aqua

あおのしらたき

第1話 悩みに悩む子羊たち

 セミの鳴く声が、私の耳にはもう入ってこなくなったのだろうか。

 そう思ってしまうほど、その鳴き声は夏の暑さに比例してけたたましさを増していた。

 その日は本当にひどく暑かった。太陽は私の肌をじんじん焼き付けてくるし、アスファルトがさらに私の肌を 焼き付けてくる。

 学校から家までの帰り道を、なぜ歩いて帰らなきゃいけないのだろうか。

 答えが分かり切っている問いについて、私は、うだうだと考えたくなる。

 家から一番近い高校に通いたいという理由で、高校を選んだからだ。

 誰が? もちろん、私が。

 おかげで朝の遅刻はないが、夏の登下校が辛い。

 電車通学している子は、うらやましい。

 校門の前に地下鉄の出入り口があるから、すぐに日陰に入ることができる。

 夏の彼らが本当にうらやましいわ。

「ただいまー。暑い、アイス食べたーい」

 私は、部活から帰って、家に着くとすぐに、靴をさっさと脱いだ。

 荷物は、自分の部屋の前にとりあえず置いておく。

 いざ! アイスが眠るキッチンへ!

 私は、キッチンにそびえ立つ冷蔵庫に踊るように向かい、冷凍室の中からスイカアイスを取り出した。

 ビニール袋を開けたら、すぐにアイスを取りだして、口に入れる。

 そのままエアコンの効きまくったリビングに向かう。

 私は、革張りのソファにドシッと全体重を乗せた。

「うーん。美味しい。やっぱり夏はスイカアイスよね」

 こんな夏の暑い時、しかも夏休みなのにもかかわらず部活に励むなんて! なんて真面目な生徒なのだろうと思うわよね。

 だけど、私の所属する美術部は通称「だべりば」。

 油絵を描きたいとか、彫刻をしたいとか、そんな高尚な目的を持って入部する生徒はほとんどいない。

 ここに入部する生徒は、漫画やアニメが好きで、いわゆるオタ友と好きな漫画やアニメについておしゃべりしたい子ばかり。

 本当に物凄くエネルギーのあるオタ部員になると、「ぎゃーっ、締め切りに間に合わない! どうしよう! ペン入れ出来ていないけど印刷所がー!」って叫んでいる。

 ほとんどの部員は、「だべりば」トークが、活動ですって感じよね。

 だから、部活に行っているというよりは、遊びに行っているという方が合っているかな。この美術室で、真面目に美術部らしい活動している子は、ほとんどいないのよ。

 私、佐藤亜久愛あくあ、17歳。

 漫画やアニメが好きだけど、イラストや小説は全く書けない。

 ただ、漫画やアニメが好きなだけ。他に、何かできるかと聞かれると、特に何も無い。

 とにかく、好きな漫画やアニメについて話すことが出来る友達が欲しくて、美術部に所属している。

 漫画やアニメは本当に「素晴らしい」の一言に尽きるもの。

 顔はイケメン、髪はサラサラ、高い身長に、長い足。手指は長く、筋張ってるのが、キュンと来る。声は、耳の奥まで届く、低い声。

 とにかく、自分たちの推しキャラがどんなに素敵かを友達に話したい。

 ちなみに、文化祭で自分たちの作品を展示する必要があるらしいけど、そんな作品は一切ない。

 おしゃべりする場が欲しいけど、部活動はしたくない典型的なダメ部員の一人なの。

 もちろん、まじめに美術部としての活動している生徒の邪魔をしているわけじゃないからね。

 私たちだって、毎日、オタクの話を聞かされるのって、苦痛なのかなと思っていたわ。

 でも、案外、そうじゃないんだって。

 無音の中で集中するより、ある程度、声や雑音がある方が、作品にリラックスした気持ちで取り組むことが出来るんだって。

 周りの音が気になっている時って、むしろ集中できていないから、何をやってもいいものができないって、真面目に作品に取り組んでいる子たちが言ってたの。

 あと、私たちのトークが面白くて、なんか刺激になるんだって。

 こういう視点で考えるんだって、常に発見があるって言っていた。

 こんな事を言われると、私たちのトークのどこにそんな発見があるのか、逆に聞きたくなるよね。

「だべりば」利用者は、学校に行けば、大好きな推しキャラについて友達と話すことができる。

 家で話そうと思ったら、無料通話するしかないでしょう。

 無料通話って、かなり不便なんだよね。

 スマホ画面が固まったら、そこで会話が途切れちゃって、その途切れた時間、推しへの熱が冷めちゃうかもしれないじゃない。

 そう思うと、真夏の登下校がどんなに辛くても、夏休みの日中をダラダラと過ごしたくても、私たちは「だべりば」に向かう。

 これはもはや使命としか言いようがないのよね。

 部室で繰り広げられるリアルタイムのおしゃべりこそ、私たちの心の栄養なんだもの。

 だけど、今日の「だべりば」トークは推しキャラの話だけで終わらなかった。

 同人活動をしている緑ちゃんの一言があったからだ。

「私、この間、『ママにそろそろ進路どうするの?』って聞かれちゃった」

 タブレットPCで線画を描いている緑ちゃんの手が止まった。

 タッチペンがパソコンの画面からスーッと離れる。

「なんかね、漫画家になりたいと思っているなら、絵の専門学校に行くとか、そうじゃないなら、普通の大学に行くとか、考えなさいって。同人活動をお小遣いの範囲で頑張っているのは素敵だけど、将来のことも考えないとダメでしょうって」

