犬神様は呪われている

「孤狼ッ!」


 孤狼は夕の叫び声を聞きながらぼんやりと自身の身体を見下ろしていた。

 彼女の身体に空いた穴は深く、大きい。

 お腹に空いたものなどは身体を貫通し、覗き込めば向こうの景色が見えそうだった。

 随分と手酷く破損させられたものだと、孤狼は他人事のように考えていた。

 孤狼の意識を喪失した肉体は神性を失い、結果としてこのように穴だらけになってしまった。

 肉とはこうも脆い。

 白い軍服を纏った異様なゾンビは依然として銃をこちらに向けている。

 またあの光線を射出するつもりなのだろう。

 自身がいる限り夕たち人間に手出しさせるつもりはないが、このままではいずれこの肉体は動かぬほど破損するだろう。

 反撃の要である宝剣は今は遥か地下の底だ。

 ジリジリとした焦りが孤狼を支配していた。


「まったく、見てられないねぇ……」


「むぅ?」


 緊迫した空気の中その声は唐突に聞こえてきた。

 孤狼と夕たちの背後にある集落への扉、それがなんの前触れもなく開く。

 扉の先にある暗闇、声はそこから聞こえてくる。


「ほら、逃げ道を作ってあげたんだから早く逃げなよ」


 その声は扉の先の暗闇へと孤狼を誘った。

 孤狼たち4人は顔を見合わせる。

 シェルターの内部に感染が蔓延っているのは明らかだ。

 扉の向こうでゾンビの大群が待ち構えている可能性も無視できない。

 だが、かと言ってこのまま目の前の奇妙なゾンビと対峙するのか?

