ソフィアの盲点
クロノスの4月はまだまだ肌寒い。朝晩はぐっと冷えて気温は10度前後にとどまる。
そんな4月のぴりっとした空気の中、ジュビとリズクはクロノスに帰ると、普段どおりの生活に戻った。ジャマールと協力し合うことを約束したサットヴァ研究やソフィアの問題の調査を除いては。
しかし、何から手を付けてよいのやら、正直戸惑っていた。サットヴァ研究については、無闇に訊いて回ったり、クロノス内で実験室を探し回ったりすることには危険が伴う。それに、関与する者たちを警戒させてしまうリスクもある。
そこで、サットヴァ研究については、まずはジャマールが遭遇した捕獲に関与していた4
人の医師、ラヴィーン、クラーセン、ノイマン、グェンの動向を本人たちに悟られないように監視することにした。同時に、ソフィアになんらかの問題が生じているかどうかの調査は、やはりソフィアのアドミニストレーターであるメレディスに相談することにした。
遠征から帰って3日後の夜、リズクとジュビはメレディスのキュービクルを訪ねた。
「ねえ、メレディス、ちょっと話があるんだけどいいかな?」
いつも冗談ばかり言っているリズクの真面目な顔に、メレディスは少し不安な顔をした。
「どうしたの、2人とも。なんだか深刻な感じじゃない」
そう言いながら、メレディスは自分のキュービクルに2人を招き入れた。
オーダー・シュートで飲み物を取り寄せ、3人で輪になって床に座った。話を切り出しにくそうにしているリズクとジュビにメレディスが言った。
「何、どうしたの。言いにくいことなの。2人とも、バブルの外に出かけてたでしょ。そのことと関係あるのかな」
リズクとジュビは、顔を見合わせて頷き合い、やっと決心を固めたように話し出した。
ジュビがパルヴスとバブル人が呼んでいるサットヴァ人に興味を持った経緯、2人がサットヴァの都市クシャーンティを訪れたこと、ジャマールのこと、2300年代後半の突然死や奇形児のこと、生きたサットヴァを捕獲して禁じられている研究に使っている人間がいることを明かした。
そして、ソフィアがそれを感知できていないこと、あるいはソフィアが意図的に隠蔽しているかも知れないと伝え、メレディスに調査を手伝って欲しいと頼んだ。
メレディスはずっと黙ったまま、何も言わずに聞いていた。2人が話し終わっても、壁を見つめたまま何か考えを巡らしている様子だった。
そんなメレディスを見て、リズクとジュビは胸騒ぎを感じた。やはりソフィアの平和を脅かす深刻な問題が生じているのかも知れないと思った。そして同時に、なんとかしなければならないと改めて責任を感じた。
やっとメレディスが2人の顔を見た。
「いいよ、調べるの手伝うよ。っていうか、手伝わせて」
リズクとジュビはメレディスの手を取った。
「やったぁ! ありがとう。メレディスがいたらすごく心強いよ。でもね、これだけは絶対に忘れないで」
2人は大喜びしながらもメレディスに警告した。この調査に危険が伴う可能性があること、しばらくの間、調査は秘密裏に行なうこと、少しでも危険を感じたら絶対に無理しないことを。
1週間が経ち、今度はメレディスがリズクとジュビを自分のキュービクルに呼んだ。
「先週の話だけど、実はちょっと心当たりがあったの。私も前から気になってて、そこにあんたたちからこの話でしょ。分かってること、ちょっと追加で調べたこと、言っておくね」
メレディスは、期待と不安が入り混じった表情のリズクとジュビに話し始めた。
「ソフィアはね、恐ろしく高度な人工知能だから、人と同じように思っちゃうけど、2つ決定的に違うことがあるの。1つは、ソフィアは自分で感じることができないの。
インプットされたデータから、特定の情況で特定の感情を持ったかのようなアウトプットをすることはできるんだよ。しかも、ソフィアの状況把握能力はずば抜けてるから、まるで人と同じような自然な感情表現が可能なわけ。
