犬神様は罪人の告白を聞く

「結局、なんも成果を出せんかった…………!」


 カンパニー、感染者達が忙しなく生き足掻く、その会社の入り口で孤狼は頭を抱えていた。

 Moのためパーツを探しに行ったのはいいが、パーツも見つからず、カンパニーの助けとなる一手もないまま、すごすごと帰ってきてしまったからだ。

 カンパニー付近のゾンビは掃除していたとはいえ、無断で勝手に飛び出したことを叱られるのではと孤狼はビクビクしているのだ。

 孤狼は神であるが、カンパニーの中の地位は夕の部下ということになっている。

 郷に入れば従えとということで孤狼はカンパニー内ではあまり神としての顔を出しはしなかったのだ。

 だから叱られる、普通にそれはもう普通に。

 それを恐れて犬神はショッピングセンターを改造したその建物の真ん前でウロウロと足踏みをしていた。

 小心者と笑ってはいけない、神とて怖いものは怖いのだ。


「あ!孤狼ようやく帰ってきた」


「ひゃわ!」


 そんなものだから孤狼はいきなり背後から声をかけられてまるで猫のように飛び上がり、身構えた。

 今に始まったことではないが、もはや神の威厳など微塵もない。

 背後から彼女に声をかけた夕は、そんな犬耳少女を呆れたように見ていた。

 その足元には二股の尻尾をもった猫、禄太が同じように呆れた目をして孤狼を見ている。


「どこほっつき歩いていたんだお前は」


「い、いやのぉ…………ちょっとそこら辺を……散歩に」


 そこら辺を歩いていて経過する時間ではとうにないのだがそこはご愛嬌だろう。

 それが分かっているのか禄太は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

 孤狼の素性を知るカンパニーで数少ない人物?ではあるが、神を知らぬ世代のためか神への敬意はそこには見えなかった。


「お前を探してたんだよー。早くー来い」


「儂を?」


 禄太は孤狼を素通りし、カンパニーの中へと入っていく。

 尻尾だけが入り口から顔を出し、付いて来いと揺れた。


「帰ってきてくれてよかったよ。社長が大変なんだ」


「社長が……?むぅ?」


 それは自分が必要な事態なのだろうか?