 どちらの危険を選ぶのか。

 迷いを残しつつも、ゾンビの構える白い凶器に警戒しながら孤狼たちは扉の方へと後ずさった。


「あぁ、逃げ出す隙が欲しいのね」


 その声は今度はゾンビの背後から聞こえてきた。

 霧のような不明瞭なシルエットがゾンビの背後、手すりの上に現れる。

 それは確かに猫の形をしていた。

 軍服のゾンビはそれに瞬時に反応し、引き金を引く。

 白い閃光が真っ直ぐ伸びその猫の姿を貫く。

 だが、それはただ霧散しただけだった。


「今じゃ!」


「お、おう……」


 明らかな隙だった。

 あの銃は威力は凄まじいが連射はできない。

 逃げ出す隙は作られた。

 孤狼は負傷した稔を掴むと夕と克哉を押して扉へと駆け込む。

 背後からゾンビが追いかけてくる気配を感じる。

 だが4人が中に入ると同時に、その鉄の扉はゾンビの前で大きな音を立てて閉じた。

 外と同じ白い合金でできた廊下、その床に設置された明かりが孤狼たちを導くように灯っていく。


「先に進むのか?」


「あんな扉1発でお陀仏じゃ、まだ逃げ切れたとは言えん」


 孤狼は稔を担ぎ、明かりの灯る廊下の先を進む。

 この先にはゾンビがいるかもしれない、だが孤狼たちはその可能性より背後に迫る直接的脅威の方を危険とみなした。

 犬神の身体に空いた穴から止めどなく体液が流れ出し、白い床に赤い線を描いていく。

 あのゾンビにとって追跡は容易だろう。


「孤狼、大丈夫か?」


「うむ、問題ない」


 明らかに重症の様子の孤狼だったが、いつもの笑顔で歩いている。

 夕はそんな孤狼を心配そうに見つめながらも足を止めはしなかった。

 夕にはその笑顔が虚勢なのか素なのか分からなかった。

 先を進むごとに、背後の扉が封鎖されていく。

 まるで4人を守るように。

 それと同時に、どこからともなく小さな影が現れ孤狼たちに追従する。


「ね、猫が…………!」


 その小さな影は猫だった。

 様々な品種の猫が孤狼達に付き従うように周りを歩く。

 孤狼はそれを見ると鼻を鳴らした。

 獣臭い香りの中に孤狼にとってなんだか懐かしい匂いがする。

 猫と孤狼たちは長い廊下を抜けると開けた場所に出た。

 清潔なホール、そこには円形に置かれた机と椅子が並んでいる。

 確かな人の営みの痕跡、だがそこに人影はない。

 猫たちだけが我が物顔で机の上で寝そべっていた。

 微かに機械音がするのは、清掃機械の駆動音だろう。

 そこは人のいない猫の楽園だった。


「眠姫か、久しいのぅ」


 孤狼は数多といる猫の中からただ1匹のみを見つめ、声をかけた。

 忘れることなどのない、懐かしい匂いだった。

 嗅ぐだけでこちらまで眠くなる、春の微睡のような緩やかな香り。

