第8話 夢への一歩

 前は、セミの鳴く声しか私の耳に入ってこなかったのに、今日は雨がザーザーと降る音しかしない。

 こんな日にいつもの制服姿で出かけたら、服はびちゃびちゃに濡れるし、革靴はぐしょぐしょに濡れて捨てざるえない状態になるでしょう。

 私は、制服の上に半透明のレインコートを着て、茶色の長靴を履いて、学校に向かっていた。

 普段は、自転車で学校に向かう生徒もいるんだけど、さすがに雨の日は自転車通学を禁止している。

 何年か前までは、雨の日にも自転車通学をしている生徒がいたんだけど、通学中に高齢のおばあちゃんを自転車で轢いてしまった事故が発生して、それから禁止された。

 だから、雨の日は、普段、自転車通学の生徒がバスか電車を利用するので、徒歩で通学する人が減る。

 まだ、二学期も始まっていないから、通学路を歩いて登校している人は本当に少ない。

 この夏休みに行った体験実習。

 その体験実習の感想レポートを学校に提出するために、この雨の中、学校に向かっていた。


「はぁ、どうしよう」


 こんな雨の中、わざわざ学校に行くなんて、憂うつだよねって思われるかもしれない。

 だけど、私は、今そんなことで悩んでいるわけではなかった。

 もっと別の事で悩んでいたの。

 それは、私一人では決められないことだし、他にいい方法がないか、いっぱい調べたわ。

 でも、なかなか探せなかった。

 だから、あとは「説得する」という方法しかなかった。


「はぁ……」


 私は、肩を落としながら、この通学路をとぼとぼと歩いていた。

 学校の職員室に入ると、担任の先生が右手を上げて「こっちです」と言いながら、手招きしてくれる。

 私は、その手招きされた方へと向かった。

 私が先生のもとへ着くと、先生は私を見た。

 私は、先生に最後のレポートを手渡し、先生はそれを受け取った。

 そして、先生が私に聞いてきた。


「今回の体験実習を受けて、どうでしたか?」

「進路について何も考えていなかったけれども、体験実習を受けて、自分のやりたいことが見つけられて、とても嬉しかったです」


 私は、この体験実習での素直な感想を述べた。先生が心配するような顔をして聞く。


「嬉しいと言っているのに、浮かない顔をしているけど、何かありましたか?」


 先生にそう聞かれたものの、私はしばらく黙り込んでいた。

 だけど、この沈黙の時間が辛くなったから、先生に思い切って打ち明けてみた。


「先生、今から獣医学部に行きたいって言ったら、両親はどう思うでしょうか?」


 先生は、少し驚いた顔をしたが、落ち着いた口調で答えた。


「うーん、獣医学部ですか……。結構、学費高いところもあるし、そもそも偏差値も高いから、今から間に合うのかなどと、心配されるかもしれないですね。だけど……」


 先生が少し間を置いてから言う。


「自分の進むべき進路に悩んでいて、興味を持った水族館に体験実習を受けたんですよね。その体験実習を経て、獣医学部に行きたいと思ったのなら、まずは、ご両親に打ち明けるだけはしてみてもいいんじゃないかなとは思いますよ。打ち明けてみて、それから考えてみてはどうですか? 何も打ち明けずに、一人で悩んで諦めるより、行動してみるのが良いんじゃないかなと思いますけどね。『行動した』後悔よりも、『行動しなかった』後悔を残すことが、一番不幸だと思いますよ」

「……それじゃぁ、まずは、打ち明けてみます」


 そう言って、私は、ちょっとだけ勇気をもらった気がしたから「ありがとうございました」と先生に伝えて、職員室を出たの。

「行動した」後悔よりも、「行動しなかった」後悔を残すことが、一番不幸……。

 そうだ! ママもきっとそう言うはずだ!

 だったら、私は今の自分の気持ちを伝えないといけない!

