ラーラ
翌朝、パルヴス生態調査遠征は、最終日の4日目を迎えていた。ジュビとリズクは、クロノスを出発した3日前とはまったく違う世界に生きているような気がしていた。
3日前までは当たり前だった平穏な日常が、もはや当たり前でなくなってしまった心許なさに戸惑っていた。ジャマールは2人に秘密を打ち明け、前より少しだけ明るい表情をしているように見えた。
3人はその日は予定を変更して、ゆっくりと時間の許す範囲でラルーン山脈一帯を上空から視察し、それからクロノスに戻ることにした。
ラルーン山脈は東西約2,500キロにわたり、西端の標高3,289メートルのサラナ山がもっとも低い山で、約1,900キロ東に位置する標高9,129メートルのタイチ山がもっとも高い山だ。かつてこの山は、エベレストと呼ばれたことがあると伝えられていた。
標高約2,800メートルまでは植生が見られるが、その高さを超えると植生はほとんど姿を消し、紫の大きな岩が点在し、岩峰が空に向かって伸びている。
山々の中腹の紫の大岩の間からは、水が吹き出して落下し、落差数百メートルもの滝をいくつも形成している。濁ったピンク色の靄がすべてを包み込み、幻想的な景観を作り出している。
サラナ山から20キロほど東に行った山脈の南面には、サットヴァの段々畑が見えた。近づきすぎないように気を付けながら南面沿いを東に進んだ。
ところどころ、野生のマレが群れをなして器用に山の斜面を歩いていた。時折、疎らな植生の間や紫の岩の陰を小さな哺乳類が忙しく動いていた。
のどかな風景を見ていると、大気が放射能や火山性有毒ガスで汚染されていることを忘れてしまいそうだった。山脈の中ほどに位置する標高7,611メートルのルガ山の南で高度を上げミラブ湖へと戻る針路を取った。
そしてミラブ湖からクロノスまでの帰途は、念のため高度を下げ、バブル人の遠征隊によるなんらかの活動がないか偵察した。
ハイポサラマスのAIシバによると、現在遂行中の遠征はないことになっていた。そして、実際に遠征隊の姿は見当たらず、ジュビとリズクは少し期待を裏切られた気がしていた。
それを察してジャマールが言った。
「昨晩、あんなことを言ったから無理もないが、ソフィアやシバに知られていない秘密の遠征隊と都合よく遭遇というわけにはいかないね。私も、昨日話したサットヴァ捕獲のときが今のところ最初で最後なんだよ。彼らも気を付けてるってことだ」
窓の外では多肉植物のザワが点在する草原地帯が、黄土色の世界に変わりつつあった。乾燥した砂が美しい波紋を描き、人の背丈ほどの岩が転がっていた。
3人は時折、窓の外に目を向けながら、サットヴァの捕獲や研究、ソフィアの障害の調査方法をあれこれ検討していた。
リズクが提案した。
「ソフィアに問題があるなら、メレディスは絶対に知りたいと思うんだ。メレディスに言って、それをメレディスがほかの人間にすぐ伝えるべきかどうかはまた別問題だけどね。ほかのアドミニストレーターがソフィアの障害に関わっていないってことも確認しないとね、まずは。慎重にやらないと危険だ」
そのときだった。
「戻って!」
ジュビが叫んだ。
「鞍の付いたマレが倒れてる!」
リズクとジャマールは、ジュビの言葉が意味することをすぐに察知した。エア・ビークルで引き返すと、倒れたマレは来たルートを800メートルほど戻ったところにいた。
マレはまだ生きているかのように見えたが、息はなく、目を閉じて微動だにせず黄土色の砂の上に横たわっていた。リズクはマレの首のあたりをなでてやった。
「まだ温かいよ。乗っていたサットヴァも近くにいるかも知れない」
3人は周辺を探し始めた。この辺りは黄土色の砂原が広がっている。それでも大小の紫色の岩が転がっていたり、雨が降れば水が貯まる窪地があったりする。3人は、サットヴァの姿を求めて砂原の起伏をスコープ・モードで注意深く探した。
見つけたのはジャマールだった。
「何かいる。2時の方向、200メートルだ。ごつごつとした岩が見えるかな。黒い人みたいな塊がもたれかかっているように見える」
リズクとジュビが歩いて近づいていった。ジャマールは、必要なら移動させることができるようにエア・ビークルに戻って待機した。
岩にもたれかかっていたのはやはりサットヴァだった。ゴーグルは付けておらず、黒い布から白い顔が覗いていた。目は閉じており、意識がないように見えた。リズクがそっと首筋に触れると脈があった。
「生きてるよ」
そう言うと、
「大丈夫ですか。分かりますか?」
と意識のないサットヴァに声をかけた。
ジュビは、ジャマールにエア・ビークルを移動してくれるように連絡した。
リズクとジュビは、ぐったりしたサットヴァを両側からそっと支えてエア・ビークルに運んでフラットにしたシートに寝かせた。巻かれていた黒い布を注意深く外した。
腰までの長いプラチナ色の髪は右の耳の下で1つにまとめられており、白い長袖のシャツに紺色の膝までのズボンを穿いていた。胸の膨らみからおそらく女性と思われた。
リズクは、簡易診察キットを出して、怪我がないか、心臓は大丈夫か診察した。
「大丈夫そうだ。怪我らしい怪我はないし、熱もない。バイタルも問題なさそうだ。ただ、頭を打ってたら心配だけどね」
リズクがジュビとジャマールにそう言うと、横たわっていたサットヴァが小さなうめき声を上げ、意識を取り戻した。リズクたちの顔を見ると、見る見るうちに怯えて悲しげな表情になった。
思わずジュビが尋ねた。
「どこか痛いところがあるんですか。気分が悪いんですか?」