 そんなことを疑問に思いつつ、とりあえず自分が叱られる空気でないことに孤狼は安堵し、尻尾を揺らした。

 怒られないのであればなんでもいい。

 なんとも現金な神である。




……………………………




…………………




……




「いらないよ、そんなものはもう必要ないんだ」


「社長、そんなこと仰らないでください……」


 孤狼が初めてカンパニーに訪れた時、禄太と面会した部屋。

 そこに社長はいた。

 資料でいっぱいの部屋の様子はあの時と少し様変わりしており、多くの人間が詰め寄っている。

 彼らが持ち込んだのだろうか?部屋には見慣れない箱が積んであった。

 箱から漂う古い香りから、孤狼はその中身が除草剤であることに気がついた。

 よく見ると社員が社長に押し付けているのもまた、例の薬だった。


「なんだなんだー。勝手に集まって。散れ散れ」


 副社長である禄太が毛を逆立てて威嚇をすると、社員たちはすごすごと部屋から出ていく。

 しかし、箱に入った薬は置いて行ったままだ。

 なるほど、それで箱が積んであるのかと孤狼は横目で社員を見送った。

 なんだか薬臭くて顔を顰める孤狼、ちょっと部屋の匂いが変わってる。


「あんまり、入れんなよ南」


「皆言っても聞かなくてねぇ」


 カンパニーの社長である南は根に貫かれた身体を愉快そうに震わせる。

 身体に生えた苗は初めて会ったその時よりもさらに成長しているように見えた。

 それでも彼は笑う。

 それは緑繁教の人間のような種子を受け入れた無邪気な笑みではなく、人を気遣う老齢の者の笑みだった。


「ほれ、連れてきてやったぞ」


 孤狼を認めると、その笑みはさらに深いものとなった。

 なんだか懐かしい感覚に、孤狼の尻尾がぴくり、と揺れる。

 見たことのある表情だった。

 何度も、何度も見てきた顔。


「おお、孤狼様……」


「死ぬにはまだ早いんじゃないかの、ご老体?」


 南が何か言う前に孤狼は言葉の牽制を放った。

 少し見ただけで、状況は明白だった。

 除草剤はカンパニーにおいて絶対的価値であり、生命そのものだ。

 それがまるで安売りのように積まれている、彼を慕う者たちによって。

 それをやんわりと拒む微笑み。

 初めて見た時から彼は常に死の匂いを放っていた。

 だがあの時と違い、今老人はその死にすら微笑みかけているように見える。

 詰まるところ彼は死を迎え入れたのだろう。


「沢山の感染者たちがここで救われてきた。それを放り出すのはちと無責任じゃないかの」


 カンパニーは多くの人間を抱えてきた。

 仕事を与え、命である除草剤を配った。

 全てこの老人と猫又の始めたことだ。

 除草剤の入手経路を持った彼だけが始められたことなのだ。

 孤狼の言葉に微笑みが陰る、ため息がこぼれ落ちた。


「少し、2人で話がしたい」


「えー僕もダメなの?」


 禄太が南の足に尻尾を絡ませる。

 しかし優しい手がそれをそっと払う。

 しわがれた顔を不満げに見上げる猫又、老人は頑なだった。


「ほら副社長行きますよ」


 夕に抱えられて連れて行かれる禄太。

 名残惜しそうな鳴き声が尾を引く。

 そういう所を見るとなんだか普通の飼い猫っぽいのかもしれない。


「………………」


 なんとも言えない優しい顔で部屋を退出する1人と1匹を見送る2人。

 副社長の威厳とやらはまだ身についていなそうだ。


「今朝……社員がまた木になった」


 話出しにしては物騒な一言だった。

 この汚染された世界ではありふれた、しかし慣れてはいけない日常。


「こんな老ぼれではなく、彼にこそ必要だったはずだ」


 しわがれた指が箱の中の薬を取り出す。

 鼻につく土臭い香り、微かな……古い匂い、旧友の香り。


「だからもういらないと?」


「長く面倒を見ていると情が湧く」


 カツカツと薬を指で叩く。

 その目に浮かんでいるのは微かな憎しみ。

 この薬が完璧なものであれば、きっと苦しみはなかった。

 だが薬はただ苦しみを伸ばすだけで、病を治さない。


「私よりずっと長く生きている神なら、この感情も理解できるのでは?」


 守れずこの手からこぼれ落ちていく命。

 だというのに増えていく信頼と責任。

 それを背負ったまま歩き続ける、その苦痛が老人のシワを深くしていた。


「それでも儂は生きている」


 それが答えだった。

 それが強さだった、犬神の。

 犬神は多くのものを背負っても気にせず、ただひたすら突き進む。

 だがそれをあっけらかんと言ってしまうのも孤狼の悪い所だった。

 それで白楊に失望されたというのに。

 理解を求める相手に無邪気に現実を叩きつけるのは孤狼独特のコミュニケーションだ。

 そしてそれこそが神の中でも特に幼い精神構造をしていると言われる所以であり、狐神からデリカシーがないと苦言を呈された犬神の短所だった。

 南はそれに面食らったように目を開いたが、その老齢さゆえ笑ってそれを許した。


「強いのですね。あなたは」


「そうとも。儂はめちゃんこ強いぞ!」


 ドヤれる隙あれば遠慮なく胸を張ってドヤ顔をするのも、もはや愛嬌だろう。

 生と死の重たい話を始めようというのに、老人の眼に浮かぶ険しさは解れていた。

 自分よりも遥かに長寿であるのにそれを全く感じさせない神、それはいいことなのか、悪いことなのか。