人の場合、何かを判断したり決めたりするときは、感情ってものが大なり小なり影響を与えるでしょ。でもソフィアの場合は、感情がないから、完全に合理的な意思決定をするの。
ソフィアの目的は、ざっくり言うと人類という種の平和的な生存と幸福な生活。それに向けてすべてが決定されている。
『幸福』っていうのはかなり主観的な要素が大きいから、これについては個人から睡眠中に吸い上げる認知データが活用されてるってことは2人とも知っているよね。
でも、平和的な生存を脅かす希望や理想は、当然のことながら意思決定には反映されないようになってる。でも、ソフィアの平和に脅威を与えない思考や行動はソフィアが把握してもまったくのノーマーク。
私たちがサットヴァ研究推進派のことやソフィアのことを調べてるのも分かってて、脅威がないと判断してるから放置って感じ。
人間と違う2つ目の点は、1つ目とつながってるんだけど、ソフィアは自己の生存のために行動しないってこと。人間の至上命題は生存でしょ。でもソフィアの場合は、さっきも言ったけど人類の生存と幸福。
だから、もしソフィアが人類の生存と幸福を実現できないと判断した場合、ソフィア自体が障害となってると判断した場合は、別のAIを作り出してソフィア自体を自己破壊するっていう究極の選択肢も組み込まれてるんだよ。
で、ソフィア自体が何かを意図的に隠蔽して人類から隠しているか。それはないって断言できる。ソフィアは本来の目的のために常にシステムを修正してるしね。それはどこをどう調べても大丈夫だった。
じゃあ、サットヴァの捕獲や研究についてなぜ把握できていないか。これはまだ仮説段階。
1つの可能性としては、ソフィアのAIヒエラルキー、つまりソフィアを頂点とするAIネットワークのどこかがおかしくなってるっていう可能性。ソフィアは大丈夫って確認したから、下位のAIってことになるけど。
ソフィアは物理的に移動して世界の状態を知覚して把握するわけじゃないでしょ。
さまざまなセンサーで世界を感知して、リプロダクションとかハイバネーションとかっていう大きなブロックのAIの処理を介して世界の状態を把握してるの。だからブロックAIの処理がおかしいとソフィアに正しい情報が伝わらない。
ソフィアに知られずに意図的にブロックAIのプログラムを書き換えるのは不可能だから、もともとあった不具合がなんらかの理由で表面化してきたってことかな。
2つ目の可能性は、センサーの問題。サットヴァの研究や捕獲、監禁に関係する物理的な施設のセンサーが細工されてるって可能性。
これは簡単なようですごく難しいんだよ。特定の場所を管轄するブロックAIが、寸法、重量、密度、温度、空気の流れなどなど、あらゆる角度からセンサーの感知データに間違いはないか、矛盾はないかを検証してる。
こんな感じかな、今のところ。あとね、実はこの前言ってた気になることだけど、最近自分の認知データを非公開にして、ソフィアにアップロードされないようにしてる人が増えてるんだよ。プライバシーってことで、知られたくないって気持ちになることがあるってのは分かる。
でもそういう人が増えてきているってことは、ソフィアへの信頼が揺らいでいるってことも意味するかもって、心配してたの。関係ないかも知れないけどね」
メレディスが話し終わると、最初に言葉を発したのはリズクだった。
「ソフィアが大丈夫って分かってよかった。安心したよ。ソフィア自体がだめだったら、それってすごく怖いよなぁって思ってたんだ。他のAIでもセンサーでも、問題は問題だけど。ソフィアが信頼できるっていうのは本当によかった。なあ、ジュビ」
そう言ってジュビの肩を叩いた。リズクもジュビも、メレディスの報告のおかげで少しだけ明るい気持ちになった。
4人の医師たちに不穏な動きのないまま数日が過ぎた。リズクは、クリブのイースト・ウィング48階の自分のオフィスで前日の「排出」決定に関する報告書をまとめていた。そしてふと思った。
――もし生きたサットヴァを捕獲してどこかに監禁しているとしたらどこが考えられるだろう?