 緑ちゃんがここまで言い切って、またタッチペンをパソコン画面にくっつける。

 画面に綺麗な線が描き出される。

 その時、一緒にいた雅ちゃんも「うちも、そろそろ考えなさいって言われたよぉ」と言った。

 私も言われたんだよね。でも、そろそろ考えるって、何をどう考えるんだろう?

「私、実は、よく分かんないの。何を考えればいいのか、分かんないの。推しキャラについて、同人活動するの、すごく好き。だけど、プロの漫画家になりたいかとか、イラストレーターになりたいかとか、そう聞かれると、全然イメージが湧かないの」

 緑ちゃんは、顔を少し曇らせながら、そう言った。

 いつも素敵で可愛いイラストや漫画を描く緑ちゃん。

 私は、緑ちゃんは、漫画家になりたいのかなと思っていた。

 それくらい、緑ちゃんのイラストを描く量はとても多い。漫画を描く量も多い。

 そんな緑ちゃんでさえも、自分の将来について、どう考えればいいか、分かんないんだ。

 何も取り柄が無い私なんて、もっと分かんないよ。

 すると、雅ちゃんが、私たちと同学年の大洋くんに声をかけた。

「ねぇ、大洋くんは、進路どうするの?」

 鈴木大洋、真面目に美術部の活動に励む部員の一人。

 どっちかと言うと、大人しいタイプで、マイペースで、どこかぽやんとした男の子。

 今は、競馬のサラブレッドを油絵の具で描いている。

 黒光りする馬の肌つや、走る馬の表情、目の輝き。

 躍動感のあるタッチで描かれている。

 ちなみに、私と大洋くんはご近所さんだから、いわゆる幼馴染なの。

 だから、大洋くんのことを、私が一番、分かっているわ。

 断言できる! 私が知っている大洋くんは、何も考えていないはずよ!

 小学校のマラソン大会で、最後のトラックで何週走ったのかを数え間違えて、途中までトップだったのに結局、三位になってしまった、ぼんやり大洋くんよ!

 絶対に考えていないはず!

「僕は、獣医学部に行きたいって、この間、言ったかな」

「えー! 大洋くん、進路のこと、考えているの! 私、知らなかった」

 大洋くんの答えに一番驚いたのは、私だった。

「亜久愛から聞かれたことなかったし」

 大洋くんがボソッと答えた。

「やっぱり、大洋くんも考えているんだー。このまま、時間なんて止まっちゃえばいいのに……」

 雅ちゃんが大きく背伸びして、ついでに大きな欠伸をしながら言った。

 私たちはそれから進路についての話をすることはなく、なんとなくうやむやになってお開きとなり、下校することにしたの。


「進路か……」

 私は、スイカアイスをはむはむと食べながら、今日のだべりばトークを思い出して、はぁと大きくため息をついた。

 進路を考えなきゃいけないのは分かるんだけど、何をどう考えたらいいのかが分かんないよ。

 そんなことをうだうだと考えて悩んでいるうちに、アイスを食べ終わってしまった。

 私は、スイカアイスの棒を口で咥えて上下に動かして遊びながら、ソファでダラダラと涼む。

 ちょうどその頃、ママが2階の仕事部屋からリビングに下りてきた。

 洋裁の得意なママは洋服のお直しの仕事を自宅でしている。

 注文や配送をインターネットを使って会社が管理してくれるから、いわゆるリモートワークをすることができるみたい。

 職業用ミシンとロックミシンがあれば、大抵の仕事は自宅でできるんだって。

 たまにジーンズ生地のような分厚い生地でできたお洋服の修理の注文がある場合、会社の大きいミシンが必要になるの。

 だから、その場合くらいしか、ママは会社に行かないの。

「亜久愛、お帰り。ママもスイカアイス食べて、休憩する~」

 ママがそう言って鼻歌を歌いながらキッチンに向かった。

 ママの「クラリネット壊しちゃった」が私の方にどんどん近づいてくる。

 ママもリビングのソファにドシッと座って、アイスの袋を開けて、食べ始めた。

 ママも「夏はやっぱりスイカアイスよね~」と言って、はむはむとアイスを頬張っている。

 美味しそうにアイスを食べるママに、私は今日初めて知ったことを話してみた。

「ねぇ、ママ。大洋くん、獣医学部に行きたいんだって。知ってた?」

「ん? 知ってたよ」

 ママの答えに私は思いっきり驚いたの。

 私が物凄く驚いた顔をしているのを、ママがアイスをはむはむと食べながら見てくる。

「亜久愛も知っていると思っていたけど?」

「え! 私、全然知らなかったよ! 今日、聞いて本当にびっくりしちゃったもん」

 ママがアイスを食べ終えて、アイスの棒を取り出した袋の中にとりあえず入れておく。

 それから、ママが斜め上の方を見て「うーん」と唸りながら、思い出すように言った。

「たしか亜久愛が小さい頃『私、水族館で働く』とか言っていて、大洋くんもその時、『獣医さんになりたい』って言っていたと思うけど?」

 全然、覚えていないわ。

 私が水族館で働くって言っていたのは、なんとなく覚えているけれど。

 大洋くん、そんなこと言っていたかな……。

 でも、なんで水族館?

