合言葉
"O Dreaming Forest, please invite me in"
それは小さな手書きの文字だった。少し褐色を帯びた黒いインクで書かれているように見える。ボールペンのように均一の太さではなく、直線部分とカーブでは太さが違っている。ということは、ペン先をインクに浸すやつか、あるいは万年筆だろうか。
「これが合言葉じゃないのかなあ」
それらしい文字を見つけたものの、優太は英語がわからない。僕ものぞき込んではみたものの、なんとなくそれっぽいなとは思ったが、自信を持って、「そうだ」とは言い切れない。
「どれどれ」
美月が顔を寄せてきたので、僕と優太はさっと場所をゆずった。
「なるほどねえ、合言葉とするにはそのまんまな気もするけど、書かれているページと使われている英語から考えて、たぶんこれだろうね」
「使われている英語? 英語に種類があるのか」
「ほら、先頭のところに "O"の文字があるでしょう。これは手紙の敬称 Dearと似たやつなんだけど、詩とか物語の中だと、神とか宇宙みたいな偉大な存在を呼びかけるときに使われるんだよね。『夢見る森よ、私を招き入れておくれ』って感じかな。合言葉というよりは呼びかけの言葉とかの方が近いかも」
「どっちにしても、これが森に入るための言葉ってことだよな」
「たぶんね」
美月は曖昧にうなずくと、優太に向かって、「優太君はこれを見てどう思う」と問いかけた。
優太は鼻先が絵本に触れそうなほどに顔を近づけた。その横顔は真剣そのものだった。
「落書きだと思います」
「へ? 落書き?」
変な声が出てしまった。
「この英語の字、絵本に印刷されているお話の字と違って、誰かがあとから書いた字だと思います。本にこんな風に字を書くのは落書きってことになると思います」
「うん、私もそう思う」
美月はなぜだかうれしそうだ。
「じゃあさ、この落書きをした人はどうしてこんなことをしたんだろう。本に落書きなんかしたら叱られるよね。まあ、いたずらするときは、なんとなくやっちゃうもんだけどさ」
「つけ足したんじゃないかなあ」
「つけ足し?」
「この絵本には、森に入るための合言葉が書かれてないから、それがちょっと足りない感じがして、自分が考えた合言葉をつけ足しで書いておこうかなって」
「それだよ!」
美月は優太の肩をぽんとたたいた。
「すごいね優太君。つけ足しっていう発想はなかなか出てこないよ」
優太は思わぬ賞賛に照れながらも、目をきらきらさせてうれしそうだった。
「ちょっと話が横道にそれてしまったから戻しましょう。これ、私の想像なんだけど、リサちゃんはこの合言葉を声に出して読んでしまったんじゃないかな。ママに教えてもらった英語でね」
つまり、その言葉を唱えたことで、絵本の――夢見る森の中に呼び込まれ、物語の中に入り込んでしまったと。
「じゃあ、この、絵本に描かれている金髪の女の子は、リサちゃんだというのか」
「だってほら、そう書かれているじゃない」
"Lisa became very happy and ran into the forest by herself. "
『リサはすっかりうれしくなって、一人でどんどん森の中へと入っていきました。』
いや、それは元々この絵本の主人公がリサなんであって、こっちのリサちゃんはそこからもらった名前なのだから、「そう書かれているじゃない」というのは違うんじゃないか。
「そうだ!」
何か思いついたらしく、優太は絵本を手元に引き寄せると、ページをどんどんめくり始めた。最後に近いページで手を止めると、美月に、「ここをもう一回、日本語で読んでください。」と言った。
「いいよ」
美月はテーブルの反対側から絵本をのぞき込んだ。
そのページには、うす暗い森の中でこちらを見ているリサと、向かい合うフレディの大きな背中が描かれていた。
『「もうすぐ日が暮れます。すると森の中にはいろんなお化けが出てきます。リサはそろそろおうちに帰りますか?」
フレディはリサの頭をなでながらそう言いました。
「うん、帰りたい」
「では、森から出るための合言葉を教えましょう」
リサはフレディに教えてもらった合言葉を唱えました。
森全体がざわざわと鳴って、「さようなら、小さなお嬢さん」という声が聞こえてきました。』
美月が読み終えると同時に優太は絵本を抱え込み、指をページに当てながら端から端までをなぞっていった。
「こっちは落書がない」
優太は絵本から顔を上げ、隣に座る僕を見た。
「だからリサは帰ってこれないんだ」
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