パルヴスの民

 ジュビ・メンピは、ハイポサラマスの52階でリズクからのメッセージを受け取ると、安堵の笑みを浮かべた。

 地上78階建てのエンセファロンのすぐ北側に位置するのがハイポサラマスだ。エンセファロンを挟んでクリブと完全な対称をなす地上54階、地下32階の円筒形の白い建物だ。

 覚醒人口のためのサービスを管理・監督・実施する。ハイポサラマスのさらに北に同じ高さの白い建物が扇形に広がっている。ファームと呼ばれ、バブル内の生活で必要な食料や物資を生産している。

 ジュビは、クロノス全体の栄養計画に携わるニュートリション・プランナーだ。ダークスキンに青い瞳が涼やかで、黒髪はポニーテールにまとめられている。

 高い身体能力と認知能力のおかげで、子供の頃からバーチャル・スポーツ・アスリートとして、クロノスでもインターバブル・チャンピオンシップでも数々の勝利を収めてきた。栄養や健康は自然にアスリートであるジュビの大きな関心事となった。

 共通教育を終えたあと、ニュートリション・スクールで栄養学、遺伝子工学、化学などを学びながら、インターンとして栄養計画の実務を積んだ。インターンシップ終了後は、ファームのフード・ファクトリーでタンパク質の開発生産チームに所属している。

 遺伝子工学の最新知見を駆使して、可能な限り効率的にバブル内の全人口のタンパク質需要を賄う。生産されたタンパク質は、それを原材料としてほかの栄養素原材料とともにゼリーやタブレット、クラッシク・ミールへと加工される。

 ジュビはこのほか、医師や遺伝子エンジニア、ほかのニュートリション・プランナーたちとともに、バブル外での新種探索プロジェクトに参加している。

 栄養素原材料は遺伝子を組み換えたりゲノム編集したりした生物から抽出される。新種探索プロジェクトでは、より栄養価の高い抽出物をより安定的に生産するため、新しい原種を常に探している。

 科学的にも非常に興味深く、このプロジェクトは人気が高い。しかも、バブル外に出ることから、身体能力、知的能力、専門性、仕事との関連性、精神的安定性の面から志望者の厳しい選抜が行われる。ジュビは、合格の通知をもらった日のことをよく覚えている。

 ジュビがプロジェクトに参加する前は、参加者は医師や遺伝子エンジニアだけだった。2年前、ジュビもニュートリション・プランナーである自分が参加できるとは期待しないで応募した。

 しかし予想に反して、ハイポサラマスのAIシバはジュビをプロジェクト・メンバーに指名した。

 仕事中だったが、驚きと嬉しさのあまり、シンイー、アダム、メレディス、リズクに音声メッセージを送った。その日の夜は、ファミリーのみんながクラッシック・ミールのピザとスパークリング・ワインでジュビのために祝ってくれた。


 ジュビにとって、初めての新種探索遠征は、準備段階から興奮の連続だった。探索活動に関する集中講座に参加し、高速エア・ビークル、バブル外用アクション・スーツ、音波銃、緊急帰還のトレーニングを受けた。

 人類には有害な自然環境に適応進化したパルヴスの民と呼ばれるバブル外人と接触があった場合の対応も学んだ。バブル外環境適応時に発生する可能性のある障害を緩和する注射も打った。

 そしてついに約1年前、2423年3月、新種探索チームの一員としてバブル外の世界へと足を踏み出した。

 クロノス周辺の高地はそのほとんどが数百キロにわたって赤い土砂に覆われている。時折、数百メートルから1,500メートルほどの複数の紫の岩峰が重なるように地表から突き出している。

 バブルの中からも見えるこの赤と紫の世界は、バブルの外では違って見えた。

 一番の違いは、空の色だった。バブル内ではフィルタリング効果のおかげで、昼間の空は概ね青空が維持され、太陽はオレンジ色に輝いていた。しかし、実際には空にも太陽にも濁ったピンク色の靄がかかっているようだった。

 赤と紫の世界を高速エア・ビークルで南東へ進むと、やがて土砂は黄土色に変わり、ところどころに緑色の草が見えてきた。

 さらに進むと、ザワという棘の生えた多肉植物が点在する緑の高原地帯が姿を現した。小さな哺乳類が群れをなして移動していた。

 高原地帯の向こうでミラブ湖が赤い水を湛えていた。湖の水平線の向こうに、標高7,000メートルを超える山々を擁する東西約2,500キロにわたるラルーン山脈の西端の岩稜帯が見えた。