 無垢なる白い体に紅の紋様が入った猫は数多の猫と同じようにだらけた様子で寝そべっていた。

 不思議なことに匂いはかつてと同じなれど、そこから神なる神性を感じることはできなかった。

 そのことに孤狼はかすかに眉を潜ませる。

 だがそれもまたすぐに笑顔に戻った。

 

「あれ…………夢だと思ってた、まさか本当に生きてたの……孤狼」


 2匹の神は目を合わせてニッコリ笑った。

 何100年ぶりだろうか、実に悠久の時を超えた再会だった。




……………………………




…………………




……




 猫たちが溢れるホールで孤狼たちは卓を囲んでいた。

 孤狼は呑気そうに持参していたチョコバーを齧り、眠姫はそんな孤狼の頭の上で丸くなっている。

 夕たち人間3人組は若干の困惑を顔に滲ませながらその様子を見つめていた。

 先ほどの逃走劇が嘘みたいなのんびりした空気であった。


「ここは、安全なのか……?」


 稔が失った腕の付け根をさすりながらそう呟く。

 この猫だらけの空間は非現実的であり、何か神聖なものを感じさせた。

 ここならばあのゾンビの脅威を逸らしてくれるのではないか、そう思ったのだろう。


「そんなわけないじゃん」


 だが孤狼の頭の上の猫の姿をした神は無情にもその甘ったれた考えを両断した。

 脅威は全く去っていない、あのゾンビがこちらを追うならばそれを阻む術はないと猫はそう言い放った。

 3人の視線が閉じられたホールの入り口に注がれる。

 その扉が焼き切れてあの白い悪夢が現れる姿を幻視する。


「ま、儂と眠姫がいればどうにかなるじゃろ」


 そんな中孤狼だけがご機嫌に笑っていた。

 彼女の楽観的思考は相変わらずであった。

 これには彼女の頭の上の眠姫もため息を吐いて首を振る。


「あのさぁ……孤狼、今の私を見てなんとも思わないの?」


 彼女は孤狼の頭から飛び降りる。

 空中で、その姿が歪んだ。

 白い毛並みは清潔な布へ。

 白と赤が織り混じった巫女服、ちょうど孤狼の着た巫女服と同じ意匠だ。

 地面に降り立ったその姿はもう猫ではなくなっていた。

 巫女服を纏った眠たげな幼子が夕たちの前に姿を現す。

 孤狼と違いその頭に獣の耳などない、完璧な人化だった。

 そのいきなりの変化に夕たちの目が見開かれる。

 一方孤狼はその姿を見て吹き出した。


「なんかちんまいの〜眠姫、どうしたその姿」


 人の姿をとった猫神の姿は孤狼の腰ほどの背丈しかなかった。

 確かに眠姫は大柄な神というわけではない、だが少なくとも孤狼の記憶にある彼女は子供ではなかった。

 孤狼は面白がってあやすように幼女の頭を撫でたがすぐに振り払われてしまう。

 