すると、そのサットヴァが少しだけ緊張を解いたように見えた。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。お水をいただけますか。お茶の入ったボトルをなくしてしまって」
ジュビが慌ててエア・ビークルの予備ウォーター・ボトルを持ってきて、キャップを開けて差し出した。そのサットヴァは、ごくごくと音を立てて水を飲んだ。ジュビたち3人はお互いの顔を見合わせて、安堵の微笑みを漏らした。
水を飲み終えるとサットヴァが言った。
「ありがとうございます。私のマレが休んでいる間に突然暴れだして、走り出してしまったんです。荷物がジュレ、私のマレに載せてあったので水も食糧も通信ボックスもすべてなくしてしまって」
ジュビが自己紹介した。
「はじめまして。僕はジュビ・メンピ。クロノスでタンパク質を作ってます。こっちがジャマール・シエラ、それからこっちがリズク・ナーディア。2人とも医者です」
サットヴァの女は、さらにリラックスしたように見えた。
「はじめまして。私はラーラ・ダーナです。私も医者をしています。どうしても欲しい薬草があって、気づいたらここまで来ていました。ジュレを見かけませんでしたか?」
ジュビがラーラのマレらしきマレが近くで息絶えていたことを伝えると、ラーラの美しい緑の目が立ちどころに涙で潤んだ。
「無理をさせてしまいました。遠くまで来て」
皆、黙ってラーラがジュレに思いを寄せて泣くのを見ていた。
ジュビが思い出したように言った。
「そうだ。ダーナ先生の荷物、僕、探してきますね」
するとラーラは、少し困ったようにまだ涙の乾かない目でジュビを見た。
「先生はやめてください。ラーラでお願いします」
ジュビも笑顔でラーラを見た。
「ああ、じゃあ、ラーラさん、ラーラ。あなたの荷物を探してきます」
そう言って、エア・ビークルを降りていった。
リズクは、もう一度ラーラに詳しく体の状態や気分を尋ねた。ジャマールは、静かに2人のやり取りを見守っていた。
すると、ラーラが言った。
「皆さんのこと、最初、密猟者だと思いました。ごめんなさい。そんなこと思ったなんて。親切にしてくださってるのに。でも私の妹のリディは、密猟者に捕まって。たぶんもう生きていないと思います」
そう言うと、ラーラは再び目を潤ませた。
リズクとジャマールは、前夜の自分たちの会話を思い出して複雑な気持ちになった。サットヴァ捕獲の証拠を探そうとしていた矢先に証人が見つかったことは、調査の進展という意味ではプラスだ。
しかし、リズクもジャマールも、叶わぬ望みと分かっていながら、ジャマールが遭遇したサットヴァ捕獲はたまたま、そのときだけ起こった例外的な事件であって欲しいと心のどこかで望んでいた。
それが否定されたのだ。誰も何も言わないまま、エア・ビークルの中を重い空気が漂った。
突然、エア・ビークルの扉が開いて、沈黙が破られた。
「ラーラ、あなたの荷物、見つかりましたよ。これだと思いますが」
ジュビは、しっかりとした緑色の布のリュックをラーラに見せた。
差し出されたリュックを見たラーラの目に輝きが戻った。
「そうです。私の荷物です」
そう言いながら、中身を確認した。
ラーラは、3センチほどの立方体を取り出すと、真ん中でパカッと開いた。ラーラが操作すると、空間に髪の毛のないサットヴァの3次元イメージが映し出された。
「ラーラ」
3次元イメージのサットヴァが低い声でラーラに呼びかけた。
「ああ、よかった。無事だったんだね。連絡もつかないし、どうなってしまったんだろうと思って、ナハたちに君を探しに行ってもらってるんだよ」
ラーラは3次元イメージのサットヴァに応えた。
「ディー、ごめんなさい。知らないうちに遠くまで来てしまって。それでジュレが、ジュレが、死んでしまって」
ラーラは涙声になった。
「こちらのバブルの方たちが助けてくださったの」
ディーと呼ばれたサットヴァは心配そうにリズクたちの顔を見た。
「そうですか。ありがとうございました」
ディーがそう言うと、また別のサットヴァの3次元イメージが空間に浮かび上がった。
「ラーラ、そこの位置は分かったから今向かってる。あと5分ほどで着く」
「ナハ、迷惑かけてごめん。ありがと」
2つ目の3次元イメージにラーラは言った。そしてジュビ、リズク、ジャマールの方に向き直った。
「本当にありがとうございました。皆さんがいらっしゃらなかったら、私、どうなっていたことか。ディーは同じ医師仲間なんですが、クシャーンティで病院を主催しています。ナハは私の従兄弟で、彼が迎えに来てくれます。ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です」
2人の3次元イメージはすでに消えていた。ラーラはシートから立ち上がった。しっかりした足取りにジュビたちは安心した。
「いえ、無事でよかったです。僕たちも嬉しいですよ」
そう言って、ジュビは右手を差し出した。
ラーラは、ジュビの右手を自分の右手でしっかりと握った。
「本当にありがとう」
ラーラは、別れ際に通信ボックスをジュビに手渡し、使い方を教えた。
「私になにかできることがあったらそれで私を呼んでください」
ジュビたちは、初めて見る流線型の白い小型の乗り物にラーラが乗り込むのを見守った。操縦席からナハが手を振った。隣りでラーラも笑顔で手を振った。
その乗り物は、浮き上がったと思ったら一瞬にして姿が見えなくなった。
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