犬神様と腐った果実

 森の中を歩く。

 雨の降り頻る中、黙々と歩く。

 深い水溜まりを踏み、水飛沫が衣服にかかっても、犬神は気にも留めない。

 ただ目的地を目指して彼女は歩みを進めていた。

 彼女が目指すのは森奥深くにある大樹。

 かつてそこには神の寵愛を受けた人々の村があった。

 だが今は過去の痕跡を飲み込むように大樹がそびえ立っているだけ。

 その根元に座っている白い人影こそ、孤狼の探し人だ。


「白楊、お主まーたこんな所におったか」


 孤狼の言葉にその人物は顔を上げた。

 真っ白な束帯を身に纏った男の頭には立派な鹿の角が生えている。

 その立派な角からは若葉が芽吹き、それがただの鹿の角ではないことを主張していた。

 孤狼を見つめるその瞳孔もまた、横に長く人とはかけ離れている。

 人と鹿とが混ざったその瞳が犬神の姿を捉えた。

 鹿神。

 人神に仕える12匹の獣のうちの1匹であり、孤狼の友人だった。


「せっかく皆で集まっておったのに、来んかったじゃろ。皆心配しとったぞ」


「そうか、それはすまなかったね」


 犬神の姿を認めた鹿神は立ち上がる、服に隠れて分かりづらいが……その四肢は木でできていた。

 それは人間の手足のような柔軟性を持たず、動きたびに鈍く軋んだ音を立てた。

 猿神とのかつて戦いにより失った四肢を彼はその神性でもって補っている。

 森神とも呼ばれ木々に愛される友人。

 まるで本物の手足のように木々は蠢き、彼の失った肉体の代わりを務めていた。

 