「気づいているでしょう。私は君の知るかつての眠姫じゃない。その断片の……残りカスでしかない」


 猫神の言葉に犬神の耳が悲しげに垂れる。

 目の前にいる眠姫、その存在にかつての神性はほとんど感じられない。

 孤狼もそのことには気づいていた。

 だがその懐かしい匂いから孤狼は彼女があの時の仲間である確信していた。

 断片とは……猫神の身に何があったのだろうか。


「ともかく、私はほとんど戦力にならないから」


「そんなことはないぞ。お主がいて頼もしいわ」


「君ねぇ……」


 戦況としては絶望的な宣言、それでも孤狼の笑顔は揺らがなかった。

 かつての仲間と再会できた、孤狼にはそれが単純に嬉しかった。

 2匹が力を合わせればどうにかなると、犬神は信じて疑わない。

 それに対して眠姫はなんだか擦れたようなため息をまた吐き出すしかなかった。


「だいたい、君が本気を出せばこんなことにはなってないだろう?」


「?……儂はいつでも本気じゃが」


「違う」


 のほほんとした孤狼に対して、眠姫は眠たげではあるが厳しい態度だ。

 背伸びからの頭突きが孤狼を襲ったが悲しいかな身長差により届かなかった。


「君ってさぁ……呪われてるの?」


「どういうことじゃ?」


「叩き切ればいいじゃない、敵なんてさぁ」


 呆れを含んだ猫目が孤狼へと向けられる。

 何か言いたげな視線。

 気づけばホールの猫全ての瞳が孤狼へと向けられていた。

 眠姫は懐から扇を取り出すと横に構える。


「武神孤狼、その剣は荒神である猿神の豪剣にも劣らぬ鋭さ。一太刀振るわれれば海が裂け大地が割れる」


 芝居がかったように眠姫は舞い、その扇でもって剣舞を再現した。

 孤狼を讃えているはずなのにその眠たげな瞳には嘲りの感情が見え隠れする。


「感染者の亡者だろうと強化人間の残滓だろうと君が本気になれば全て真っ二つ…………なはずなのに」


 パチンッ、と音を立てて扇が閉じられる。

 猫達の視線の中、辺りが静まりかえる。


「殺生は好かない、それだけの理由で君は敵を傷つけない。君の暴力によって救われる命があるかもしれないのに」


 眠姫は孤狼の胸元に手を伸ばす。


「?…………んひゃっ!くすぐったいのぅ」


 眠姫の小さな手が孤狼の胸元を弄った。

 くすぐったそうに笑う孤狼とは対照に眠姫の唇は真一文字に結ばれている。

 暫くして猫神は目的の物を探り当てた。

 胸元から手が差し抜かれ、犬神の前に掲げられる。


「あ…………」


 孤狼の口がぽかんと開けられる。

 それはとても見覚えのある物だった。

 だがそれは以前のように光もせず、眠姫の手の中で燻った煙を上げる。


「Mo……」


 その姿を見て孤狼と夕のが同時に声を漏らす。

 いつも孤狼の横を喧しく飛び回っていたその機械は、その綺麗な球状を歪ませ内部の機構を晒していた。

 もうやかましく喋ることもない。


「覚悟さえあれば、君の友達も守れる道があったんじゃないかな?それとも……やっぱり君は呪われているのかな」


 孤狼が意識を失っている間の攻防で傷ついてしまったのだろう。

 孤狼は眠姫の掲げるその小さな友人から目を逸らした。

 それはまぎれもなく犬神の選んだ道の代価だった。

 初めから剣を守るためでなく傷つけるために使っていれば結果は変わっていただろう。

 地面に横たわっていたのはあの白いゾンビだったはずだ。


「全てを救うことはできない、たとえ神であったとしても。全ての人間は尊く価値のあるものだなんていう価値観の呪いからはいい加減解放されればいいのに」


「眠姫……お主…………」


 人間を否定するような、そんな言葉が猫神から発せられた。

 かつて人の営みと共にあったその神の発言に孤狼は眉をひそめる。

 昔の彼女であれば言うはずのないその言葉。


「やはり、神々は人間の滅亡に賛同したのか?」


 孤狼の問いは静まりかえったホールの中で嫌に反響した。

 孤狼が薄々感じていた信じたくない過去。

 神々は人類を見棄てた。

 その結果がこの荒廃した世界と、滅びを待つだけの人間たちなのではないだろうか。

 猫神の言葉はそれを疑わせるだけの人間への嫌悪感が含まれていた。


「それ」


 眠姫は孤狼に向かって扇を突き出す。


「君の方が詳しいと思うんだけど、孤狼」


「わ、儂?」


「私は参加しなかった、あの集会に。美琴もそう。私たちはあれ以降神々の責務を放棄した」


欠伸を一つ、眠姫は言い放った。




「人類の存続の是非を決めたのは…………集会に参加した君たちじゃないか」




「……………………」


「……………………」


「う……うん?いや、しとらんが?」


「あれ?」


「………………?」


 神2匹はお互いに顔を見合わせ首を傾けた。

 どうやら2匹の間には決定的な認識の乖離があるようだった。

 しかし孤狼の方も大事な神々の集会をまさか寝過ごしていたなどと告白できる訳もなく、困ったように尻尾を揺らした。

 その告白は紛れもなく孤狼の無能さを露呈することだろう。

 幼女と犬耳少女が首をひねる様子は微笑ましくもあったが、その話の深刻さに反してあまりにも滑稽すぎる。

 夕たち人間はその話を真面目に受けとっていいものか測れず、眉を下げるしかなかった。

 

