犬神様は破損しました

 目の前に空いた穴は遥か下層まで続き、大地に大口を開けていた。

 所々にかかった橋のような通路が穴の壁面を繋げているのが見える。


「ほら、孤狼いくぞ」


 夕が手を振っている。

 夕たち3人は穴の壁面に沿って作られた階段を降り始めている。

 Moも孤狼を待つように夕と孤狼の間で静止した。

 連絡が取れなくなっている集落はこの穴の続く地下、シェルターの中にあるようだ。

 地面と同じ素材で作られた白い階段、それが螺旋を描きながら下へ下へと続いている。

 物珍しさから辺りを見渡しながら孤狼も後に続いた。


『-----接続中---------接続中-----』


「ん?どうした丸いの」


『---------接続中---------接続中---------接続中---------』


「むむ?」


「どうした」


「なんか丸いのの様子が変なんじゃが」


 階段を降り始めてすぐ、Moの様子がおかしくなった。

 いつもの緑の光が白に変わり何かと交信するようにくるくると回り始める。

 緑や赤の光は過去にも見たことがあったが白色の光は初めてだ。


「なにそのドローン壊れたの?」


 克哉が浮かぶMoをつついても様子は変わらない。

 Moは何かと接続し続けている。


「おそらく……ネットとの接続を試みているのかもしれん。ここの設備はまだ生きているからな」


 稔が杖代わりにしている銃で壁面を叩く。

 壁面からは機械の駆動音が今も響いており、地上の地面同様に所々から蒸気が吹き出していた。


「ネットねぇ……」


「おい、それは儂の友達じゃ。気軽に触るでない」


 相変わらずこづく克哉から孤狼はMoを引ったくった。

 孤狼自身もよくMoを叩いているというのに、調子のいい話である。


「具合が悪いならここで休んでおれ」


 孤狼はMoを自身の懐に仕舞い込む。

 Moはしばらく音を発していたが、4人が再び階段を降る頃には静かになっていた。

 階段を下る音だけが巨大な穴の中で反響する。

 円を描きながら下へ下へと足を動かす。

 階段の途中には踊り場が設けられており、いくつかの開けた場所も通過した。

 そういった場所の壁面にはシェルターの内部に入るための扉があった。

 だが夕たちはその扉には見向きもしないで階段を下りていく。


「のぅ、集落はまだ下なんじゃろう?あの扉から中に入ればよかろうに」


 代わり映えのない階段にだんだん飽きてきた孤狼はそうこぼした。

 この設備がまだ動いているのならこんな階段をわざわざ使わずとも、中に入ればいい。

 中には下層に降りるための装置があるのでは?

