論争
ジュビとリズクが高速エア・ビークルに戻ると、空にはかすかな陽の光の名残があるだけで、辺りはすでに暗闇に覆われていた。
ジャマールは、ありありと分かる安堵の表情で2人を迎えた。2人のことをよほど心配していたのだろう。ジュビは、冷静沈着なジャマールがサットヴァ人のことになると見せる激しい感情の動きに、またしても違和感を覚えた。
ジュビとリズクは、サットヴァの都市クシャーンティの空中散歩で見たもの、分かったことをジャマールに告げた。
クシャーンティの美しさ、都市計画の素晴らしさ、サットヴァ人の進んだ科学技術、食糧生産、死生観、そして目撃した葬儀のことについて、興奮を隠すことなく言葉を尽くして語った。
ジャマールは穏やかな表情のまま、頷きながら、ときに質問を挟みながら2人の話を聞いていた。
リズクは、アールシュが平和的共存を望んでいると別れ際に言ったことも話した。
そして、サットヴァ人と自分たちバブルの人類の間で過去になんらかの問題が起きたのではないかと思ったことも伝えた。問題の記録がないのは、ソフィアが意図的に
するとジャマールは、当惑した顔で黙り込んでしまった。何か考えあぐねていることは明らかだった。
ジュビとリズクも何を言ったらよいのか分からず、ジャマールをただ見ていた。ジャマールは、やはり何かサットヴァについて知っているのか。人類がその平和的生存のすべてを依存しているソフィアは、人類に都合の悪い真実を隠しているのか。
長い沈黙のあとで、ジャマールは意を決したようについに重い口を開いた。そしてこんなことを語った。
2300年代半ば、ハイバネーション・システムはやっと安定的に運営されるようになった2300年代前半、バブル・システムが完成し資源管理が徹底されるようになると、人口が増加に転じた。増える人口を限られた資源で養うためのシステムの構築が急務だった。
関与した医師を含む科学者グループは、そのためにハイバネーション・システムという最適解を見つけ、いくつもの困難を乗り越えそれを実現できたことに歓喜していた。同時に、自分たちが人類に負っていた重大な責任を果たせたと胸を撫で下ろした。
ついに、バブル・システムとともに、地球環境が回復するまで、あるいは別の惑星への移住が成功するまで、人類が平和を維持しながら安全に時間稼ぎをするシステムが完成したのだ。
しかし、彼らの喜びは長続きしなかった。2300年代後半、ハイバネーション・システムで眠るスリーパーたち、そしてリプロダクション・システムで育つ子供たちの中に、突然死や原因不明の細胞分裂不全による奇形、神経伝達異常が見られるようになったのだ。
全バブルの専門家が協力し、全力で原因を突き止め、治療法や予防法を見つけようとした。
臓器異常には幹細胞から培養された臓器が移植され、神経伝達異常には幹細胞自体が移植された。遺伝子異常や染色体異常が原因の場合には遺伝子治療が施された。
こうした治療の結果は一定でなく、治療の結果は予測不可能だった。科学者らは、望むような結果が得られないことに焦りと苛立ちを募らせていた。
そんなとき、第26バブル、アルテミスの医師が、ヒトと遺伝子が99パーセント以上共通しているパルヴスの死体から採取された遺伝子を用いた遺伝子組み換え治療を行った。
すると、ヒトの遺伝子を用いるよりも、遺伝子や染色体の異常を起因とする問題にずっと効果があることが分かった。引き続き、パルヴスの死体から採取された幹細胞を用いた臓器培養や治療が行われた。やはり安定した効果が認められた。
そして、科学者たちの間で論争が巻き起こった。ヒトの治療や病気の予防のために、パルヴスの遺伝子や幹細胞を使用すべきか否かという論争だった。多くの者は、長期的な安全性、進化への影響が未知数であることから反対を唱えた。
また、パルヴスの遺伝子や幹細胞を安定的に入手するということは、ヒトに極めて近い別の種、しかもヒトに匹敵するほどの高い知能を有する可能性のある種を搾取することを意味する。倫理的な抵抗感も大きかった。
しかし、第26バブルのアルテミスの医師たちは、命を救うこと、ハイバネーション・システムとリプロダクション・システムを機能させることの重要性を理由に、パルヴスの遺伝子や幹細胞を使用することの必要性を訴えた。
科学者としての個人的な功名心、そしてパルヴスに対する恐れと蔑みの絡み合った複雑な思いも見え隠れした。