「それは……どうゆう……」


 いかにもお前は集会に参加しただろう、という口ぶり。

 孤狼はそれに違和感を感じていた。

 まだまだ聞きたいことはたくさんある。

 だが奇妙な重低音が聞こえてきたことにより、その口は閉ざされた。


「あぁ、思ったより時間……なかったねぇ」


 孤狼たちの入ってきた扉から異音が響き渡る。

 孤狼は宝剣を抜こうとして、そこにある空白に舌打ちした。

 宝剣はまだ遥か地下の底に刺さったままだ。


「人間は奥に逃げるといい、あのゾンビは孤狼と私がなんとかするから」


 眠姫が眠たげに指差す先で扉が蒸気を吐き出しながら開く。

 ホールからさらに奥へと続く道だ。


「そりゃありがたい」


 克哉は稔を担ぐと早々に席を立った。

 非情ともとれる判断だがこの場では実に合理的だ。

 彼はカンパニーの人間として生存を選択した。

 死場所を探しているとしても、無駄死にしたい訳じゃない。


「おい」


 担がれた稔の方は鬱陶しそうにため息を吐く。

 その視線はもう1人の仲間を見据えていた。


「夕は残るつもりのようだが」


 稔の指摘の通り、夕は孤狼の隣に立ち銃を構えていた。

 その銃口は、今もなお異音を奏でる扉へと向けられている。

 その銃口に孤狼の手が被さられる。


「ほれ、夕は克哉達と一緒に下がっておれ」


「この作戦には戦闘要員として参加したつもりだが?」


「んなこと知らん、しらーん」


 孤狼は夕の銃を掴むと奥へと引きずり始めた。

 夕は夕で孤狼の尻尾を踏みつけ抵抗する。


「神だがなんだか知らないが、訳の分からないことを言いやがって。お前は私の後輩で怪我人だろうが」


 だから戦闘は私に任せろと、夕は足を踏ん張った。

 いかにその人外ぶりを発揮しようと、訳のわからない神々の話をしようと、あの日から夕にとって孤狼はカンパニーの後輩でしかない。

 彼女はただカンパニーの先輩としての勤めを果たそうとしたかった。

 夕の抵抗で銃はギシギシと軋み、孤狼の尻尾は伸びに伸びる。

 鈴を転がしたような笑い声。

 2人が振り返ると、眠姫が実に楽しそうに笑っていた。


「孤狼、この時代の信徒とも随分仲がいいみたいじゃないか」


「信徒?違うが!」


 2人の反論が綺麗に重なる。

 そこにあったのは仲の良い友人の空気で、信仰する者とされる者の空気は微塵も感じられなかった。

 そのことに眠姫はさらに笑みを深くする。

 この阿呆な仔犬は変わらない。

 昔からそうだ、彼女は自分を崇め御供物をする人間の横に現れ、その御供物である甘味を共に食べるのが好きな神だった。

 人間を管理する上位の存在であるという自覚がまるでない子供。

 だからこそ人の守護者たる神であり続けられたとも言える。


「しょうがないなぁ」


 眠姫は夕の方に扇を向けると、その扇をくるくると回した。

 それだけで夕は険しい顔を惚けさせ、数歩たたらを踏んだ後にその身を地面に横たわらせた。


「おいおい……」


「安心しなよ、ちょっと眠ってもらっただけだから」


「流石は夢神じゃのぅ」


 眠姫が目配せをすると猫達がわらわらと夕に群がり、その身体を担ぎ上げていく。

 呆然とする克哉と稔の前で夕は猫達によって扉の向こうへと連れて行かれた。


「ほらほら、あっち行ったー」


 そう手のひらを振る眠姫、克哉と稔は何か釈然としないながらも退避を始めた。

 残った猫達もその後に続き、扉の向こうへと姿を消していく。

 広いホールには孤狼と眠姫を残して誰もいなくなってしまった。


「ほれー、残りカスとか言っておいてやっぱり神性は残っておるではないか」


「眠る奴限定だよ。睡眠という概念がないゾンビどもには効果が薄い」


 なぜか自分のことでもないのに得意げな孤狼。

 眠姫は冷ややかにそれを否定した。

 夢神の異名を持つ猫神。

 その神性はあらゆる生き物を眠りへと誘い、そして猫神は好きなようにその夢を操った。

 夢を通した神々の連絡ネットワークを構築したのもまた彼女だった。

 そのおかげで遠く離れていようと神々は繋がることができたのだ。

 彼女自身に神々と仲良くする意思がなくとも、神々の団結を深めたのは彼女だ。

 だからこそ孤狼は眠姫を高く評価していた。

 

 段々と大きくなる異音。

 扉が歪に歪み始めた。

 孤狼は身を震わせると四つん這いになった。

 その姿は白い体毛へと覆われ、少女から大きな化け犬へと変わっていく。

 自分の社を出て以来の久しぶりの本来の姿。

 だがその神々しい姿も今は傷つき、少女の姿同様に穴だらけとなっていた。

 牙で種子の核のみを貫けるものだろうか?