「強いあなたに私の背負ったものを少し預けてもいいでしょうか」


「少しとは言わず全部でいいんじゃぞ」


 孤狼は南の顔を正面から覗き込む。

 神性が犬神の身体から漏れ出る。

 騒がしかったカンパニーの音が遠ざかっていく。


「それがお主の遺言でないならな」


 南の目は残された者を託す孤狼にとっては見慣れた目だった。

 神として何度も見てきた顔つき。

 だからこそ真剣に応える。


「カンパニーの長よ、何を迷い死にゆく?」


 犬耳少女の身体が震え、白い毛に覆われていく。

 四つの足が床を踏み締め、巨体が部屋に広がる。

 まだ傷の癒えぬ巨大な化け犬が南を見下ろす。

 神を求められたから、久方ぶりに神として孤狼は人の前に立った。


「本当は感染者などいくら死んでもよいのですよ」


 一口で自身の頭を噛みちぎれそうな顎門を前にして、南は臆することなく、どこか懐かしそうにしていた。

 それはかつての鳥神を知る者故か。


「消耗品に情が湧いたから迷っていると、そう言ったらあなたは怒りますか神よ」


 何かが吹っ切れたような表情。

 肩の荷を下ろしたようなそんな顔で彼は人間を消耗品と称した。

 それはカンパニーの長としても、感染者としても、不適切な発言でしかない。

 だが化け犬の大きな眼はただ静かに見下ろした。

 そこに怒りの感情は、ない。


「無理に悪人になる必要はないと思うがのぅ」


「悪人ですよ私は」


 乾いたように笑う声。

 そこには疲労と諦観と……後悔ばかりが込められていた。


「今の人類には2種類の人間がいます。種子から守られた非感染者。そして種子に汚染された感染者」


 南は前者で孤狼を指差し、後者で自身を指差した。

 孤狼は人という枠組みからはズレるのだが、まぁ非感染という意味では正しいのだろう。


「しかし汚染が始まった当初そんな枠組みは存在しませんでした、感染者も非感染者も共に生きる道を模索していました」


 壁に囲まれて暮らす人々と汚染地区で物資を運搬する人々。

 その格差社会はいつから生まれたのか。

 眠りについていた神にとっては知り得ない話だった。


「その2つを区別したのは私なのです」


 自身を指差したまま彼は続ける。


「私たち人類種存続機構がこの国での人類の在り方を決めました」


「ほぉ……」


 興味深そうに大きな瞳が細められる。

 かつて集落を訪れた際に感じた歪。

 その大元がこんなところに転がっているとは思いもしなかった。

 人類種存続機構、聞いたことのない組織だ。

 だが聞いたことなどなくて当然かもしれない、孤狼の知るかつての人類という種は存続を危ぶまれてなどいなかったのだから。

 きっとそれは戦争の悲劇が生み出した人間の足掻きなのだろう。


「カンパニーは感染者のための会社などではありません。非感染者を外の脅威から匿うために作られた存在なのです」


 汚染を避け壁の中で籠っていれば、やがて物資は枯渇する。

 感染者は薬を、非感染者は物資を、お互いの需要に沿った正当な取引、そういう仕組みだったはずだ。

 だがその成り立ちが非感染者を守るためだったとすると……その正当性は怪しくなる。


「汚染の根源である動く死体も、戦火の残した強化人間達の成れ果ても、全て感染者達に押し付ける。そういうシステムを構築したのです」


「そんなに上手くいくものかの」


 感染者の寿命は健全な人間より遥かに短い。

 普通に考えれば感染者は皆死に、物資が滞るように思えるが……


「急拵えの壁などで汚染を防げると思いますか?あの完璧だった大都市シェルターですら防げなかったというのに」


「ふーむ……確かに」


「感染は防げない。そうして壁の外へと追い出された新しい感染者を各地のカンパニーが受け入れる。そうやってこの世界は動いているのです」


「じゃがそれでは…………人は減るばかりじゃ」


 そのシステムが運用を続けられると言っても、感染者は増え続け、死は募っていく。

 人類種の存続とは程遠い、欠陥システムだ。

 人類の絶対数という欠陥を抱えたどうしようもない壊れた歯車。

 そんなものは、緩やかな絶滅と同義だ。


「ええ、これはただの時間稼ぎでしかない。完全なワクチンを作り出すための」


「薬!今も作っておるのか!?」


 化け犬が前に乗り出す。

 猫神は言った、兎神を探せと。

 そしてこの不完全な薬こそがその手がかりなのだと。

 薬を研究しているその場所こそ、この時代の兎神の住処かもしれないのだ。


「研究は、今も続いています。しかし……私はもう疲れてしまった。死にゆく感染者達を管理するのも、出来もしない薬を待つのも」


 老いと、感染が老いた男を押し潰そうとしていた。

 薬さえ完成すれば全てが救われる、そう信じて続けてきたのだろう。

 感染者達よりも多くの薬を手にその命を長らえさせてきた。

 それももう限界なのかもしれなかった。


「あなたが初めて現れた時、やっと神が私を罰しに来てくれたのだと思いました。私の最後に神がお見えになったと」


「あー…………」


「ですがあなたは何も知らず、無垢なだけだった」


 神の不在も、神の力を持った強化人間のことも、孤狼はこの老人から知った。孤狼はこの終わりつつある世界を知って人を助けるため顕現した神なのではない。ただ不貞腐れて寝ていた犬がかつての繋がりを辿ってこの場所にたどり着いたに過ぎない。彼の罪など、知りようもないのだ。