 孤狼がそう思うのも無理はない、もうかなりの距離を下りていた。


「開いてないんだよ」


「?」


「私たちが出入りできるのはあそこからだけだ」


 夕ははるか下方の壁を指差す。


「なんじゃあれ」


 夕の指差す先、ここからでも見える。

 壁に大きな穴が開いていた。

 真っ白な壁に縦に入った大きな亀裂。

 それを塞ぐようにして黒ずんだ鉄板が溶接されているのが遠目に確認できた。

 白の中に突然現れたその色は異質に見える。


「戦時中に何があったのかは知らないが、ここの元々の持ち主はもういない」


「集落の人間はちょうどよく穴が空いてたのを見つけて居住地として利用しているだけさ」


「頑丈さはお墨付きだからなー」


 手すりから乗り出しながら孤狼は下層の亀裂を覗き込む。

 確かにシェルターは孤狼が今まで見てきたビル群とは異なり、荒廃の色が薄い。

 住むのには適しているだろう。

 だがこの頑丈そうな金属に穴を開けるなんて、何があったのだろう。

 壁はそれ以上の硬度の物体で抉られたかのように歪んでいた。

 3人の話を聞く限り、集落の入り口とはあそこなのだろう。

 亀裂を目指して階段を降りていく。

 亀裂の位置にも踊り場はあった。

 でも他のものとは違う。

 その踊り場は明らかに後から作られていた。

 作りが荒いし、階段とは違う金属でできている。

 集落の入り口として後付けで作られたのだろう。

 黒ずんだ鉄で溶接された亀裂、そこに小さな扉があった。

 稔はその扉の横にあるインターフォンのボタンを押す。

 かすれたようなブザーの音が鳴り響く。

 夕と克哉が銃を構えて警戒する中、孤狼だけが暇そうに穴の底を覗き込んでいた。


「……………………………………」


 何度かブザーの音が響く。

 返事はない。

 事前に聞いていた通り、集落の応答はなかった。


「こじ空けるか、別の入り口を探すか……」


 応答がないということは、確実に内部で何かが起こったのだろう。

 今回孤狼以外の任務は集落の内部の調査だった。

 中を確認するには扉をこじ空けるのが最も手っ取り早く状況を確認できる方法だろう。

 しかし、もし何かの手違いで集落が無事だった場合扉を壊したという禍根が残る。

 別の入り口があれば問題は解決するが、そんなものあるのだろうか?

 このシェルターの設備は生きており、防衛のため入り口を閉ざしている。

 亀裂の穴がなければそもそも人間は侵入が不可能な施設だったのだ。

 別の侵入口があるとは考えにくい。


「のぅ…………穴が開いておる」


「え?」


 だからこそ、下を覗き込んでいた孤狼の言葉は夕たちを驚かせた。

 孤狼の指差す先、下の階段の踊り場の部分の扉を壊すようにして穴が開いていた。


「おいおい、でけぇな」


「前任は気づかなかったのか?」


 孤狼たちは1つ下の踊り場まで降りるとその穴を覗き込んだ。

 焼け焦げたように燻る穴の縁。

 穴の先には暗闇が広がっていた。

 連絡がつかなくなった集落に、謎の穴。

 明らかにシェルター内に侵入するために開けられた穴にしか見えなかった。


「ヤバそうな匂いがプンプンだ。明かり」


「ん」


 危険そうではある、だが集落の内部に侵入できる道の可能性が高い。

 克哉は夕から懐中電灯を受け取ると穴から内部へと踏み込む。

 それを見て孤狼も自分も、と彼に続いて意気揚々とシェルターに侵入する。

 だが、その歩みはすぐに中断されることになった。


「わぷ!これ、いきなり止まるでない」


 足を止めた克哉に孤狼が衝突する。

 眉を顰める孤狼に構わず克哉は後方へ下がっていく。


「やべ」


「うぬ?」


「戻れ!戻れ!戻れっ!!」


「何?なんなんじゃ?」


 ものすごい剣幕の克哉に押され、孤狼は半ば転げるようにして外に出た。

 侵入してすぐにUターンして戻って来た2人に対して夕は驚いたように目を見開き、稔は杖代わりにしていた銃を構える。

 訳の分からぬまま飛び出した孤狼の背後で肉と金属がぶつかるにぶい音が鳴る。

 孤狼が慌てて後方を確認すると見知らぬ人間が手すりに身体をぶつけ、身体を歪ませていた。

 剥き出しになった腕。

 その腕を伝うように貫いた根と、咲き誇る黒い花。

 何度も見てきた動く死体の特徴だった。


「この種まき野郎が!!」


 孤狼が何か動く前に、後方で銃を構えていた稔が発砲する。

 轟音と共にゾンビがのけぞった。

 その顔面に大きな穴が開く。


「撃て!」


「分かってる!」


 孤狼が見つめる中、背後から発砲音が立て続けにあがり、銃弾がゾンビに命中する。

 手すりに寄りかかっていたその人型の脅威に次々と穴が開く。

 右腕が肘から弾け飛び、宙を舞う。

 だが、その腕が落ちていくことはなかった。

 肉の断面から急速に伸びた根が腕を捕まえる。

 銃撃によって開いた穴も根によって塞がれていく。


「下がれ!儂がやる」


 なおを銃撃を浴びせようとする夕たちを制し、孤狼は宝剣を抜いた。

 やはりあれは半端な攻撃では再生する。

 その歪な命の大元を叩かなければだめだ。

 孤狼が宝剣は構える。

 いつものように宝剣での無力化を試みようとした。

 だがその時、穴からもう一つの人影が躍り出る。


「むぅ?」


 ズガンッ!