 宝剣ではなく己の牙でどこまで戦えるか、孤狼に自信などなかった。


「覚悟を決めなよ。暴力で人を傷つける覚悟を。赤の他人のしかもゾンビだ。何を躊躇う?」


「…………」


 眠姫の言葉に孤狼は返事をしなかった。

 だが……覚悟を決める時なのかもしれない。

 白い閃光が走り、孤狼達を隔てていた扉を貫く。

 神の身体さえ傷つけたその白い凶器は、閉ざされた幾多もの扉をも突破し、孤狼達までたどり着いたのだ。

 やはり眠姫の言った通り分厚い扉如きであれは止まらなかった。

 敵がホールに侵入してくる、その前に孤狼は走り出す。

 相手などまだ見えていない。

 だが経験が銃が照射された今こそ攻めどきだと教えてくれた。

 白い人影がホールへと入ってくる。

 だがその人影の構える銃の照準の先に孤狼はいない、まだ補足されてなどいない。

 力強い四肢が地面を蹴り敵へと肉薄する。

 開かれた顎門が白い軍服へと迫る。

 その段階になってようやくゾンビは孤狼を補足した。

 目が合った…………気がした。

 銃のカートリッジが吐き出される様子が視界の端に映る。

 大丈夫、次弾までもう少し時間がある。

 顎門が閉じられ、巨大な化け犬が敵を咥える。

 孤狼は舌の上に冷たい肉の感触を感じた。

 人間だった物の味、そして濃厚な神性と呪いの脈動。

 牙を立てれば、もうそれでお終い。

 不死なる神性も神の神性でもって粉々にすれば再生はありえない。

 だから、その牙で貫けばいい。


「……………………………………」


 貫けばいい………………


「…………………………………………………………」


 今度は眠姫と目が合った。

 呆れた顔をしていた。


「やっぱり無理か」


 眠姫の言葉共に、孤狼の視界半分が真っ暗になった。

 口の中で白い光が弾ける。

 その光は孤狼の上顎を粉砕し、その化け犬の顔の半分を炭へと変えた。

 巨体が傾き、その白い体を地面へと横たえる。

 自分の口の中から、ゾンビが這い出す感触がする。

 片方だけになった瞳で、孤狼はぼんやりとそれを見つめていた。

 自分は噛みちぎれなかった。

 傷つけることは……できなかった。

 白い銃口が己へと向けられる。

 覚悟など決まらない。


「確かに儂は呪われているのかもしれないのぅ…………」


 孤狼はそう独りごちた。




……………………………




…………………




……




「孤狼…………おるか……?」




「ああ……儂はここじゃ」


「儂……?なんだその喋り方は。はは……儂の真似でもしておるつもりかこの仔犬は」


「そうじゃ。お主の役目は全部儂が引き継ぐ。だからお主は安心して寝ているがいい」


 修験者は最後の時まで犬神と共にあった。

 仔犬との約束のため、新たに生まれた神と共に村を守った。

 だがそれも永遠というわけではない。

 二人の間には個としての違いが明確に横たわっていた。

 悠久の時を生きる犬神と人間。

 別れは、孤狼の想像していたよりずっと早く訪れた。

 老いが、孤狼の家族を蝕んだ。


「お前が1人寂しくないかと…………儂は不安だよ」


「またそれか。儂は大丈夫じゃ。そうだ、お主が寝ておる間に新しい友ができたんじゃ。1人だけじゃない、これからもっともっと増えるぞ」


「そうか…………それはいいな」


「…………………………」


「…………………………………………」


 修験者は老いと共に、次第に寝込むようになった。

 最後に歩いている彼を見たのはいつのことだろうか。

 動けない彼の代わりに、孤狼は慣れない宝剣を振るい人々を守っていた。

 修験者の代わりに、侍の願いのため、孤狼は日々剣の腕を磨いていた。

 そうしながらも孤狼は家へと度々顔を出し老いた家族を看病する。

 早く元気になれと。

 だが彼が起き上がることなどついぞ無かった。

 年月は孤狼にとって残酷だった。


「…………孤狼……儂の最後の我儘を聞いてくれんか?」


「なんじゃ?最後と言わずじゃんじゃん言うがいい」


 修験者が枯れ木のようになった時、彼は静かに言った。

 痩せ細り生命が尽きようとしていると言うのに、その目は初めて会った時と変わらず力強く、優しいものだった。

 だがその中に後悔の色が微かに見えた。

 後悔と罪悪の色だ。


「娘を……都に残してきた…………ずっとそれだけが気がかりだった。儂の代わりに……あいつの行く末を見守ってはくれないか」


「……娘って…………いや……それはお主がやればよかろう」


「…………………………」


「…………………………………………わかった」


 娘など、初耳だった。

 会ったこともない人間の面倒を見ろなどと、昔の自分であればよい顔はしなかっただろう。

 だが少しの沈黙の後孤狼は承諾する。

 彼の願いならば……と。

 結局それが孤狼が修験者と交わした最後の約束となった。

 孤狼の大切な人は眠るように息を引き取った。

 なぜ彼が家族を置いて世直しの旅に出たのか、孤狼には理解できなかった。

 孤独とは犬神が最も忌避する感情だったから。

 自ら孤独に赴く、それだけの決意は孤狼にはない。

 あるいは彼にも無かったのかもしれない、修験者は孤狼に会えぬ娘を重ねたのだろうか?