「どうして私、水族館で働きたいって思ったのかな?」

 私がそう呟いて「うーん」と思い出せない昔を思い出そうとしていると、ママがクスッと笑いながら言う。

「亜久愛、覚えていないの? そっかー、子どもの頃だから仕方ないかもね。水族館のイルカの名前が『アクア』でね、その子に会いに行くんだ、とか言っていたの。水族館のスタッフさんに『亜久愛もアクアなの!』って言っていたのよー」

 イルカの「アクア」って、全然覚えていない。

 でも、そっか、水族館か……。

「今日ね、部活でね、進路どうするかって話を親にされたって、みんなで話していてね。でも、進路のことどうやって考えればいいのかなって話になったの。みんなで分かんないねって。でも、大洋くんだけは獣医学部に行くって言ったの」

 私は、今日のだべりばトークの内容を話しているうちに、だんだんと落ち込んできちゃった。

 だって、私は自分の将来のことを全然考えられていないのに、大洋くんは考えていたんだもん。

 だから、話せば話すほど、私の声のトーンがどんどん小さくなっていった。

 ママは、そんな私に対してにっこりと笑って答えた。

「うじうじと悩むより行動した方が早いわよ。将来どんなふうになりたいか、分からないなら、まずはちょっとでも気になる仕事について調べてみればいいんじゃない? インターネットでも簡単に探せるんだし、最近は中高生向けにも職業紹介ページとかあるんでしょう? それにたしか、いろんな仕事の体験実習とかあるって、前にテレビでやっていたわよ」

 ママは明るい口調で私に言う。

 だけど、私は自分が何に興味を持っているのかが分からない。

 緑ちゃんのように絵を上手く描けるわけじゃない。

 あの雅ちゃんだって、料理がとても上手。

 私は、雅ちゃんが作る美味しいお菓子のように、何かを作ることができない。

 私は、漫画やアニメが好きだけど、本当にそれだけなの。

「でも、ママ。私、本当に何に興味あるのか、分かんないの。漫画やアニメが好きっていうのはあるけど、それだけだもん」

 私はそう言って下を向いてしまった。

 リビングの床しか見えなくなっていた。

 すると、ママが私の傍にそっと寄ってきて、私の耳にふうっと息を吹きかけてきた。

 私は思わず「にゃーーーー!」って叫んでしまったの。

 驚いた私がママを見ると、ママは笑いを堪えている。

 そんなママが、コホンとわざとらしく咳を一回してから言った。

「何に興味があるかなんて、みんな最初は分からないわよ! とりあえず、取り組んでみて『合わないな』と思ったら、たぶん興味が無いんだろうな、くらいの気持ちで考えればいいのよ! 調べたり参加したりしてから考えればいいのよ。難しく考える必要は全くないのよ!」

 さっきのふざけたママからは想像できないくらいの良いアドバイスだった。

 なんか明るいママらしいや。

「そうなのかな」

「そういうものよ!」

 ママに遊ばれたのはちょっと悔しい。

 けど、ママが言ったことは、落ち込む私の心を明るく浮上させた。

 そっか、とりあえず、やってみればいいのか。

「ママ、私、小さい頃、水族館で働きたいって言ってたんだよね?」

「そうよー、本当にあの時はしつこいくらいに言っていたわよ。そういえば、水族館の体験実習とかあるんじゃない? 調べてみて、高校生を受け入れそうなところがあったら、参加してみたらいいんじゃない?」

 ママが、私の考えていることに対して、背中を押してくれる。

「うん! 私、探してみる!」

「さ! そうと決めたら、悩める若人(わこうど)はさっさと行動しなさーい!」

 ママはそう言って、私のおでこを人差し指でツンとつついた。

「そうだ! ママ、さっきの耳のやつ、パパに言いつけちゃうから! 『ママにいじめられた~!』って」

「あれは女神の祝福よ。娘よ! 大志を抱け!」

「もう、ママ、何言ってるのよぉ」

 私たちは、顔を見合わせて、笑い合っていた。

 私は、腕を上げて大きく背伸びをして、ソファから勢いよく立った。

 さっきまで落ち込んでいたのに、今はなんとなくワクワクし始めている。

「ママ! 私、ご飯できるまで、いといろと調べてみるね!」

「ご飯ができたら、いつものように呼んであげるわよ」

 そう言って、ママは、右手でグーを作って親指を上に向かせて「頑張れ!」と応援の合図を出してくれた。

 私も、グッドボタンと同じように右手を出して「ありがと!」とサインを出す。

 私は、「メリーさんのひつじ」を鼻歌で歌いながら、自分の部屋に向かった。

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