉が食べられたらいいねって、そんな話をしていてんだよ」
「それ、なんですけど。何故、焼肉なんですか?」
「ああ」前橋教授は天井を見上げたかと思うと、ゆったりと頭をかく。「それは」言い切る前に腹を抱えて、今度は盛大に笑い出す。嫌な予感が過ぎる。思い違いであってほしい。
「もしかして、ただ単に焼肉が食べたいから、とか?」
「当たりです」
目元に涙を浮かべ、指をぴんと立て仰ぎ見る。
僕は今までの人生を振り返ってみても、これほどまでに赤面したことはあるまいと思わせた。
そう言えば、と思い至ったのは前橋教授が医学部に入る以前の話だった。生きた人間に興味を抱くなど自分らしくもない。しかし、せっかくだから次の機会にでも聞いてみようかと心に決めた。
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