第2話 子羊たちの決断

 今日も、私は学校の美術室で涼んでいた。

 美術室の机に顔を近づけると、ひんやりとしている。

 私は、家から持ってきたキンキンに冷えた麦茶を入れたタンブラーを片手に持つ。

 顔は、机の上に敷いたタオルに置く。

 もう片方の手で自分に向かって、うちわでバフバフと風を送っていた。

 美術室は、学校の北側にあるから、夏はものすごく涼しい。

 いわゆる、洞窟(どうくつ)効果ってやつね。

 冷房なんて点ける必要が無いの。

 窓を開けさえすれば、風が入って、本当に涼しい。

 夏の暑さで火照った体も、五分もこの部屋にいれば、回復するわ。

 でも、その代わり、冬は「ここは北極か!」と叫びたくなるほど寒くなる。

 おまけに、暖房を点けても、教室の中が全然温まらない。

 美術室は、普通の教室が二つ分はすっぽりと入っちゃうくらいの大きさだから、広すぎるのよ。

 もちろん、全部の暖房のスイッチをオンにしているわよ。

 でも、全然温まらないのよ、悲しいくらい。

 だから、冬の美術室はコートを着ながら制作している子がほとんど。

 ちなみに、私たちは例のごとく、おしゃべりを楽しんでいるけど、制作している子たちの様子を見ながら、暖かいココアを振舞うのよ。

 だって、手が冷たくなっちゃったら、作るのが嫌になっちゃうでしょう。

 それに、みんな喜んでココアを飲んでくれるから、私たちも嬉しいのよね。



 話を戻すわね。

 私が、美術室でなぜ涼んでいるかというと、例のあれよ!

 水族館での体験実習の申込みを学校で行う必要があったからなのよ。

 あの日、ママに背中を押してもらって、夕食ができるまで、高校生でも体験実習を行っている水族館を調べたわ。

 そうしたら、簡単に受け入れてくれる水族館って、意外に少なかったの。

 個人で申し込みできるところが、まず、少なかった。

 そりゃ、全く無かったわけじゃないわよ。

 だけど、個人で申込みできる体験実習っていうのは、水族館で一時間くらい動物にエサやりを体験できるって感じのもので、私が考えているものとはちょっと違っていたの。

 それに、そういうのは、どちらかと言うと小学生対象のイベントって感じが多かったのよね。

 私は、できれば一日中、体験できるところがあればいいなって思っていたんだけど、そういうところはなかなか無いよね。

 しかも、今は夏休み。

 水族館って、この時期は普通、稼ぎ時よね。

 だから、余計にこの時期の受け入れってなかったのよ。それが、普通よね。

 だけどね、だけどね! 一個だけ見つかったの! それが、地元の水族館!

 高校生の体験実習を夏休みも受け入れてくれるって!

 ただ、個人での申し込みはできなくて、学校からの申し込みしか受け付けてなかったの。

 だから、その話を夕食の時に、ママとパパに話して、翌日、学校に電話して連絡してみようってお話になったの。

 それで、翌日、学校の先生がいるかどうか分からなかったけど、学校に電話で連絡したわ。

 そうしたら、たまたま、担任の先生がその日はいてくれて、水族館の体験実習に参加したいって話を一生懸命したの。

 先生に、すっごく迷惑かけているよねって思いながら、電話をしていたけど、先生が「来週、学校に来てくれれば、何とか対応できるかもしれない」って言ってくれたの。

 もう、本当に先生に感謝! 先生、本当にありがとう!

 あと実は、私一人で申し込むわけじゃないの。

 大洋くんも一緒に申し込むことになったのよ。

 なんで、大洋くんも一緒かって?