 大きな音と共にその人影も手すりに衝突した。

 前が見えてないのだろうか?

 勢いだけの突進だった。


 ズガンッ!ズガンッ!ズガンッ!


「む、むぅぅ??」


 警戒する4人の前で次々と人影が躍り出る。

 敵の増援に警戒心をにじませた顔がだんだん引きつっていく。


 ズガンッ!ズガンッ!ズガンッッ!ズガンッッッ!


「お、多くないかのぅ!?」


 階段の踊り場がその重みでぎしりと歪む。

 死体同士がぶつかり合い、黒い花が散った。

 孤狼たちは1歩、2歩と後ずさる。

 数えきれないほどの屍肉が積み重なっていく。

 踊り場を支える柱の悲鳴が響き渡り…………黒い花に包まれたゾンビが一斉に孤狼たちを睨み付けた。


「撤退!」


「な、儂を置いていくなぁ!」


 もはや調査どころではない。

 克哉たちは一斉に階段を駆け上がる。

 ゾンビもそれを見て大挙して這い上ってくる。

 溢れたゾンビたちの体重に耐えきれず踊り場が崩落した。

 だが動く死体共はそんなことも構わずに肉の橋を形成し、迫ってくる。


「夕たちにっ、寄るでない!」


 傾く足場の中、孤狼は剣を構え直した。

 目を閉じ、剣を顔の前に立てる。

 孤狼の気配が薄くなり…………消えた。

 まるで彼女が見えないかのように、ゾンビたちは克哉たちを目で追い階段を這い上がる。

 ゾンビたちは孤狼から2、3歩の位置にまで迫ってきていた。

 そこまでくると、孤狼の立つ階段はもうほとんと崩落寸前で、彼女の身体も傾いていた。

 それでも孤狼は剣を構えたままピクリとも動かなかった。

 孤狼はじっと己の切るべきものを探っていた。

 孤狼の意識は薄く靄のように広がりゾンビたちの中を漂っていた。

 いくつもの種子、その歪な命を感じていた。


「そこ」


 また誰にも感知されることなく、その剣は振られ、鞘に収まった。

 瞬きの間にいくつもの斬撃が振られ、鈍い重奏が奏でられる。

 孤狼の周りのゾンビたちの核が断ち切られ、大群の半数が動きを止め勢いのまま階段を転げ落ちていった。

 さらに夕たち手前までの階段が、壁から綺麗に切り離される。

 脅威から切り離すように。


「孤狼!?」


 孤狼の立っていた階段も例外ではない。

 人間に被害が及ばぬように、彼女は危険を全て排除する。

 夕の悲鳴を聞きながら、孤狼も落ちていった。

 彼女は自分の安全など考えていなかった。

 ここで危険なのは脆い存在である人間だけ。

 自分の安全はどうにでもなる。

 それが神の思考だった。


「よっと」


 事実、孤狼は落下しながらも姿勢を立て直し、宝剣を壁に突き立てた。

 宝剣はたやすく硬い合金の壁を貫き、軽い彼女の体重を支え切る。

 孤狼の背後で死体がぶつかり合いながら落下していく。

 黒い花びらが、孤狼の目の前をひらひらと舞い落ちっていった。

 しばらくして遥か下層から聞くに耐えない肉の潰れる音がこだました。

 孤狼は耳を塞ぐ。


「すまんのぅ……」


 それがたとえ“元”であったとしても人間が傷つくのは孤狼にはひどく不快だった。

 ぶら下がりながら、孤狼はため息を吐く。


「おーい大丈夫かー」


 上方から克哉の呼ぶ声が聞こえた。

 孤狼はようやく顔を上げる。

 夕たちは手すりから身体を乗り出して孤狼を心配そうに見つめていた。


「まったく……無茶をする」


 消え入りそうな夕の呟きを孤狼が聞き逃すことはなかった。