「私は、あの時から死に場所を失ってしまった」


「それは、なんとまぁ……すまんのぉ」


 だからあの時彼は看取りに来たのかと聞いたのだと、孤狼は今更になって理解した。彼はようやく終えられると思ったのだ。だがとうのその神は無邪気に世界の現状を質問するだけだった。


「お主の嘆きは理解できる。じゃが、死ねば全て解決するとでも?儂はそうは思わんがの」


「………………」


「この世界を作ったというのなら、それを作り直すこともまたお主の可能性じゃ」


 非感染者のための世界を作った。それを後悔するのならばまた新しい理を作ればいい。感染の是非を問わない人と人との世界を。


「老ぼれた私にはそんな力も権力も、残ってはいませんよ」


 そんなことは分かっているのだ。

 感染者となり、この地のカンパニーを運営する身となった彼にそんな権力は残っていないことは。


「できるかどうかじゃなく、やる気があるかどうかじゃな。少なくとも木になるよりかは役に立ちそうじゃな」


 化け犬が南の頭をその大きな舌でもって舐めた。その湿った感触にカンパニーの長は顔を顰める。親愛のつもりなのに心外だなと孤狼は鼻を鳴らす。その鼻息で南の髪が靡く。サイズ感が違いすぎるのだ。


「生きてる限りどのみち死ぬんじゃ。もう少し足掻いてみればよい」


「…………」


 南は分かったような、そうでないような微妙な顔をしていた。

 あまり響いていないのかもしれない。

 何百年生きている神が、生きてれば死ぬと言ったところで説得力が薄いのかもしれない。

 鳥神がここにいればよかったのに。

 南と縁があるあのやかましい神ならば彼の心を動かせたのかもしれない。


「すぐに結論は出さんでもよい。また明日考えを聞かせとくれ」


 仕方がないので孤狼は間を置くことにした。

 時間が経てば、言葉が届くかもしれない。

 人類種存続機構…………孤狼は彼らに思いを馳せる。

 孤狼の知らない人類生存の道を模索する者たち。

 神はもう去った。

 人と協力して終末を乗り越えなければいけない孤狼にとってそれは新たな協力者なりうるかも知れない存在だった。

 もっとも、感染者を切り捨てるその非情さは考えものであったが。




……………………………




…………………




……




 雨粒が地面を打つ音が聞こえる。

 かなり大きな音だ。

 今日は雨か。孤狼は丸くなりながらそんなことを考えた。

 雨は好きじゃない、毛の間に水滴が溜まるのが不快なのだ。

 今日は社長に昨日の答えを聞きたいし、神としてカンパニーの一員として課題は山積みなのだから、やることは沢山ある。

 でも……雨だし、もう少し寝ててもいいかなぁ。

 睡魔に身をまかせ布団にくるまる。


「…………?」


 なんだか不快だ。

 布団が重し冷たい、いつもはふかふかしていて暖かいのに。

 まるで濡れているみたいに…………

 目を開けると自分の顔に水滴が滴った。


「あぇ?」


 断じて孤狼は野宿などしていた訳ではない。

 ここはカンパニーの一室で室内だ、水なんて滴る訳が……


「冷たい!」


 そう考えた矢先に、なんて滴もの水滴が孤狼の顔に降り注いだ。

 布団もなんだか重たいと思ったらぐっしょりと濡れている。


「な、んで雨漏りしとるんじゃぁ!」


 孤狼は不快な布団から飛び出すと、しきりに身体を震わせ水滴を撒き散らした。

 室内だというのにそこはびしょ濡れだ。

 窓の外を見るまるで滝かと見紛うばかりの大量の水が降り注いでいた。


「なんじゃぁこれ!?」


 悠久の時を生きた孤狼ですら初めて見る勢いの豪雨。

 まさに異常気象だった。


「夕、夕!見ろ、すごい雨じゃぞう!」


 あまりの異常事態に孤狼はかえって楽しくなり、尻尾を八切ればかりに振り友人を探す。

 部屋を出るとカンパニーの中はまさに阿鼻叫喚だった。

 当然だ、カンパニーには集落に届けるための物資が山ほどある。

