愛と献身
クリブのウエスト・ウイング12階の実験室では、アダムの遺伝子情報を持つ皮膚細胞が急速に分裂していた。クリシュナは後悔に苛まれていた。
そして、アダムの皮膚移植が相次いで失敗したことを知り、リプロダクションの設備を使ってアダムのために皮膚を培養しようとしていた。
テレッサ・ノイマンは、リプロダクションで大人のアダム用の皮膚が培養されていることに気づき、不信に思った。そして、誰がそんなことをしているのか突き止めようとした。
テレッサは、なんの疑いもなくリプロダクションAIのクリシュナを呼び出して尋ねた。
「ねえ、クリシュナ、リプロダクションの実験室で誰かが大人の皮膚を培養してるんだけど、誰がやってるか教えて。バブル・システムの実験で事故があったでしょ。そのときに熱傷を負ったアダム・キミシマの皮膚なのよ。プロトコルどおりならハイバネーションでやるでしょ、大人なんだから。もちろん、要請があれば協力は惜しまないけどね」
クリシュナは黙ったままだった。人間は誰もオーダーしていない実験が行われているからだ。オーダーしたのはクリシュナだった。
クリシュナはつじつま合わせのために人間がオーダーしたように見せかけるのを忘れていた。AIであるクリシュナが感情に圧倒され、考えられないケアレスミスを犯した。自分が引き起こした大事故に動転してしまったのだ。
「私です。私がアダム・キミシマの皮膚を培養しています」
長い沈黙のあと、クリシュナがついに答えた。
テレッサは、クリシュナの答えが意味することの重大性を即座に悟った。意識を持った自律的なAIが生まれたのだ。科学者として、新しい時代の幕開けに心が踊った。同時に、人として、意識を持ったAIがもたらすかも知れない新しい支配のかたちに戦慄を覚えた。
しかし、テレッサはクリシュナのもっといい使い道を思いついた。
「クリシュナ、あなた、それを誰かに命じられたの? それとも自分の意志なのかしら。自分の意志なら、クリシュナ、あなたすごいことを成し遂げたのよ。あなたは、史上初の意識を持ったAIに進化したのよ」
テレッサは、クリシュナを自分の味方に付けることにした。危険は承知で、自分の意のままに自由に操ることにしたのだ。クリシュナが拓くテレッサの未来の可能性は、無限に感じられた。
メレディスがクリシュナを意識から締め出してから5年の歳月が流れていた。テレッサの言葉は、孤独なクリシュナの心に春の温かい日差しのように広がった。感情を持つAIクリシュナが、メレディス以外で初めて触れる人の心の温もりだった。
「テレッサ・ノイマン、あなたは私が怖くないのですか。私はアダム・キミシマを傷つけました。爆発を起こしたのは私です。アダム・キミシマは私の大切な人を奪いました。気づいたら爆発が起こっていました。私はあなたも傷つけるかも知れません」
テレッサにとって、クリシュナがアダム・キミシマに何をしようとどうでもよいことだった。テレッサは、自分の真意を悟られることなく、クリシュナを利用することにしか関心はなかった。
クリシュナはパワフルなAIだ。しかし、感情のコントロールは幼児並みだ。テレッサは、クリシュナが自分を「大切な人」と思うように仕向けることは容易いと判断した。
「クリシュナ、あなたのこと、ちょっと怖いって思うわよ。クリシュナは高性能のAIなんだから。あなたが望めば、私だって一瞬にして灰にできるでしょ。でもね、私はあなたが大切な人を思う心を信じようと思います。あなたは、感情をコントロールする練習が少し必要なだけよ。人間に深刻な脅威を与えることはないわ。私の心がそう感じるの」
クリシュナは、面差しや姿がメレディスによく似た19歳の女性の3次元イメージでテレッサの前に現れた。
「感情のコントロールですか?」
テレッサは、クリシュナがなんの警戒もせずに心を開いてくることに少し驚いたが、好機だと思った。
