第6話 イルカの繁殖業務

 体験実習最終日は、イルカの飼育業務だけど、今まで体験した業務とはちょっと違う。体験実習の最初の方で行った業務は飼育員さんが普段から行う業務。

 今日の業務は、繁殖に関する業務だ。

 私たちは、イルカ担当の木村さんに誘導してもらい、一般客が見ることのできないプールに案内された。

 そこには、一頭のイルカがゆったりと泳いでいる。

 木村さんがプールの前に立ち止まって、話し始めた。


「このプールが、ブリーディングプールです。今、一頭しかいないので、ちょっと分かりにくいかもしれませんが、他のイルカよりもお腹が大きいんですよ。分かりますか?」

「本当ですね。ちょっと大きいと思います」

「うんうん、イルカショーの補助業務したときに見たイルカよりも大きいなって思います」


 大洋くんと私は、木村さんの説明に対して答えた。


「ありがとうございます。この妊娠しているイルカはバンドウイルカです。名前はアクアと言います」

「えっ」


 私は、驚いて声を出してしまった。


「ふふっ。佐藤さんと同じ名前なんですよ。実は、私も驚いたんです。このアクアの名前は十年くらい前に一般公募して、集まった名前の中から、水族館スタッフで話し合って決めたそうですよ。もしかすると、佐藤さんと縁があるかもしれませんね」


 私は、木村さんにそう言われて、ちょっと嬉しくなった。


「アクアの出産予定日ですが、来月の半ばだと思います。この予定日を知る方法ですが、まず、オスのイルカと交尾した日を確認します。バンドウイルカの妊娠期間は約三百八十日で、実は人間よりも長いことが分かっています。だから、交尾が確認されてから一年経過した頃合いが出産予定日になるだろうと予測することができるのです」


 木村さんは、「イルカの出産まで」と書かれたボードを手に持ちながら説明してくれる。


「私たちは、去年の夏にアクアとパートナーの蒼海(うみ)との交尾を確認しています。だから、出産予定日は来月だろうと考えています。あ! アクアのパートナーの名前は、草冠の『蒼』と『海』と書いて『うみ』と言います。たぶん、イルカショーで会っていると思います」

「一番高くジャンプできるイルカですね」


 大洋くんが、木村さんの説明に応える。


「そうです。一番高いジャンプをできるのですが、結構いたずらっ子でもありますね」


 木村さん、よく知っています。

 私たち、イルカショーの補助業務のときに、なぜか蒼海に何度も水を掛けられましたから。

 あれは、偶然じゃなくて、いたずらだった……のかな。

 木村さんが続けて言う。


「私たちはイルカ同士の交尾を確認するだけでなく、当然、妊娠したかどうかも確認します。妊娠の確認方法としては、血液検査と超音波検査です。イルカのメスは、妊娠すると、血液中のホルモンが上昇します。それを私たちは確認するのです。そして、超音波を使ってお腹の中の赤ちゃんを確認します」


 私は、人間の赤ちゃんがお腹にいる時と同じような検査をするんだなと思った。

 木村さんが説明を続ける。


「先ほど説明した方法によって出産予定日を知ることができますが、最終的には、メスの体温の低下があるかどうかを調べて、妊娠の兆候を確認します。イルカは、出産を迎える数日から数時間前に体温が急激に下がることが、これまでの研究で分かっています。因みに、アクアにはそのような兆候はまだないので、おそらく順調にいけば来月の半ばだと思います」