 そう思った。

 職員室を出た私は通学路を走って、家に帰った。

 走る必要なんて無かったかもしれない。

 だけれども、私は、早くママに相談したくて、自然と走っていたの。

 いつもだったら、こんなふうに走ることはない。

 私は口で息をしながら、とにかく早く家に帰りたくて、無我夢中で走っていた。

 肺も胸もものすごく苦しかった。

 でも、それでも、早く伝えたい!

 走って帰ったから、家にはいつもより早く家に着くことができた。

 私は、家のドアを開け、すぐに叫んでいた。


「ただいまぁ!」

「おかえり~」


 ママの応え。

 キッチンからママの鼻歌が聞こえる。歌の曲名は、分からない。

 シチューのいい香りが玄関まで届いていた。

 ママは、キッチンで夕食のシチューを煮込んでいるようだった。

 私は、靴を乱暴に玄関に脱ぎ散らかして、バッグも適当に廊下に置いて、ママがいるキッチンに急いで向かった。


「ママ! 私ね、決めたの!」

「へ?」


 ママが、いきなり大声で喋り出す私に対して、驚く。


「私も獣医さんになる! 今からじゃ、全然、間に合わないかもしれないけど……でも、なりたいの! それで、水族館で働きたいの! 水族館にいる動物たちの健康を私も守りたいの! 海で傷ついた動物たちを保護するために役に立ちたいの! 飼育員さんになりたいとも思ったけど、私、欲張りなの。飼育員さんのお仕事も獣医さんのお仕事も両方やってみたいって思っちゃったの! 大変なのは、分かっているけど、やりたいの! 地球上の生き物を守る仕事がしたいの!」


 ここまで一気にバーッと喋りきり、私はゼハァゼハァと大きく肩で息をしていた。

 他方、ママは、いきなりいろいろと打ち明けられたために、ポカンとしている。

 数十秒だけ、私とママの間に沈黙の時間が訪れた。

 私よりもママが先に口を開く。


「とりあえず、着替えてから、ゆっくり話しましょう」


 ママは、煮込んでいたシチューの火を止めた。

 そして、私に「玄関の靴もきちんとしなさいね」と言った。

 私は、言いたいことを一気にしゃべって、少しだけ落ち着いちゃった。

 だから、玄関にゆっくりと向かって、靴を整えて、放っておいたバッグを取りに行き、自分の部屋に持って行った。

 それから、制服から部屋着に着替えて、リビングに向かった。

 既にママがソファに座っていた。

 ソファの目の前のテーブルの上には、私とママの分のお茶とお菓子が置いてある。アールグレイの香りと、桃色や黄色のマカロンの甘い香りが、私の鼻をくすぐる。

 私は、ママが座っている二人掛けのソファに腰かけた。

 私とママで隣同士になって座っている。ママが、最初に話し始めた。


「ママね、体験実習が終わったら、亜久愛が獣医になりたいって言うだろうなって思っていたのよ」

「え! そうなの!」

「だって、獣医さんになりたいって言い始めたのは、大洋くんよりも亜久愛が先だから」


 ママの話を聞いて、正直なところ、驚いた。

 私には、水族館で働きたいと言っていた記憶があったけど、獣医さんになりたいと言った記憶はなかったら。

 ママが続けて言う。


「パパも、亜久愛なら、獣医さんになりたいって言うだろうなって、覚悟していたみたいだし」

「そうなの!」

「パパとしては、パパの大学に入ってもらいたかったみたいよ。娘と一緒に自分の研究に取り組みたかったみたいだけど」


 全然知らなかった。ママだけでなく、パパもそう思っていたなんて。


「そういうわけだから、ってどういうわけかは、分からないかもしれないけど、亜久愛が決めたんだったら、獣医さんになれるように頑張りなさい」


 ママが、私ににっこり笑ってくれる。


「ありがとう、ママ!」


 私は、嬉しくて、ママに抱きついた。


「パパにもありがとうって言ってあげてね。あと、本当に一緒の大学に来てほしいって思っていたはずだから、ほっぺにチュッってしてあげてちょうだい」

「ふふっ、分かった」


 私は、ママににっこりと笑いかけて、ママともう一度抱き合ったの。

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