2400年を迎えるまでに、論争の決着を待たずしてスリーパーや子供の突然死、奇形、神経伝達異常は鳴りを潜めた。
ヒトの幹細胞を用いた治療や遺伝子治療の技術が向上し、真価を発揮したと評価された。パルヴスの遺伝子や幹細胞の使用が、医療行為として正式に認められることはなかった。
2300年代後半にスリーパーや子供たちを襲った突然死やさまざまな異常と当時確立された治療法、予防法については、公式の記録が公開されている。
しかし、ソフィアは、パルヴスの遺伝子や幹細胞の使用を、希望をもたらすか絶望に行き着くか分からない危険なブラックボックスと見なした。そして、公式の記録では条件付きでのみ開示される特殊記録と分類し保存した。
この場合の「条件」は、ハイバネーション・システムとリプロダクション・システムにおいて、類似の問題が同等の規模で発生するというものだった。
ところが、アルテミスの医師たちは、密かにパルヴスの遺伝子や幹細胞の使用の研究を継続し、今も続いている。しかも、アルテミスの医師たちに共感するクロノスやほかのバブルの医師たちの支持を集めているのだ。
新種探索や個人的な研究遠征の際に、そうした医師たちは遭遇したパルヴスの死体や骨などを採集している。中には、生きたパルヴスを捕獲し、研究に用いている医師がいる。
ソフィアは、ことの真偽を確かめるために調査を何度か実施した。それにもかかわらず、そうした研究が行われている証拠も、生きたパルヴスの捕獲の証拠も見つかったことはない。
しかし、ジャマールは目撃したのだ。新種探索プロジェクトで遠征した際、別の遠征で来たクロノスの医師たちが生きたパルヴスを捕獲するところに遭遇したのだ。
ジャマールはその医師たちに抗議し、ソフィアに調査を依頼すると警告もした。その医師たちは、ジャマールを無視して捕獲を継続し、捕獲し終わると何も言わずに引き上げていった。
ジャマールは、ソフィアに調査を申請し調査が実施されたが、やはり証拠は見つからなかった。ジャマールは、ソフィアによる平和的生存のシステムになんらかの決定的なほころびが生じていると疑っているという。
ジュビとリズクは、あまりの衝撃に言葉を見つけられないでいた。バブルに生きている限り、常にバブル・システムの障害という危険と隣り合わせだ。
それでも、ソフィアを頂点とするAIネットワークによる管理のもと、あらゆる予防措置が施され、2人はクロノスで情況が許す範囲で最高に平和で満たされた生活を送っていた。
その平和な生活が、実は風の前のちりのように、とてもはかなく不確かなものでしかないかも知れないのだ。
ジュビはまた、ジャマールがパルヴス、いやサットヴァに対して激しい感情を示す理由がやっと分かった気がした。ジャマールにとっては、サットヴァ人はソフィアの平和を揺るがしかねない危険因子なのだ。
ジャマールはサットヴァに対して怒りを感じているのでも憎しみを感じているのでもなかった。彼は、平和な日々が終わるかも知れないことに対して、強い不安と恐れを感じていたのだ。
「このことを知っている人はほかにいるんですか?」
最初に言葉を発したのはリズクだった。
「ああ、私のファミリーで、君と同じハイバネーション・フィジシャンのジャス・リボアは知ってるよ。彼女も同じ探索遠征でパルヴス捕獲を目撃したんだ。ほかの2人の遠征メンバー、ネイト・ガザノヴァとメフリバン・シマも一緒に。私たち4人は皆医者でね、このことを非常に深刻に受け止めている。ソフィアがどうして把握していないのか。ソフィアは、パルヴス、つまりサットヴァの捕獲のような深刻なルール違反については、個人の認知データを強制的に覗くことができる。サットヴァとの紛争につながりかねないルール違反だからね。それでも、サットヴァ捕獲の証拠が出ない。何かがおかしいよ」
「誰なんですか、そのサットヴァを捕獲したって奴は?」
滅多に怒らないリズクが明らかに腹を立てていた。
「そのときにいたのは、医師のヴァレンティン・クラーセン、ココ・グェン、そしてテレッサ・ノイマンだ。しかし、サットヴァを利用した治療の研究を推進する勢力のトップは、ルーカス・ラヴィーンだ。2300年代末にアルテミスから移住してきた生殖医で・・・・・・」
リズクは、ジャマールが答え終わるのを待たずに強い口調で驚きと怒りを顕にした。