 孤狼としては全く心配してもらう必要などないと思うのだが、夕の優しい性格を考えれば仕方がないかもしれない。


「問題なしじゃー。今上がるー」


 ぶら下がりながらも壁を掴み、上を見上げる。

 壁は取っ掛かりが少なく登り辛そうだが、孤狼には問題ないだろう。

 彼女には鉄塔や灯台を駆け上がれるだけの身体能力があるのだから。

 夕たちも孤狼の余裕そうな様子を見て、ようやく緊張を解いた。

 想像を絶する数のゾンビには驚いたが、やつらが出てきた穴のある踊り場と階段が切り離された今、その脅威がこちらに届くことはないだろう。

 やはりというか、夕たちの想像通り集落で感染が広がっていた。


「ワクチンは惜しいが、このまま撤退するぞ」


 夕の言葉に誰も反論しなかった。

 ただパンデミックが起こっているだけであったらまだやりようがあったが……あの種まきゾンビの数は尋常ではない。

 孤狼が登ってくるのを待ち、速やかに撤退は理性的な判断だろう。


「よし、じゃあさっさと…………」


 稔の言葉が唐突に止まる。

 振り返った稔の目線の先に見知らぬ人影があった。

 真っ白な軍服を着た女性。

 俯いたその顔は長い白髪に隠されて見えない。


「うむ?誰じゃあれ」


 孤狼でさえもその女性の出現に気付けなかった。

 まるで最初からそこに立っていたのかのように、それはそこにいた。

 階段の中程に、夕たちを見下ろすように。

 孤狼は壁をよじ登りながら首を傾けた。

 稔の目が何かに気付くように見開かれる。


「お前強化人間の……!」


 稔が銃を構えるのと、女性が奇妙な銃を構えるのはほぼ同時だった。

 だが女性の方がわずかに早く、無慈悲だった。

 孤狼の見上げる先で白い光が宙に軌跡を描いた。

 その軌跡は稔の銃、腕、肩を巻き込みながら真っ直ぐに伸びて壁へと至る。

 だがそれでも止まることなく伸び続け、壁を貫通して大きな穴を開けた。

 焼け焦げたように燻る穴。

 白い銃が蒸気を吹き出し、カートリッジを排出する。

 カートリッジが床に落ちる音と共に、稔の消失した肩口から焼けた肉の匂いが立ち込める。


「なんじゃお主」


 稔が苦痛の声を発する、夕と克哉がいきなりの事態に驚きの声を上げる、そのどちらより早く孤狼は女性の前に着地していた。

 一息に壁を蹴りあがり、夕たちを守るように着地したのだ。


「夕、稔の治療を!」


 孤狼のような神と違って腕を失うことは人間にとって致命傷になりうる。

 目の前の女性と対峙しつつも、孤狼は稔の様子を伺う。

 冷静そうに見えて、その実孤狼の内面は荒れ狂っていた。

 心配でならないのだ。

 軍服の女性は突然現れた孤狼に構うこともなく次弾を照射する。

 それに対して宝剣が閃いた。

 白い閃光が斬撃によって弾かれ枝分かれする。

 まるで火花が散るように白い線がはじける。

 その破壊を孕んだ光は孤狼の背後に伸びることは決してなく、全て宝剣によって防がれた。

 はじけた白い光が地面に落下し、階段を溶かし穴を開ける。

 どう見てもまともな光ではなかった。

 宝剣も神が宿った御神体でなければ、階段のようにぐずぐずに溶けていたことだろう。

 軍服の女性は光線を弾かれたことを意外に思ったのか、俯いていた顔を上げ、孤狼を見つめた。

 真っ白な髪から覗く、黒い顔。


「ゾンビ……?」


 黒く見えた顔、それは隙間なく顔を覆った黒い花だった。

 まるで吐息のように花から黒い霧が吐き出される。

 なぜゾンビが銃を使う?