 死者は何も語らない。

 悠久の命に喪失の影を落とすだけ。

 だが神は約束を違えることはなかった。

 娘を探し出し、その行く末を見守った。

 大切な人の大切なものを守る。

 悪い気分では無かった。

 娘から、修験者の片鱗を感じ取れたのも……孤狼の喪失を和らげた。

 だがそれも何十年という束の間でしかなかった。


「ねぇ神様……あの子達をお願いね」


 その娘もまた最後の時は残された子供達を孤狼へと託した。

 娘の残した子は3人……守るべきものが増えた。

 犬神は何も言わず願いを聞き入れた。

 終わる時、残された人を思う。

 そんな人は少なくなかった。

 その娘の子供達だって、また同じような願いを孤狼に託した。

 孤狼が悠久の時を生きる神だったから……不変の存在へと後世を託したのだろう。

 その全ての願いに孤狼は快く頷いた。

 だって、それは孤狼にとっても大切なものだったから…………


「神様……」


「孤狼」


「孤狼ちゃん」


「コロウ」


 たくさんの人々の最後を看取ってきた。

 それと同じだけの願いを背負ってきた。

 守るべき人は両手では数えきれなくなり…………いつしかそのちっぽけな頭では把握できない数になった。

 街に出て人混みを見渡せば、その誰もがかつての友人の子孫だ。

 それだけの歳月が孤狼へとのし掛かっていた。

 それでも犬神は笑顔で最後の願いを聞き入れ続ける。

 自身が守りたいと思ったから。

 把握できんのなら、いっそのこと全部守ればいい。

 犬神はあっけらかんとそう考えた。

 彼女は途方もないほどの楽観主義者だった。

 今でも孤狼は修験者の最後の願いを覚えている。

 その最初の最後の願いが……今も脈々と続いているだけだ。

 だから孤狼は人を傷つけられない。

 だってそれは、かつての大切だった人々が残していった命だから。




……………………………




…………………




……




「確かに儂は呪われているのかもしれない…………」


 修験者と最後の約束を交わした時からずっと…………

 使命が、約束が、神を縛りつける……人を守れと。

 人と戦う者にとってそれはもはや呪いでしかない。

 でもそれでいいと孤狼は思う。

 だってその呪いは泣きたくなるほど優しくて……懐かしい思い出だから。

 たとえそれで自身が傷つくことになっても。


 白い銃身が自身に向けられるのを残った片目で認識する。

 第2射はその残った頭部も焼き穿つのだろうか、そんなことを孤狼は思った。


「困るよ。そんなのでも私の古い友人なんだから」


 ゾンビの背後から声がかかる。

 小さな少女の姿をとった猫神は眠たげに手持った扇を弄んだ。

 ほとんど戦力にならない、そう言ったのにも関わらず彼女は現状に介入した。


「おやすみ」


 音を立てて扇が閉じられる。

 それと同時に孤狼の姿が霧のようにかき消えた。

 ゾンビは濁った瞳を瞬かせる。

 だが化け犬の姿はどこにも無かった。

 銃口が孤狼を探して彷徨う。

 孤狼の方はというとそれを不思議そうに眺めていた。

 孤狼は消えたわけではない、ただ眠姫が幻を見せているだけだ。

 だから孤狼としては目の前にいるのに、敵が自身を見失うという不思議な状況になっていた。

 疑問の声を上げようとする孤狼に向かって眠姫は口元に人差し指を添えて、しー……と孤狼に沈黙を促した。


「狙うのはそっちじゃない。そう、そうだろ」


 眠姫が己を撃てと扇を掲げる。

 ゾンビは躊躇いなどしなかった。

 獲物を奪った邪魔者に対して白い閃光を打ちこむ。

 扇に大きな穴が空き、その向こうにある猫神の首を貫く。


「あ」


 孤狼は惚けたような一単語を発することしかできなかった。

 上半身から切り離された首が孤狼の前で転がる。

 それは転がりながら少女の頭部から猫の頭部へと変わっていく。

 猫の頭が孤狼の目と鼻の先で止まった。


「どうせ君もまだ死んでないでしょ」


 頭が半分吹き飛んだ化け犬と頭だけになった化け猫が目を合わせる。

 神という悠久の存在はこれほどまで破損したとしても、まだ死んでなどいなかった。

 それでも痛覚がないわけでもないし、不滅からは程遠い。


「黙ってなよ。そうすれば私の幻が君を覆い隠してくれるから」


 そう言う眠姫の目は眠たげで、危機感などまるで感じない。

 今もなお向けられる銃がその頭部を消し飛ばせば悠久の命も潰えるというのに、それをまるで気にしていないみたいだった。

 そうして孤狼を友人と称したその口で、自身が命を散らすのを黙って見ていろと言う。

 そうすれば、お前は助かるからと。


「眠姫……お主儂のこと友達って思ってくれとったのか?」


「は?」


 黙っていろと言われて大人しくする孤狼ではなかった。

 とはいえ、その返しはいささか眠姫の予想に反するものだったが……

 命の関わるこの瞬間で友人関係について言及する?