「よく、私がここにいると分かったね」


「なーにを言っとる、隙あらばここにおるじゃろうお主」


 頬を膨らます孤狼に対して白楊はとぼけたように肩をすくめた。

 孤狼の目線が逸れ、白楊の背後を見つめる。

 生い茂る植物に紛れて木の根元に小さな石が2つ。

 ここにいる時、白楊はいつもこの無機物を見つめていた。

 最初はこの石がなんなのか孤狼には分からなかった。

 なぜこの石を見つめる白楊の目がこんなに悲しげなのか、知る由もなかった。

 蛇神から話を聞いた今なら分かる。

 これは墓石だ。

 彼の妻と子供の。

 孤狼は頬に溜めた空気を吐き出す。

 あの日から白楊が孤狼たちの集まりに顔を出すことはほとんどなくなった。

 いつも寂しい目をしながら、この石の前で立ち尽くすばかり。

 孤狼には彼の心境を想像することしかできない。

 人を愛することはあっても……番をつくり、子を成したことなどない。

 孤狼の抱く愛と彼の愛は違う。

 犬神は両親に囲まれて野山で駆け回っていた仔犬の頃と変わらず、無垢なままだった。


「結局あの子……詠都は私たちとは違った」


「……何がじゃ?」


「何がって?…………全てが」


 雨が墓石を叩く。

 白楊は濡れるのも構わず、ただそれをじっと見つめていた。


『人間だったよ。僕の調べた限り、彼女に神性は感じられなかった』


 蛇神の言葉が、孤狼の脳裏を掠める。

 違ったのだろう、全てが。

 悠久の時を生きず、神性も持たず、弱く、すぐ死ぬ、愛おしい…………人間だったのだろう。


「神性は一代限り、子孫を残せないなんて……不条理な生き物だね。どうして生まれたんだろうか……私たちは……」


「蛇神みたいなことを言うの。そんなの、神として人間を導くために決まっておろうが」


 人神が、獣たちを集めた。

 力を与えられ、その力の意味を教えてもらった。

 みんな、人の神と同じ夢を見た、神と人間の理想の世界を。

 だから彼女の下についたのだ。


「違う、それは与えられたものだ。人神がいなくても、私たちは生まれていた。悠久の時を生きる異端として。なぜ、私たちは他と違う。なぜ、何が、私たちを産んだ?」


「難しいこと聞くのぉ……」


「私は生まれた理由を問うているだけだ。君はどう思う?」


 その問いに孤狼は答えられない。

 彼女は喉を唸らせ、首を傾けるしかなかった。

 なぜ生まれたか、そんなこと考えたこともなかったから。

 そういう難しいことを考えるのはいつも蛇神で、彼が小難しいことを話し出すと犬神と鳥神は逃げ出すのが常だった。

 それを笑う狐神、兎神、そして鹿神。

 孤狼は鳥神とおどけて歌でも歌っていればよかった。

 それで皆が笑ってくれたから。


「儂は…………儂はそんなものなくても生きてる。儂は理由がないと生きていけないほど弱くもないし、生に絶望もしとらん」


 違う。

 お主と儂は。

 お主の気持ちなど想像することしかできない。

 そんな拒絶ともとられかねない言葉を、孤狼は吐く。

 だがそれは孤狼のどうしようもない本音だった。

 生に疑問を持ったことなどない。

 孤狼はきっと幸せな獣なのだろう。


「そうか…………そうだね、君はそういうやつだった」


 失望したような、どこか諦観に似たため息が吐き出される。

 友人の悲しみに寄り添えないもどかしさに孤狼は身じろぎした。

 大切なものを失った。

 孤狼の人生にそんな悲しみが影を落したことは度々あった。

 悠久の時を生きれば、みな自分よりも先にいく。

 でもそんな影も、孤狼の生に疑問を抱かせることはなかった。

 生きることに疑問を抱き、死を望んだことなどない。

 そんなことは神のすることではない。


「随分と、人らしい考え方をする」


「そうだね、私は…………人に近づきすぎたのかもしれない」


 雨粒が鹿神に当たり、その角に生えた若葉を散らす。

 鹿のようなその瞳孔は犬神など見ていなかった。


「あぁ…………会いたいな。どこにいるんだろう」


 お前の踏みしめる地面に埋まっているよ。

 などと、心ないことを言うわけにもいかず、ただ立ち尽くす。

 何も言わず寄り添うことしかできない。

 孤狼はただ友にまた元気になって欲しいだけなのだ。

 昔のように仲間で集まって、笑いたいだけ。

 なのに、彼はもう笑わない。

 あの日から、何かが変わってしまった。




……………………………




…………………




……




「見てください、自然が過去を飲み込んでいる」


 緑の衣を纏った男が大仰な身振りで背後を差し示す。

 彼の見つめる先では人間の築き上げた文明の痕跡、煙を吐き出すことをやめた工場のなれ果てが木々に侵食され、静かに朽ちていた。

 もうそこに人はいない。

 人を養分とするあの忌々しい木々が青々と手を広げ生い茂っているばかり。

 もうそこに文明はない。

 その事実を嬉々として受け入れる男はどこか奇妙だった。

 工場地帯で出会ったその男は愉快そうに笑うだけ。

 その背中に生える感染者の証さえも、彼の笑顔を曇らせることはなかった。

 それは、目覚めて以来久々に見た人間の純粋な笑顔だった。

 種子に感染しながらも生きるカンパニーの人間、高い防壁に囲まれて生きる都市の人間、その誰もが大地に蔓延る汚染に怯えながら生きている。

 笑っていても、その笑顔には隠しきれない影が纏わりついていた。

 だが、目の前の男にはそれがない。

 それを奇妙だと思えるだけの時間、孤狼はこの荒廃した世界を生きてきた。


「妙なやつじゃな」


 緑繁の神に会わせる、そう言って男は孤狼の手を引いた。

 なんでもその導きに従えば楽園に行けるだとか。

 緑繁の神、そんな神は聞いたことがない。

 緑繁というと森を司る鹿神の姿が思い浮かぶが……彼にそんな呼び名はあっただろうか?