 まるで知性があるかのような振る舞いではないか。

 また銃が蒸気を吹き出し、カートリッジが排出される。

 次弾が来る。

 その前に孤狼は剣を構えた。

 祈るように突き立てられた宝剣。

 孤狼は目を閉じ相手を探った。

 途端に感じる森のような古い湿った香り。

 孤狼の意識は人間の死体の中にある歪な命を感知した。

 人の命があるべき場所にそれは陣取っていた。

 匂いと共に漏れ出る神性、それはまるで神と見紛うばかりのものだった。


 宝剣が振られる。

 いつものように何人たりとも知覚できぬ速度で。


「ッッ!?」


 だがその刹那の時間で孤狼はそれと目が合うのを感じた。

 それが笑うのを感じた。

 笑えるはずもないのに、それを感じた。

 疑念のまま神の剣は振られる。

 そして宝剣は鞘へと戻された。

 何かを切り裂く音。

 女の軍服が裂け、肉の断面が覗く。

 その光景に孤狼の目が見開かれる。

 それは孤狼の意図した剣筋ではなかった。

 自分の剣が外れた?

 自分の剣が誰かを傷つけた?

 キョトンと孤狼の首が傾く、剣技に関しての失敗など随分と久しぶりのことだった。

 それでも孤狼の腕は無意識に剣へと伸び、構えを再び取ろうとする。

 一太刀で切り損ねたのならもう一太刀浴びせるだけだ。

 そう孤狼は無意識に判断した。

 だが、無意識下で行われるその刹那の判断よりも早く敵は動いた。

 繰り出された飛び蹴りが、宝剣を構え始めた孤狼の腕を打つ。

 宝剣が宙を舞った。

 それを目で追うことなく、孤狼は宝剣へと腕を伸ばす。

 孤狼に再び剣を握らせまいと女は拳と蹴りを繰り出してくる。

 その攻撃を孤狼は全て片手でいなした。

 妨害は不可能と瞬時に判断した女は今度は銃を構える。

 孤狼は自身を守るように腕を突き出した。

 あの光線は神の神性を突破し、孤狼の身体を傷つけるだろうか?

 もしそうだとしても問題ない。

 稔と違って孤狼の腕は再生可能だ。

 そう考える孤狼の目の前で銃の引き金が引かれる。


 孤狼の背後の夕たちを狙って。


 孤狼は瞬時に自身の位置をずらし、銃の射線上に躍り出る。

 白い光が弾け、孤狼に直撃した。

 孤狼の神性と光線がぶつかり合い、火花を散らす。


「ちッ!まずいのぅ」


 孤狼の口から舌打ちが漏れる。

 光線が止んだ後、孤狼の袖は焼け焦げその腕の一部は炭化したように黒く染まっていた。

 だが孤狼が危機を覚えたのはそのことではない。

 鈍い音を立てて、階段にぶつかる宝剣。

 夕たちを庇ったせいで宝剣を掴み損ねたのだ。

 宝剣はそのまま階段を転げると…………

 真っ暗な穴の底へと落ちていった。


「……………………」


 孤狼はそれを視界の隅で捉える。

 不味いことになった。

 剣がなければ争いの種を断ち切ることは不可能だ。

 落ちていった宝剣を追って落下、瞬時に回収して駆け上ることは可能だろうか?