温度や湿度などの環境管理、そして日常的な監視や世話を考えると、クロノスのどこかの片隅に掘っ立て小屋や間に合せの地下牢でサットヴァを監禁するわけにはいかないだろう。
リズクは3次元ディスプレイを表示して、クリブの3次元図面を出した。VRモードで、図面の中を歩いてみた。
上階から順に、個々の医師、科学者、エンジニアの研究室、リプロダクションとハイバネーションの指令センターやアドミニストレーターたちの共有オフィスをざっと巡った。
階を下って、実験関係の施設、倉庫、カフェテリアやトイレ、シャワー室などの共有スペースを通り抜けた。
そして地下の人工育児器ユリカゴ、ハイバネーション・バンクの並ぶホールといった、実際に人を収容する設備のある部屋、隣接する準備スペースも覗いた。準備室では、医師やエンジニアが受精卵や人をユリカゴやハイバネーション・バンクにセットする。
リズクは、さらにクリブの人の収容と排出のルートをたどった。
クリブの地下はそのほとんどが人工育児機と休眠設備で占められており、各階の同じ場所に準備スペースがある。
クリブへ人を搬入する場合は、人はカプセル内で睡眠状態のまま、地下1階の搬入出用駐車場で輸送エア・ビークルからシュートへ降ろされ、大型の運搬用モバイル・チューブで準備室へ移動される。エア・ビークルから準備室まではすべて自動搬送だ。
もし人をセキュリティの厳しいクリブに密かに潜り込ませたいなら、クリニックで休眠プロセスを始めればいい。
これだ、サットヴァはクリブにいるとリズクは思った。休眠するアラートは、アラート用のクリニックで睡眠状態に置かれカプセルに収容される。搬送中はカプセルのIDで管理されるため、個人の確認は準備室に到着するまで行われない。
クリブに入るには、普通は複数の生体認証が必要になる。でもカプセルに入れば、生体認証を回避してクリブに入ることができる。
その日の夜、リズクは、クリブをVRウォークしたこと、自分の考えをメレディスとジュビに伝えた。それを聞いたメレディスは、失望と憤りを滲ませた。
「なるほどね。ソフィアのシステムは性善説に立って構築されてるってことだ。そこがソフィアの盲点になってる。搬入プロセスに関与する医師やエンジニアが、結託して誰かをクリブに潜入させようとするなんて想定はしてない。それにしても管理が杜撰だ。追加の生体認証がいるね」
するとジュビが口を挟んだ。
「それはそうだけど、どうかな。メレディスも言ってただろ。ソフィアへの信頼が揺らいでるかもって。何か根本的な不満とか不信感とかがあるなら、そっちをどうにかしないとやばいんじゃないのかな」
ソフィアは正常に機能しているが、ソフィアへの不信や不満を募らせている者がいる可能性がある。ソフィアの平和はアップグレードが必要な時期を迎えているのかも知れないと、3人は思った。そのためにも、まずはそうした者たちを特定する必要があった。
5月に入り、ジュビは再びサットヴァの調査を目的とする遠征を計画した。クロノスではサットヴァはパルヴスと呼ばれているため、遠征の正式名称は当然のことながら「パルヴス生態調査遠征」だ。
もちろん、サットヴァ捕獲の実態調査が本当の目的だ。今回は、ジャマール、リズクのほかに、ジャマールと一緒に捕獲を目撃した女医のジャス・リボアも誘った。
出発を1週間後に控えた5月14日、ラーラからもらった通信ボックスが青い光を放ちながら振動した。ハイポサラマス11階の実験室にいたジュビは慌てて周りに人がいないことを確認し、念のため、人が入ってくる可能性のより低い実験準備室に行った。
通信ボックスを開くと、ラーラの従兄弟のナハの3次元イメージが現れた。ジュビは驚愕した。ナハは頭から赤い血を流し、顔半分が真っ赤に染まっていた。
「ジュビさんでしたね。今、密猟者に襲われています。1人が捕まり、ほかは皆殺られました。ラーラも途中まで一緒でしたがあいつも怪我をして。ラーラは今送った座標の場所にいます。密猟者に気づかれてい・・・・・・」
そこまで荒い息で言ったと思うと、ナハの3次元イメージが突然消えた。
ジュビは、一瞬凍りついたように動けなかった。しかし2秒後、ハイポサラマスのAIシバに遠征を今日出発に前倒しすると報告して、リズクに連絡し同行してもらうことにした。
リズクからクリブへの人の侵入仮説を聞いていたジャマールは、休眠カプセルを準備してクリニックで待機することになった。
もし怪我がひどければラーラをクロノスに連れ帰って、リズクが見つけた搬入方法を使い、クリブのハイバネーション・バンクで治療をしようというのだ。リズクにもジャマールにも認知データのソフィアへのアップロードをオフにするように頼んだ。
ナハから連絡をもらってから1時間も経たないうちに、ジュビとリズクは高速エア・ビークルに乗り、ナハからもらった座標の地点に最高速で向かっていた。目標地点は、ミラブ湖とクロノスのちょうど中間地点の辺りだった。
隆起した2メートルほどの紫の岩が3つ、互いを支え合うかのように立っていた。その隙間にラーラはいた。ラーラにはナハのような出血はなかった。