 そもそも、この時代の人間は神などとうに忘れていた思っていた。

 荒れた地面を器用にスキップする男の後に続きながら孤狼は首を捻る。

 揺れる耳、数秒考えてから彼女は首を振った。


「まぁ、いいかの」


 その目に浮かぶのは、単純な好奇心。

 犬神の楽観癖は相変わらずだった。

 工場地帯でジャンク屋を探す、そんな当初の目的など忘れ、犬神は緑の男に付いていったのだった。




…………………




「おや」


 それからどれほど歩いただろうか。

 工場地帯の煙突が小さくなったころ、孤狼は前方に人の営みを見つけた。

 集落……なのだろうか。

 前見たものとは違う、あまりにも開放的すぎる。

 そこにあったのは奇妙な文字が綴られた緑の旗だけ。

 外と内とを遮る壁がなかった。

 目覚める前の人々と同じように外界との接触を気にすることなく作られた人間の集合住宅。

 それは広場を囲むように円形に作られていた。

 広場に置かれたいくつもの長机、それを囲んで人々が何か食べている。


「みんな、救われていない人を見つけたんだ」


 男はそう言って人々の輪の中に入っていく。

 そうすると彼らは笑顔で男を迎え入れる。

 口々に労いの言葉がかけられていく。

 その笑顔は、である孤狼にも向けられた。


「新人は大歓迎さ、ちょうど今恵みをいただいていたところだ」


「君もどうだい?」


「さぁさぁ、ここに座って」


 孤狼は眉をひそめた。

 性別も年齢もバラバラな人々、共通しているのは緑の衣服と笑顔そして…………身体から生えた木の苗。

 全員感染者だった。

 だというのに彼らはそれを隠そうともせず、まるでアクセサリーか何かのように装飾し、誇らしげに飾り立てている。

 机の上には無造作に積まれてた果物。

 口から果汁を滴らせながらそれを齧る緑の人間たち。

 なんだか異様な光景だった。


「……なんじゃこれ?」


 勧められるまま椅子に座り、果実を手に取る。

 馴染みのない果物だった。

 桃のような、林檎のような…………浅黄色の果実。

 何百年と生きてきたが、これは見たことがない。


「緑繁の神の恵ですよ」


 孤狼の前に座る女がそれを美味そうに頬張りながら言う。

 この荒廃した大地において新鮮な果実は貴重だ、確かに恵みと言えなくもないだろう。

 だが見慣れぬこの景色が孤狼を怖気付かせた。

 皆食べているのだから問題ないのだろうが……孤狼は犬らしく鼻をひくつかせ匂いを嗅ぐ。

 独特な油のような香り。

 美味そうに齧り付いているわりに甘い匂いはしない。


「うー…………」

 

 おずおず、恐る恐る孤狼はそれを口に運んだ。

 齧ると果汁が溢れ出した、だが…………

 あまり美味しくない。

 それは甘さより苦味と酸味が勝っていた。

 周りをこっそり見渡しても、皆笑顔でそれを口に運んでいる。

 孤狼をここに連れてきた男も同様だ。

 ご馳走してもらって文句を言うのも悪いので、孤狼はしょぼしょぼしながらそれを口に詰め込んだ。

 口いっぱいの野趣溢れる味に孤狼はふと思い出す。


「これ前にも食べたのぉ」


「おや、どこで?」


「南の方だったか、山の向こうじゃ」


 まだ目覚めたばかり、人間を探して彷徨っていたあの頃だ。

 知らぬ者の家の庭先に生えていた木、そこになっていた果実を食べた。

 萎びていて見た目は違うがこの味、同じ果実に間違いなかった。

 初めてではない、確かにこの果実を口にしたことがあった。


「帰り人でしょう」


「そんなところまで行ったんですね」


「あぁ……立派に巣立ったのだろう」


 孤狼の言葉がさざめきのように人々に伝播していく。

 

 かえりびと……?