 いや、そんなことをすれば夕たちが無事では済まないだろう。

 一瞬の攻防で見せたあの動き。

 目の前の女は孤狼が人間を守りながら戦っていることを理解している。

 夕たちが背後にいる限りこの場を動くのは愚策だ。

 宝剣なしの人型では無理かもしれない。

 ザワリと孤狼の輪郭がぼやける。

 巫女から化け犬へ、孤狼がその姿を変えようとした時。




 不意に孤狼の意識は途絶えた。




 まるでスイッチを消したかのように、いきなり真っ暗になる視界。

 五感も、分からない。


「あれれ?」


 孤狼は首を傾ける。

 いや、自分に首はあるのだろうか、それすら不確かだ。

 肉体を感じられない。

 訳がわからなかった。

 孤狼は女のゾンビと戦っていたはずだ。

 それがなぜいきなり暗闇に閉ざされたのだろう。

 自分という命はまだある、それは感じられる。

 となれば奇襲によって死んだ訳ではないようだ。

 意識を霧のように漂わせ、辺りを探る。

 宝剣を振るう時の応用だ。

 意識を肉体から分離させるのは、孤狼の得意技であった。

 そうして孤狼は自分が落下していることに気がつく。

 下へ下へと落下している。

 自身の輪郭に意識を這わせると、それは覚えのある形をしていた。


「宝剣?」


 宝剣は深い穴の底を目指して落下していた。

 なぜ自分の意識は宝剣にあるのだろうか?

 そう考えて孤狼は気がつく。

 宝剣じぶんと肉体があまりにも離れすぎているということに。

 遥か昔、孤狼は化け犬だった。

 だが神へと至る時、孤狼は自分自身を変異させた。

 その魂を肉体などという朽ちる器から切り離し、宝物である宝剣に移した。

 そうして宝剣は神の命を宿す御神体となったのだ。

 宝剣は孤狼の宝物であると同時に自分自身でもあった。

 孤狼にとっての肉体とは神性でもって作り出した遠隔操作する化身でしかない。

 宝剣が孤狼の手から離れ、落下した時意識はまだ繋がっていた。

 だが宝剣が落下するにつれてその距離はどんどん開いていってしまい…………

 ついには孤狼の意識が肉体に届かぬほどに離れてしまったということか。

 そもそも、肉体の操作に有効距離があるなど孤狼は知らなかった。

 孤狼が修験者の忘形見である宝剣を手放すことなど、あるはずもないのだから。

 それにしても、これは不味い。

 早く肉体に意識を戻さなければ夕たちが危ない。

 まだ孤狼はあの不気味なゾンビを無力化していないのだから。

 そう考えているうちにも宝剣は落下を続け、ついには穴の底へ突き刺さった。

 穴の底にはいろいろなものが落ちていた。

 先ほど孤狼が落下させたゾンビたちや踊り場だけではない、訳のわからない機械がたくさん散乱している。

 だが今はそんなものに関わっている暇はない。

 孤狼は意識を紐状に伸ばし、上層を目指した。

 自分が置いてけぼりにしてしまった戦場を目指して。

 じりじりと焦りだけが募る。

 まだそんなに時間は経ってないはずだ。

 夕たち無事だけを祈って、孤狼は意識を上に上に目指した。

 今度は途切れぬように、細く、長く。

 そうやって伸ばした意識は、早くも肉体を見つけた。

 意識と肉体を大急ぎで繋げる。

 五感が戻ってきた。

 まず初めに孤狼が取り戻したのは聴覚だった。

 叫び声が、悲鳴が聞こえる。

 間に合わなかったのだろうか、孤狼はますます焦った。

 目を開けると女が銃を構えているのが見えた。

 放たれる閃光。

 それが孤狼の肉体を穿つ。

 肉の削られ、焼け焦げるのを孤狼は取り戻した痛覚で感じた。


「孤狼ッ!!!」


 夕の悲鳴。

 後ろを伺う。

 無傷の夕と、包帯を巻かれた稔を抱える克哉が見える。

 大丈夫、3人はまだ無事だ。

 ほっとため息を吐いた口から血が溢れ出る。

 なんだろう、うまく立てない。

 自身の身体を見下ろすと、巫女服は無残に焼け焦げ身体にはいくつもの穴が開いていた。

 肉が焦げる嫌な匂いが鼻につく。


「うわ!穴だらけじゃのぅ」


 なんとも緊張感のない感想が孤狼の口から漏れた。

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