 どこまでいってもマイペースな孤狼に眠姫は眉を落とした。

 化け犬の尻尾がぶんぶんと振られる。


「おいゾンビ、これ以上を儂の友人を傷つけはさせんぞ」


「あ〜……何やってるのこの仔犬」


 せっかくの孤狼を隠すためにつくった幻を突き破り、孤狼は敵前へと躍り出た。

 今さっき傷つけられないと確信した敵の前へと。

 見つけたとばかりに銃が孤狼へと向けられる。

 それに対して孤狼は笑ってすらいた。

 白いゾンビが引き金を引く。

 だがその白い閃光が化け犬を貫くことはなかった。


「………………?」


 銀の刀身が銃を貫いている。

 それは地下の遥か奥底に落下したはずのあの宝剣だった。

 誰の手も借りることなく、宝剣が回転し銃を真っ二つに切り裂く。

 そうして主人の元へと戻っていく。

 宝剣は、宙に浮いていた。


「お、ようやく来たわ」


「…………孤狼、君の剣って飛べるんだっけ?」


「いんや、念じてたら来た」


「……………………ああ……そう、君はそう変異するんだ」


 自身の元へと飛んでくる宝剣、孤狼はそれを掴むために手を伸ばした。

 犬の前足が人の手へと変化していく。

 そうして宝剣は犬神の手の中へと戻った。


「その姿……私の真似?」


 宝剣を構える犬神、その姿は以前のものとは変わっていた。

 宝剣が大きく見えるほどの小柄な体躯、幼女と言っていい年齢の犬耳少女がそこにはいた。


「儂は再生はあまり得意じゃない。破損した肉体を再生させるには肉も神性も圧倒的に不足しておる」


 新しくなった肉体を試すように少女は首を振る。

 そこに傷穴などどこにもなかった。


「じゃがなにも以前の状態に戻す必要などない。残った肉を寄せ集め、再構成すればいい。それなら不器用な儂でもできる」


 それがその少女の正体だった。

 失った肉体を補う肉がないなら絶対量を減らせばいい、そんな無茶苦茶な理論。

 変異する神という生き物だからできる荒技。

 この危機に適応した上位種は宝剣を構え、目を閉じる。

 一度は宝剣を振り、躱された。

 だというのにその顔は憎らしいほどに自信満々だった。


「安心せい、お主を傷つけはしないから。お主を蝕む呪い、それを、今、切り離す」


 そうして剣は振り抜かれた。

 誰も認知できない神の時間の中で、孤狼とゾンビは目を合わせた。

 神速の斬撃、横にそれる敵の身体。

 種子を貫けずに振り抜かれる刀身。

 それは前回の焼き回しのように見えた。

 ただ一つの違いがあるとするならば今回は敵の身体を傷つけることはなかった。

 やはり躱すか……孤狼は悔しそうに眉を顰める。

 だが、、だ。

 孤狼は躱されることを予測していた、だってその挙動はもう見たから。

 振り抜かれた勢いそのままに孤狼の手が開かれる。


「飛べ、宝剣!」


 孤狼の手を離れ宝剣が宙に躍り出る。

 飛ぶ剣、先程の銃を貫いたあの力だ。

 孤狼と相対するゾンビも足に力を込める。

 挙動を見たというなら敵も同じことだ。

 一太刀目と同じく躱すだけ、そう思ったことだろう。

 だが敵が目にしたのはその宝剣が鞘に収められるところだけだった。


「…………?」


 こつんっと硬質な音がして床に何かが転がる。

 黒く小さな球体。

 その萎びた球体が自身の核だと気づいた瞬間それは2つに割れた。


「……えっ」


 吐息のような感嘆。

 それはそのゾンビが孤狼の前で初めて発した声だった。

 あっけない遺言だった。

 身体を蝕んでいた植物が生命力を失ったかのようにしなだれ、その青さを失う。

 外傷などどこにもないのに、本体がくり抜かれたことに疑問を感じながらそれは枯れ果てた。

 安心したような何処か疲れたようなため息が孤狼の口から漏れる。

 頭だけになった眠姫は床に転がりながらその一部始終を見ていた。


「結局覚悟は決まらないままか……」


 残酷になった世界を変えるのではなく、自身を変異させ環境に適応させる。

 孤狼のしたことは、結局問題の先延ばしでしかない。

 だが、それがあの犬神らしさなのかもしれない。

 きっとこれから先もこの古い友は優しさという呪いに雁字搦めにされながら前へと進むのだろう。

 それこそが人と共にある神の正しい在り方なのかもしれない。

 それに比べて………………


「やはり、世界を変えるというのは……高慢じゃないのかい……ねぇ人神?」

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