「クラーセン先生って、あのクラーセン先生ですか!? 34歳の若さでドクターズ・アライアンスのクロノス代表、つまりクロノスの医師のトップですよね。クラーセン先生がサットヴァを捕獲したんですか。クロノスで、サットヴァ研究を支持する医者が増えているんですか?」
リズクは人間として、そしてまた同じ医者として憤りを抑えられなかった。クラーセンたちがしていることは、人類全体に対する背信行為だ。
炎の輪の惨劇のあと、人類はバブル・システムを作り上げ、守り、多くの同胞である人間に休眠を強いながら、常に薄氷を踏む思いで生き延びている。そのシステムを損なうようなことをすることは許せない。
人類と酷似したサットヴァを自分たちのために搾取する医師たちの心の暗闇には、背筋が凍る思いがした。
ジャマールは、リズクの顔をじっと見つめたあと、ゆっくりと諭すように言った。
「リズク君、申しわけない。僕にも分からないんだ。ちょっと落ち着こうじゃないか。君の気持ちはよく分かる。私も捕獲に出くわしたときは、本当にショックだった。腹も立った。そして、非常に混乱したし、怖くなった。だからこそ、冷静に情況を把握しよう。もっとも、情況自体が分からないから、実は、ファミリーのジャス、遠征で一緒だったネイト、メフリバンと私は少しずつ独自に調査してるんだ。どうだろう。君も、そしてジュビ君も一緒にどうかな。このことを調べないか?」
黙っていたジュビが口を開いた。
「だから僕のサットヴァ調査遠征に協力してくれたんですか?」
ジャマールはジュビを見て頷いた。しばらくぶりに表情が緩んだ。
「ああ、そうだ。こんなに早くいろいろ明かすことになると思わなかったけどね。君は医師ではないから、ラヴィーンのグループには入っていないと思ったし、間違ったことが嫌いそうだった。新種探索遠征に一緒に行ったろ。君なら信用できると思ったんだ。医師のリズク君も医師として働き始めたばかりだし、ジュビ君のファミリーだから大丈夫だろうと思った」
ジュビが思い出したように言った。
「そう言えば、今年の新種探索遠征、僕、ラヴィーン、クラーセン、グェンと一緒だったんですよ。遠征先はミラブ湖から遠く離れた地域でサットヴァとの接触はありませんでしたけどね。医者じゃないからでしょうか。サットヴァ捕獲のお誘いもありませんでした。もしかしたら、サットヴァのことを調べていたから、僕がどの程度知っているか探りを入れたかったのかも知れません」
ジュビは自分で言ったにもかかわらず、言った内容が意味しうることにぞっとした。ラヴィーンたちは、何も知らずに能天気にサットヴァのことを調べていたジュビを危険視し、監視していたかも知れないのだ。
そして、ジャマールとサットヴァ調査遠征に来ている今このときも、その監視は続いているのかも知れない。
「ノイマン先生もいたんですね。なるほどって感じです。去年、サットヴァの文献をいろいろ探したんですよ。論文とか報告書とか。ノイマン先生の数年前の遠征日誌にサットヴァの毛髪や血液採集の記録があったんです。標本はどこにあるかと尋ねたら、答えが曖昧だったんです。クロノスの公的な標本として保存したわけじゃなかったんですね。自分たちのマル秘研究に使ったんだ」
ジュビが誰にというわけではなくそう言うと、リズクがジャマールに向かって言った。
「ジャマール、僕もやります。ぜひやらせて欲しい」
ジャマールの顔がほころぶのを見て、リズクは続けた。
「調べなきゃいけないことは大きく分けて2つあると思うんです。1つは、サットヴァの捕獲や研究のこと。捕獲の頻度、場所、人数、もちろん誰がやっているか、それから研究の方は、こちらも誰がしていて、どれほど進んでいるか、つまり内容です。もう一つはソフィアのことですが、ソフィアがどうしてサットヴァの捕獲や研究に気づいていないのか、あるいは気づいていて僕たちをあざむいているのか、もしそうならなぜなのか、ですね」
ジュビ、リズク、ジャマールの3人は、ともに協力して調査し、互いに情報交換することを約束した。そして、決して油断しないことも。
サットヴァ研究推進派の医師たちは、サットヴァを捕獲するという倫理的に非常に危ない、しかもサットヴァとの武力衝突さえ誘発しかねない道を進んでいる。それだけ利害関係が大きいということだ。邪魔する者に対して、容赦のない対処をすることも大いに考えられる。
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