 聞き覚えのない言葉に孤狼は首を傾ける。

 そんな孤狼に目の前の女性が微笑む。

 彼女は果汁に濡れた手で食べかけの果実の中から種を取り出した。

 ビー玉ほどの丸々とした黒い種。

 それを恭しく手のひらに乗せた。


「時がくれば私たちは種を持ってここを旅立ちます」


「帰る場所を探して」


「種を植え、自身も大地に根ざすのさ」


「神の恵みを世界に広げるんだ」


 誰もがそれを素晴らしいことのように言う。

 恍惚とした表情を浮かべながら。

 なんだか変な感じだ。


「大地に根ざすって?」


「自然に帰るのさ」


「木になるんだよ」


 孤狼の咀嚼が止まる。

 木になる?

 それは感染して死ぬだけではないのか。

 大地に生える人を貫く木、それは感染者たちの末路だ。

 それを吉報かのように話す、孤狼にはそれが分からない。


「感染して死ぬ。それのどこが救いなんじゃ?」


 大地に帰るなどと言葉を変えているが、結局彼らの救いとは種子に感染し、死ぬことのよう聞こえる。

 それの何が彼らを笑顔にさせるというのだ。

 この恵みとかいう美味くもない果実の種を持って死場所を探し、種子に殺される。

 そのどこに幸福があるのだろう?

 きっと何かの間違いなのかもしれない。

 大地に帰るというのはもっと別の意味があるのかもしれない、そう……孤狼の知らない意味が。

 そうでないと、孤狼には彼らが理解できなかった。


「ええ、素晴らしいことじゃないですか」

 

 だが、孤狼の儚い希望は変わらぬ笑顔によって散らされた。

 彼らは紛れもなくそれを喜びとしていた。


「人間が何をしてきた知っていますか?」


「う?」


 その問いは少なからず孤狼をムッとさせた。

 孤狼は神として長い歳月を人間と寄り添って生きてきた。

 人の歴史は神と共にあった、少なくとも……この島では。

 そんな孤狼に人間を知っているか、など愚問だ。


「戦争、環境汚染……何種類の動物たちが人間によって絶滅させられたか知っていますか」


 だからこそ、その事実は犬神を黙らせた。

 孤狼は見てきた…………動物たち、同じ存在である人間さえも容赦無く屠る人間たちを。

 汚染、破壊……殺戮兵器、そして孤狼の寝てる間戦争は世界さえも壊し、人の世は終焉を迎えつつある。

 それは紛れも無い真実だった。

 孤狼の嫌う人間の負の歴史だった。


「これは罰なんですよ」


「そして救いでもある」


「私たちは木となり、大地を浄化するのです」


「骨となって腐ることのない、永遠の命を手に入れるのです」


「素晴らしいことでしょう」


 まるで経典を読み上げるように、彼らは喜びを声にあげる。

 目眩がした。

 彼らをまるで理解できない。

 感染が救い?では今も感染に抗っているカンパニーの人々はなんなんだ。

 大地を浄化しようが、自分が死ねばなんの意味もないのでは?

 なぜ抗うことをやめる?なぜ死ぬというのにそんなに嬉しそうなんだ。

 死を受け入れる人間を孤狼は理解できない。

 だって……神は死にたいと思ったことなんてないから。

 孤狼は幸せな神だった。

 たくさんの人の死を見てきた。

 たくさんの人が死にゆく中未来を孤狼に託した。

 だが目の前の彼らは違う。

 彼らは歩みを止めていた。

 木に貫かれ、養分となることの何が素晴らしいものか。

 彼らは死を正当化し、それが素晴らしいものだと思い込もうとしている。

 孤狼にはそれが逃避にしか思えなかった。


「そんなに……」


 噛み締めた歯の間から唸るような声が漏れる。


「そんなに死が怖いか?人間」


 孤狼を取り囲む人々の笑顔が固まった。

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