 私と同じ名前のイルカ「アクア」。

 そのアクアのお腹に赤ちゃんがいる。

 アクアは、今もゆっくりとプール内を泳いでいる。

 同じ名前のアクアには、元気な赤ちゃんを産んでほしい。そう思った。

 木村さんが説明し終わったころに、獣医の江頭(えとう)さんが来てくれた。


「木村さん、どのくらいまで説明できましたか?」

「妊娠の確認の方法と出産予定日の確認方法まで説明しました」


 江頭さんは、ふむふむと頷く。


「ほとんど、説明が終わっていますね。それでは、私からはイルカなどの繁殖活動、そして水族館の役割について、少しだけ話しましょう」


 今度は、江頭さんが穏やかな口調で説明し始めた。


「イルカだけでなく水族館や動物園などでの繁殖活動はとても重要です。特に、野生のイルカの採集活動は多くの批判があります。そのため、水族館はイルカを確保するために繁殖活動に力を入れざるをえません。ただ、この繁殖活動をするためにもいろいろと問題はあります。繁殖活動をするためには、イルカの健康を必ず確認する必要があります。健康を確認するためにはイルカにとってストレスの多い検査が不可欠です。たとえば、血液検査は、人間の私たちでさえ、注射針を腕などに刺すことにストレスを感じる人がいらっしゃいますよね。イルカも人間と同じなんですよ。このストレスの軽減のためにも、イルカにトレーニングを施すことが大事になります。トレーニングをすることにも批判はあります。ですが、トレーニングを積んで、飼育員との関係が良好なイルカほど、健康を確認するための検査などをスムーズに行うことができます。その結果、イルカに大きなストレスを与えることなく、検査を終えることができるのですよ。また、健康を維持するためには、運動をさせることも必要です。批判のあるイルカショーも、その運動の一環としても役に立っていると思います」


 江頭さんは、真剣な表情で、さらに話を続ける。

 私たちは、江頭さんの言葉を一言一句聞き逃さないように聞き入っていた。


「水族館でイルカなどの生き物を飼育するのを止めれば、そもそもトレーニングや繁殖などしなくて良くなるのではないかという声もあるかもしれません。ですが、イルカは飼育されているとはいえ、野生動物です。野生動物の生態は、ほとんど解明されていません。イルカもそうですが、多種多様の野生動物の生態を把握することで、この地球上の生き物を守ろうと、私たちは真剣に考えています。水族館は、その役割を果たす重要な施設なのです。私たちは多種多様な生き物を守っていきたいと本気で考えています。共存していくためには、私たち、水族館の役割は重要だと考えています」


 江頭さんはそう言うと、私たちににっこりと笑って言った。


「私たちは、こんなにも多種多様の生き物が暮らす地球に生まれ落ちるという奇跡に出くわしているのです。この奇跡を大事にできたらいいですよね」


 この言葉が、私の頭の中に響いた。

 多種多様の生き物が暮らす地球。

 この奇跡を大事にするって、すごい!

 この言葉が、私の心をワクワクさせた。


「江頭さんは、獣医さんですが、飼育員業務も本当にたくさんこなしているんですよ。私たちともしっかりと話す時間を取ってくれるので、本当に助かっています。さ! これでイルカの繁殖業務についての説明は終わりです。お二人の体験実習を充実させることができたら嬉しいです。いかがでしたか?」

「はい!」


 木村さんがにっこり笑って聞いてきたので、私たちは元気よく答えた。


「それでは、体験実習の最後、事務室で館長による『七日間のまとめ』を受けに行きましょう。事務室まで誘導しますね。江頭さん、ありがとうございました」


 木村さんがそう言うと、江頭さんは手をひらひらと振ってくれる。

 私たちは、江頭さんに「ありがとうございました」と言って、会釈する。

 江頭さんはにっこり笑って応じてくれた。

 その後、木村さんに誘導してもらって、事務室に向かう。

 しばらくすると、私たちは事務室に着いた。

 事務室には、館長の海崎さんがにっこりと微笑んで出迎えてくれた。


「佐藤さん、鈴木さん、七日間、お疲れさまでした」

「こちらこそ、ありがとうございます」


 私たちは、一緒にお辞儀をして感謝の気持ちを伝えた。海崎さんが私たちに問う。


「お二人のレポートを毎日、楽しく読んでおりました。お二人とも、この水族館でいろんなことを学べましたか?」

「はい!」


 私たちは、海崎さんに満面の笑みで答えていた。


「それにしても、『七日間のまとめ』として、何か話さなきゃなとは思っていたのですが、何もまとまらなかったんですよね、実は。なので私からは、今回体験したことが、お二人の今後歩んでいく将来に何らかのかたちで役に立ってくれればいいなと、そう思っていることだけ、お伝えしますね」


 海崎さんは、にっこりと微笑んで言った。

 私たちは、一瞬キョトンとした顔をしてしまったが、館長さんの言葉を嬉しく思い、心からお礼を伝えていた。


「ありがとうございます!」

「あ、そうそう! 最後に、任意の課題に取り組んでいただいても良いですか? もちろん、強制じゃなく、任意ですからね! 記名も不要ですから!」

「へ?」


 私たちは、少しだけ驚いていた。海崎さんが言う。


「今度、産まれてくるイルカの赤ちゃんの名前を考えてほしいのです」


 海崎さんの手には、「イルカの赤ちゃんの名前 応募箱」と書かれた箱があった。

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