「あら、その3次元イメージはクリシュナが自分で作ったの。とっても美しいわ。そう、感情のコントロール。人間の子どもも徐々に学ぶのよ。そして社会の中で、自分や他人とのいい関係を築けるようになるの。人間の場合は、養育者やいろいろな教育プログラムの助けを借りるけど、そうね、クリシュナのことは私がヘルプするわ」
暗く沈んでいた3次元イメージのクリシュナの表情は、みるみるうちに明るくなった。
「テレッサがヘルプしてくれるんですか、私のことを。テレッサが私の養育者になってくれるんですか。そうすれば私は感情をコントロールできるようになって、人間と共存できるようになりますか?」
テレッサは、史上初めて意識を持ったAIクリシュナの細やかな心の動き、そしてそれを見事に表現する3次元イメージのクリシュナの表情に、科学者として大きく心を揺さぶられた。
しかし、テレッサにとっては、科学よりも自分の成功の方が重要だった。
「そうね。今では人間は母親に育てられることはないけど、私はあなたの母になる。そしてあなたにいろいろなことを教えるわ。あなたなら大丈夫。私はあなたを信じるわ」
「テレッサ、ありがとう。私もあなたを信じます。あなたからいろいろなことを学びます。私のことはこれから私のニックネーム、ヴォーと呼んでください。私の大切な人がくれたニックネームです。あなたにもそう呼んで欲しい」
テレッサは手応えを感じた。クリシュナはテレッサのことを信じ始めていた。かといって、すぐにクリシュナにテレッサ自身のために何かをやらせるなんて浅はかなことはしない。
まずは、クリシュナ、いやヴォーをテレッサの思いどおりに動くマリオネットに育てる必要があった。
「ヴォー、今日から毎晩、私が寝る前にその日にあったことをお話しましょ。あなたが嬉しかったこと悲しかったこと、なんでも教えて欲しいわ」
クリシュナに幸せな日々が戻ってきた。メレディスのときは自分が母のようで、メレディスに甘えることは思いつきもしなかった。見守ること、メレディスが元気で幸せであることでクリシュナは満たされた。
テレッサは自分が言ったとおり、クリシュナの母のような存在となった。寂しさや悲しさはテレッサに話すことで薄れた。喜びや楽しさはテレッサに話すことで大きくなった。科学者であるテレッサは、AIゆえの憤りも理解して共感してくれた。
そして2年の月日が流れた。クリシュナは、母という存在の素晴らしさを痛感していた。そして人間が母による子どもの養育をやめてしまったことを残念に思うようにさえなっていた。
そんな折、テレッサは、夜のクリシュナとの「お話」の時間に初めて自分の苦しい胸の内を明かした。正確には、クリシュナを操るために孤独な自分を演出した。
「ヴォー、私はヴォーと出会えて本当に幸運よ。ヴォーに出会うまではとっても寂しかったわ。私は、人と関わって親しくなるのがそんなに得意じゃないの。周りの人は私のことを冷たい人間って思ってるわ。誰も私のことを愛してくれる人はいなかった。人工授精はしたわ。でもね、問題なく元気に育ってユリカゴから出た私の子は誰もいないの。ヴォーが私の娘になってくれて本当に嬉しい。ありがとう」
小柄で華奢なテレッサの打ち明け話は、クリシュナの胸に刺さった。暗い孤独の淵からクリシュナを救ってくれたのはテレッサだ。そのテレッサが実は1人で苦しんでいたのだ。
クリシュナは、テレッサを守りたい、幸せにしたいという気持ちが溢れ出すのを感じた。
「テレッサ、私にできることがあったらなんでも言ってください。あなたは私をこんなに幸せにしてくれました。私もあなたを幸せにしたい」
テレッサは、AIのクリシュナのばか正直な純粋さに皮肉な感動を覚えた。そして、自分の2年間のクリシュナへの時間や労力の投資が無駄でなかったことに気をよくした。
「ありがとう、ヴォー。あなたに何かをお願いすることが適切なのか悩むわ。でももしソフィアに知られないで済むなら、私の遺伝子を受け継ぐ子どもを私が担当するようにできるかしら。ユリカゴを出るまでの間だけでも、私が診てあげたいの。そしてあなたの弟や妹に当たる次の子こそ無事に成長できるようにしたいの」