「ラーラ、ラーラ。大丈夫?」
ジュビがラーラの頭をなでながら声をかけた。ラーラは目を開けて苦しそうに言った。
「胸が、胸が痛い。胸に何かが当たった。息が苦しい」
リズクが断定的に言った。
「音波銃だ。音波銃で胸を撃たれたんだ。骨折してるかも知れない。内出血だとたちが悪い」
2人は担架を出して、ラーラを静かにエア・ビークルに乗せた。リズクがラーラが痛みを訴える場所を見ると、赤黒い痣ができていた。リズクはポータブル生体スキャナを取り出し、胸に内出血がないか診た。
「血胸がある。ほかにもどこかやられてるかも知れない。ここじゃだめだ。クロノスに戻らないと」
不安そうなラーラに
「大丈夫。ちゃんと考えてあるから安心して」
ジュビがそう言うと、ラーラは安心したように目を閉じた。
ジュビは、リズクが発見したクリブへの侵入経路がちゃんと使えることを祈らずにはいられなかった。
クロノスに全速力で戻り、ジュビはソフィアがあるエンセファロンの東に位置するポプルスの地下1階駐車場に高速エア・ビークルを止めた。ポプルスは、アラートたちのための医療サービス、物資の提供、スポーツジムや音楽スタジオ、そのほかのレクリエーション施設が入っている。
ラーラの黒い布を外し、全身を白い布でくるみ、その上から同行が予定されていたジャス・リボアのために用意してあったアクション・スーツを着せた。担架に載せ、搬入出用モバイル・チューブでクリニックの診察室に運んだ。
ポプルス39階のクリニックでは、ジャマールが休眠用のカプセルを用意して待っていた。
「このカプセルは、今日排出されたアンナ・セペスという女性のものだったんだ。ジャスの担当だよ。ジュビ君から連絡をもらって、予定排出日を延ばしてもらった。亡くなったセペスさんには申し分けないが、ちょうどいいタイミングだった。誤ってカプセルだけが搬出されたため、今日中にカプセルをクリブに戻すという予定をジャスが登録してくれた。ジャスが準備室で待機してる」
3人で白い布に包まれたラーラのバイタルを確認し、静かにカプセルに移した。カプセルを専用台車に載せて、搬入出用モバイル・チューブで地下1階の駐車場まで運び、エア・ビークルに載せた。
クリブの地下駐車場に着いて、カプセル専用シュートにラーラの入ったアンナ・セペスのカプセルを入れると、滑らかにシュートの中を移動してクリブの中に吸い込まれていった。
ジュビはラーラのことをリズク、そして準備室で待つジャス・リボアに託し、エア・ビークルを返して居住区イオタ・コンプレックスに戻った。
その夜、リズクからもジャマールからも連絡は来なかった。リズクはついに居住区には戻らなかった。
――ラーラが生きているからリズクは帰ってこないんだ。
ジュビは、そう自分に言い聞かせた。
ほとんど眠ることなく朝を迎えたジュビは、ラーラのいるクリブに駆けつけられないことにどうしようもない苛立ちを感じた。
5時頃にカフェテリアへ行くと、シンイーもすでに来ていた。ジュビは、食欲はなかったが朝食のゼリーを無理やり飲み込んだ。メレディスもカフェテリアにやってきた。疲労と睡眠不足のためか、シンイーとメレディスの会話を夢の中で聞いているような気がした。
「リズクは?」
そう尋ねるメレディスの声に、ジュビは現実に急に引き戻された。
「ああ、リズクは、ハイバネーション・バンクで何か問題があって、徹夜で仕事だったみたいだよ」
自分の声がやたらに大きく頭の中で響いた。
運動のために歩いて出勤するというシンイーと一緒に、ジュビも歩いていくことにした。そうすれば、少しは気が紛れると思った。
中庭に面した明るい席で、鮮やかなオレンジ色のジャンプスーツを着たメレディスが、小さく手を振って、出かけるシンイーとジュビを見送っていた。中庭のプールサイドでは、アシュレー・ジュラが3人の子供たちに何やら説明していた。
午前10時過ぎ、やっとリズクからラーラの無事を知らせる連絡が来た。ジュビは、ぐったりとして目を閉じていたラーラの顔を思い出していた。
ラーラとは2度しか会ったことしかなく、ちゃんと話したこともない。それにもかかわらず、なぜかラーラのことをとても愛おしく感じた。守らなければならないと思った。
同時に、クリブへの潜入方法についてのリズクの仮説が期せずして可能であると証明されたこと、そしてそれが意味することの重みに気づいた。ソフィアの目を盗んで、ハイバネーション・バンクで捕らえられたサットヴァが眠らされている。
それでもまだ、サットヴァの捕獲や研究に関する調査で、なぜソフィアがなんの証拠も見つけられなかったのかは分からないままだ。
ソフィアが当初の目的を達成し、生存できることが当たり前になりつつある。人類の中には平穏な日々の大切さを忘れ、ソフィアの平和を損ねようとする者がいるのか。疲労と眠気がジュビの神経をひりひりと刺激した。
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