 私だって、最初は一人で申し込むつもりだったんだけど、ママが大洋くんのママと電話していたの。

 夕食の時に、「学校に電話する」ことを決めたでしょう。

 その後、ママが、大洋くんのママと電話して、話したってわけ。

 ママと大洋くんのママは物凄く仲が良い。

 高校からの親友で、大学が離れていても、いつも一緒にいたんだって。

 当然、働くところが違っても、ずっと仲が良くて、下手すると、パパよりもお互いの事をよく分かっている関係かもしれない。

 二人の特徴といえば、おもしろいと思ったことは絶対に二人で情報を共有すること。

 だから、今回の体験実習の話もママがおもしろいと思ったから早速、電話した。

 当然、仲の良い大洋くんのママもおもしろいと思った。そんな感じ。

 あと、大洋くんは、獣医学部に行きたいって言っていたから、体験実習に申し込むことを決めやすかったのだと思う。

 そういうわけで、私は、大洋くんと一緒に学校に電話をかけ、指定された日に学校に行くことになった。

 その日が、今日だったの。

 私たちは、職員室に行って、先生から目的の水族館に電話申込みをしてもらって、その後、提出する申込用紙を手渡された。

 あとは、この申込用紙に必要事項を私たちが記入して、また学校に提出して、学校の推薦状と一緒に送ってもらって、水族館の返答を待つだけになる。

 通常の水族館だと、こんな急な申し込みを受け入れてくれるところはないけれど、目的の水族館だけは、対応してくれていて、本当に良かった。

 対応してくれた先生たちにも本当に感謝の気持ちでいっぱいよね。

 私たちは、先生から受け取った申込用紙を持って、とりあえず、美術室に寄ることにした。

 もちろん、大洋くんは製作途中の馬の絵の完成をさせるため。

 他方、私は美術室で涼むため。そして、今に至るって感じ。


「亜久愛ちゃんたち、水族館の体験実習に行くんだ」


 雅ちゃんが紙パックの一リットルサイズの紅茶をストローで飲みながら、言った。


「へぇ、おもしろそうだねぇ。終わった後の話、聞きたいなぁ。でも、大洋くんが水族館で実習したいっていうのは、分かるけど、なんで亜久愛まで?」


 同人誌の原稿の締め切りに間に合って、しばらくもぬけの殻(から)になっている緑ちゃんが問う。


「違う、違う。私の方が先に、行きたいって言ったの。なんか、子どもの頃、水族館で働きたいって言っていたんだって。それで、思い切って、じゃぁ、やってみようかって!」


 私の答えに雅ちゃんが反応する。


「へぇ、亜久愛ちゃんらしいね。実は、私も栄養士について調べてさ。そういう学部に行っても良いんじゃないかって、考えているんだ。ママにその事を伝えたら、食べることも作ることも大好きな私ならば、栄養学を学んで、いろいろと役に立てるかもしれないねって、言ってもらえてさ。それで、今度、オープンキャンパスがあるから、それに行って来ようと思って。」

「うわぁ、それ、素敵だね」


 私は、雅ちゃんの話に喜びながら言った。


「私も、イベント終わったら、オープンキャンパスに行ってみようと思うの。仲良くしてくれる大学生の作家さんが、大学にも同人活動している人たちが所属するサークルがあるって教えてくれたの。サークル内の交流はほとんどなくて、本当に職人気質の人たちの集まりだけど、創作の悩みを相談することができるから、孤独にならないよって。はっきりと何になりたいかがまだ決まってないけど、でも行きたい大学ができることはいいことだからって、ママたちにもすすめてもらったよ」

「緑ちゃん、同人活動をこれからも続けることができそうだね」


 雅ちゃんが言うと、緑ちゃんがにっこりと嬉しそうに笑った。


「私たち、この間はうじうじとしていたけど、なんとなく目の前が明るくなった感じだよね」


 私が言う。


「亜久愛ちゃんも雅ちゃんも、またお話聞かせてね」

「緑ちゃんも、聞かせてね。もし美味しいレシピとか、ついでに教えてもらったら、私、作ってくるから、また食べてもらっていい?」

「もちろん」


 私たち三人は、お互いの顔を見て、笑い合った。

 私たちは、「みんなで素敵な夏休みにしよう」とお互いに決意表明して、帰宅することにした。



 今日は、先生から受け取った申込用紙に必要事項を記入するために、大洋くんにお願いしたの。一緒に書こうって。

 大洋くんは、最初は嫌そうな顔をしたけれども、緑ちゃんと雅ちゃんが「その方が間違えないから、いいよね」と言ってくれて、大洋くんはちょっとしぶしぶゆるしてくれたの。

 私は、ママに「大洋くんと一緒に家に帰るね」と連絡すると、ママから「お茶とお菓子の用意をして待っているわ」と返事をもらった。

 大洋くんも、お家に電話して承諾してもらったみたい。

 私の家と大洋くんの家は、同じマンションで、階数が違うだけ。

 それも一階分だから、本当にご近所さんなの。

 だから、夕食まで一緒にすることがある。

 これも、私のママと大洋くんのママの仲が良いからよね。

 というわけで、今日は、大洋くんと珍しく、一緒に帰宅することになった。

 どうして、珍しいかって?

 大洋くんは、美術製作の片付けにいつも時間がかかるから、普段は一緒に帰ることがないからなの。

 私たち四人が校舎を出ると、目の前の空は太陽が少しずつ沈みかけて、赤く染まり始めていた。

 運動場で練習をしていた野球部の人たちが、とんぼを持って校庭の土を均(なら)している。

 サッカー部の人たちは、汚れたボールをキレイにタオルでふき取っている。

 さっきまで「瑠璃色の地球」を歌っていた合唱部の音楽室の灯りが消えて、部員たちが歌いながら校門へと向かっている。

 校門の前から校舎にかけて、部活動を終えた人たちがぞろぞろと帰っている。

 地下鉄を使う人は校門を出るや、すぐに地下へともぐってしまう。

 私たちが、校門を出ると、緑ちゃんと雅ちゃんも地下鉄の出口へと向かった。

 私は、彼女たちに「バイバイ、また今度ね」と手を振る。

 私と大洋くんは、彼女たちを見送った後、赤い夕日で照らされる歩道を歩きだした。

 私たちと同じように、徒歩で下校する人はちらほらといた。

 ジャージ姿で帰る人たちもいれば、私たちと同じように制服で帰る人たちもいる。

 私は、思い出したように、大洋くんに話しかけた。


「あ、ママから聞いちゃった! 大洋くん、子どもの頃から、獣医さんになりたいって言っていたんだね」

「え! あぁ、うん、そうだよ」


 大洋くんは突然、声を掛けられて驚きながら答えていた。

 その後、黙ってしまった。

 うーん、間が持たないなぁ。

 昔は、もう少し、いろいろと楽しく話せていたのに、今は、なんか話がしづらいんだよね。

 まぁ、大洋くんは子どもの頃から図鑑をもくもくと読んだり、アリの行列をじーっと観察したりするのが好きだったから。

 一緒にいる私は、その横でラジオ体操を踊ったり、一人でお姫様ごっこして遊んだりしていた気がする。もちろん、今はしないからね!