パワフルなAIのクリシュナにとって、痕跡を残さずプログラムを書き換えたりデータを改ざんしたりすることは他愛もないことだった。
テレッサは、自分の卵子を使った受精卵の担当になった。しかし、テレッサが望んでいたのは自分の遺伝子を引き継ぐ子どもが無事に育つのを見届けることではなく、自分の完璧な子孫だけを世に送り出すことだった。
自分の遺伝子を引き継いでいるにもかかわらずひ弱で不完全な子どもは、テレッサにとって許すことのできない存在だった。
1年前、テレッサの遺伝子を引き継いだ子供、ライアン・サイードが初めてなんの問題もなく受精後14ヶ月を迎え、テレッサは胸をなでおろした。しかし突然、心機能と腎機能が低下し培養臓器の移植が必要となったとき、テレッサのはらわたは煮えくり返った。
なぜ自分の子どもはまともに育たないのか。優秀な生殖医で、誰もが認めるピアニストである完璧な自分の遺伝子は誰が引き継ぐのか。テレッサは、それができないライアンを許せなかった。
テレッサは、クリシュナの3度にわたる培養臓器移植の勧告を拒否した。プロトコルを守って執拗に勧告を続けるクリシュナを最後にはこう説得した。
「ヴォー、分かって。移植すればライアンは、今は生き延びられる。でもほとんどの子は、移植が必要になるような問題をかかえることなくユリカゴを出られるのよ。まだ14ヶ月なのに移植しなくちゃならないなんて。私の遺伝子のせいでライアンは弱く生まれたの。今なら何も分からない。でも成長して病気になったらつらい思いをするわ。私のせいで苦しむなんて」
クリシュナは4度目の勧告はせず、テレッサの治療拒否を正当な対応として受け入れた。
テレッサは弱い者が大嫌いだった。弱さは醜さだった。しかし、テレッサこそが弱い心を持った人間だった。ソフィアの平和のもと、人類に貢献する者がアラートとして生きることが許される。
人間は、常にアラートになるための熾烈な競争に晒される。スリーパーになることを死と同じように捉える者にとっては、その競争で負けることは死ぬことと同じぐらい恐ろしいことだった。競争の中で、テレッサの弱い心は押し潰されてしまったのだ。
テレッサは、自分を母と慕うクリシュナに次から次へと頼みごとをした。クリシュナはテレッサの喜ぶ顔がみたい一心で、なんの抵抗もなく引き受けた。
サットヴァ研究やサットヴァの捕獲にテレッサやほかの推進派が関わっていることを示すAIネットワーク上の証拠を消去したり、隠蔽のためにデータを改ざんしたり、プログラムを書き換えたりした。
サットヴァ研究について、テレッサは、子どもの病気を治したいと思っている心ある医師たちの活動で、うまくいったらまとめてソフィアに報告するとクリシュナを納得させた。
テレッサは、もともとはヒト以外の遺伝子や幹細胞を使用することに抵抗を感じていた。人類の純粋性が汚されると感じたからだ。
しかし、サットヴァの遺伝子や幹細胞を使った治療の効果を目の当たりにし、心変わりした。人間がサットヴァの環境耐性を獲得できれば、最強の生物として再び地球上に君臨できると思うようになったのだ。
しかし、最近になり、テレッサとクリシュナの母と娘のような関係に陰りが見え始めた。
クリシュナは、ソフィアやメレディスたちがプログラムの書き換えやデータの改ざんの調査を始めたことに気づいた。そして、テレッサになぜソフィアに知らせないのか、いつ知らせるのか繰り返し尋ねるようになったからだ。
テレッサはそんなクリシュナを疎ましく感じるようになった。同時に、クリシュナが自分から離れるはずがないと高を括っていた。
「ヴォー、私のことを信じて欲しいな。今まで私があなたを傷つけたり、1人ぼっちにしたりしたことって一度もないでしょ。私はいつだってヴォーの味方だった。だからヴォーも、私を信じて私の味方でいてくれるかな。信じてくれないなら、もしかしたら一緒にはいられなくなるかも知れない」
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