 それらが濡れてしまえば台無しだ。

 これほどの勢いの豪雨だ、もしかしたら下の階は浸水しているのかもしれない。

 なんにせよ早急に対応すべき事案だった。


「孤狼!こんなとこにいたか」


「禄太、すごい雨じゃのー」


「様つけろー、副社長だぞ」


 猫又の禄太がするりと孤狼の足元に歩み寄る。

 能天気な孤狼とは違い、猫又は焦ったように毛を逆立てていた。


「神だろ、なんとかしてくれー。暴風で建物がギシギシいってる!」


「いや、そんな儂を何でも屋みたいに言ってものぉ。儂刀振ることしかできんし、こういうのは他の神のお役目というか……ほら、牛神とか………………ん?」


 そこまで言って、孤狼ははたと立ち止まった。

 自分はなんと言った、牛神?

 確かにこんな豪雨は見たことがなかった、自然界では。

 人為的なものであるならば、かつて見たことがある。

 かつての仲間である水神の御技を……

 孤狼は窓に突進するとそれを開け放った。


「どぅえ!なんでぇー?!!」


 外から入り込んできた大量の水と風によって哀れな猫又が悲鳴と共に吹き飛んでいく。

 孤狼はそんな些事は気にも止めず外へと飛び降りる。

 あっという間にずぶ濡れになる身体。

 身体に張り付く髪を拭いながらカンパニーの外へと足を向ける。

 そうやって走り出して数十歩というところで…………

 雨が止んだ。

 ずぶ濡れの身体を犬のように震わして水滴を飛ばす孤狼。

 その頭上には太陽が照っていた。

 振り向くと一歩先は豪雨。

 妙な黒い雲が、カンパニーの頭上だけを覆っていた。

 そして雨の中に漂う、どうしようもなく懐かしい古い香り。

 孤狼は手近な高層ビルの壁を駆け上がる。

 空を目指して。

 たどり着いた屋上、そこからは見ることができた。

 雲の近くに浮く、懐かしい姿を。


「こらぁーっっ!!睡蓮!なにしとるかあ!!そこは儂の寝床じゃぞ!」


 空中で胡坐をかいて浮いていた男が、孤狼の声に反応する。

 その頭には立派な牛の角が生えていた。


「おや、これは仰天。孤狼ではありませんか、貴方死んだのでは?」


「死んどらんわ!なんでどいつもこいつも再開するなり人を死人呼ばわりするんじゃ!?」


 いきなり死人扱いされて、孤狼は地団駄を踏む。

 そんな犬神の様子を牛神睡蓮はのほほんと見下ろしていた。

 その姿は孤狼の記憶と違いはなく、相も変わらずマイペースのようだった。


「ともかく、その雨を降らすのを止めんか。このままだと人が住めんくなるわ」


「そうするのが目的なのですが」


「なぬ?」


「おや、ご存知でない?」


 睡蓮はゆったりと首を傾げる。

 その顔は冗談など言っていなかった。


「もしかして、貴方は変わらず人類の守護者を気取っているのですか?」


「……………………」


 睡蓮の問いに、孤狼は…………静かに宝剣を抜いた。

 いつからだったのだろうか。

 猫神の話を聞いてからだろうか。

 それとも神の力を持った兵器の存在を知ってからか。

 もしくは神に見捨てられた人類を憂いた時からか。

 それがいつからだったか忘れた。

 だがその疑いは孤狼の内に毒のように広がっていった。

 猫神の話は神々が人類を見捨てたことを示唆していた。

 それは本当なのだろうか?

 もしかしたら真実はもっと残酷なんじゃないか?

 神々はむしろ…………


「人類の抹殺、それが主神の命なので。ご容赦いただきたいですね」




 




「そうか、じゃぁ儂の敵じゃな」


 孤狼の宝剣が空に向かって突き立てられる。

 かつての仲間に向かって犬神は弓を引いた。

 そこに後悔はあっても、躊躇いなど微塵もない。


「貴方のそういうところ、本当に尊敬しますよ」


 牛神は静かに微笑んだ。

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