 私は、他に大洋くんと共通するような話題がないかとうんうん唸りながら考えていた。

 その時だった。


「亜久愛は、水族館で働きたいのか?」


 大洋くんが私にボソッと聞いてきた。


「実は、まだ分かんないの。だけど、この間、ママから『水族館で働きたい』って言っていたって聞いたんだけど、全然思い出せないの、その理由。だけど、なんでそう思ったのかなって気になって。それで、気になったものから始めてみようって思ったんだ。たぶん、みんなに比べてあんまり真面目に考えていないよね」


 私は、なんとなく申し訳なさそうに答えてしまった。

 だって、なんか、あんまり真面目に考えてないよねって思うもの。


「切っ掛けは、大したことじゃないとしても、そこから興味をもって取り組むことに意味がないとは思わないよ」


 大洋くんはとても優しい口調で答えてくれた。

 私は、小さい頃から獣医になりたいと夢を語る彼に、そんなふうに言ってもらえるとは思わなかった。

 なんだか嬉しくて照れてしまった。


「そうだよね。うん、ありがとう」


 私は、彼に気になっていたことを聞いてみた。


「大洋くんは、なんで獣医になりたいって思ったの?」


 大洋くんは、一瞬だけ、横に並んで歩いている私の顔を見た。

 私も、彼がこっちを見てきたので、見返した。

 私と彼の目線の高さはほとんど変わらない。

 私の革靴のかかとが少し高いからだ。

 靴の高さが無ければ、私と大洋くんの身長差は五センチメートルくらい。

 私は、背の高い方だけど、大洋くんはそんなに高い方ではない。

 だから、なんとなく、彼は大人しそうで、影が薄い存在に思えてしまう。

 運動もできる方なのに、いつも休み時間になるとぼーっと窓を眺めていたり、絵を描き始めたりするから、本当に影が薄くて、自信がなさそうだなと思っていた。

 ただ、この時の彼の顔はいつもと違ったと思う。

 でも、夕日に照らされているから、どう違うのかをはっきりと言うことはできないけれども。

 彼は、私と目が会うとすぐに、また顔を戻した。


「忘れた。でも、獣医になりたいって気持ちは変わらなかったな」

「そっかぁ、そういうこともあるよね」


 私は、彼の答えに「なりたい気持ちが強いんだな」と思った。

 それと同時に、なんとなくだけど、本当はなりたい理由を忘れていないんじゃないのかなって。

 大洋くんの顔がいつもと違うと思ったから、余計にそう思う。

 でも、今ここで追及したところで、何かいいことがあるわけじゃないから、私はそれ以上のことを問うのを止めた。

 その後も、私が一方的に話をしながら歩いていると、私たちが住んでいるマンションに着いた。

 マンションの前の公園の中を通り、マンションのエントランスに入る。

 大洋くんがオートロックを解除した。

 自動ドアが開くと、私はサッとエレベーターのボタンを押すために、少し小走り気味で向かった。

 エレベーターのボタンを押すと、すぐにその扉は開いた。

 私たちは、エレベーターに乗って、私の家の階まで昇る。

 ティンッと鳴ってエレベーターが止まり、降りると、私の家のドアが目の前にある。

 鍵を開けて、私は「ただいま~」と言うと、中からママが「おかえり~。ようこそ、大洋くん」と答えた。

 ママが、にこにこしながら、出迎えるために玄関に来る。そして、続けて言った。


「大洋くん、来るの、久しぶりだよね! ゆっくりしてってね! お菓子もあるし、晩御飯もうちで一緒にさせるって、お母さんに伝えてあるから、安心してね」

「お邪魔します。今日はすみません」

「謝らないで。むしろ、こちらがお礼を言わなくちゃ。亜久愛が頼んだことなんだから。本当に来てくれてありがとうね」


 ママがそう言うと、大洋くんは少しだけ顔を緩ませて、「ありがとうございます」と言った。


「ママ、早くお菓子食べたい」

 私は、玄関で靴を脱ぎながら言った。


「分かっているから。二人とも、靴脱いだら、手を洗って。それから、お茶にしましょう」

「大洋くん、早く入って、入って!」


 私は、お菓子の言葉に目をキラキラと輝かせながら、大洋くんに言った。


「あぁ」


 彼は、また顔を少し緩ませながら言うと、靴を脱いで我が家に入る。私も、彼のその顔を見て、今日お家に誘ってよかったと思った。

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