 歴史の授業や探索準備の集中講座で見たドローンで撮影された動画のとおりだった。

 ただ、すべてが圧倒的な鮮明さで全方向から押し寄せてくるようだった。赤い湖はあまりに美しく、ジュビはアクション・スーツを脱ぎ捨てて飛び込みたい衝動に駆られた。空気中の火山性有毒ガスと放射能の存在がジュビを思いとどまらせた。

 クロノスから約1,400キロ離れたこの美しいミラブ湖の西岸が、新種探索チームの目的地だった。このエリアでは、動植物の種の調査が始まったばかりだった。

 湖の東側の山岳地帯のどこかには、パルヴスの民が定住している。接触や不要な対立の懸念から、ソフィアはミラブ湖地域の調査を長い間禁じてきた。

 しかし、パルヴスたちが生存できるこの地域の自然環境は、常にクロノスの科学者たちの関心の的だった。遺伝子操作用の有用な新種を発見する期待も高かった。

 最初の探索遠征は3日間にわたった。日沈後の安全性への配慮から野営は行わず、探索隊はクロノスとミラブ湖を3回往復した。

 ジュビを含む4人の探索メンバーが、新種と思われる29種類の昆虫、種子植物、シダ植物を採取し、放射能除染を行った。探索チームは、機材や採取コンテナをエア・ビークルに積み終え、3度目の帰途に就こうとしていた。

「パルヴスだ!」

隊長のジャマール・シエラ医師は、ミラブ湖に沿って北東から移動してくる遥か彼方の隊列を指差した。

 ジュビは、そのほとんど点にしか見えない隊列をスコープ・モードで見た。黒い布で全身を覆い、黒いゴーグルを着けた7人のパルヴスたちがマレの背に乗っていた。

 ジュビは、初めて実物のパルヴスの民を見た。その興奮を伝えたくてジャマールに話しかけようとした。

 しかし、パルヴスたちを見るジャマールの目は怒りと憎しみ、そして深い悲しみで満ちているように見えた。いつもは温厚で、誰よりも冷静なジャマールだけに、ジュビは驚きを禁じえなかった。

 見てはならないものを見てしまったとの思いから、無言でジャマールのそばを離れた。パルヴスの民と初めて遭遇した興奮はすっかり冷めてしまっていた。

 パルヴスたちを乗せたマレの列は、肉眼でも何とか彼らだと分かる距離まで近づいて歩みを止めた。彼らは、呼吸エイドの助けなしに人類には有害な大気を吸っていた。

 パルブスたちの適応については、知識として知っていたジュビだったが、羨望、嫉妬、希望の混ざりあった気持ちが制御不能なほど勢いよく湧き上がるのを感じた。

 パルヴスたちの素振りからある程度の警戒感は伝わってきたが、決して好戦的でも敵対的でもなかった。少なくともジュビはそう感じた。ジャマールの反応はやはり不可解だった。

 探索隊が高速エア・ビークルに乗り込みミラブ湖をあとにするまで、パルヴスたちはずっと静かにその場にたたずんでいた。

 ジャマールはエア・ビークルに乗り込むと、無言のまま窓の外を眺めていた。なぜジャマールがあんなに激しい反応を見せたのか、ジュビは好奇心を抑え切れずに尋ねた。

「パルヴスの民って、襲ってきたことがあるんですか?」

 ジュビの突然の質問に、ジャマールは一瞬ジュビに鋭い視線を投げかけた。しかしすぐにいつもの柔和な表情に戻った。

「そういうことはないよ。記録でもパルヴスによる人間に対する襲撃はないね。バブルも固体壁があるわけじゃないから侵入しようと思えば侵入できる。道迷いらしきケースは年に1、2件あるかな。いずれにしても、侵入者を監視するポリスロイドに捕まってバブル外に排除されてる。大事に至ったことはない」

 そう言って、ジャマールはまた窓の外に目をやった。ジュビは、もっと尋ねたいことがあったが思いとどまった。

――パルヴスたちはどれほど人類に近いんですか?

ジュビはジャマールの横顔に向かって心の中で呟いた。


 最初の新種探索に参加したあと、ジュビはクロノスで入手可能なパルヴスの民についての報告書や研究をライブラリーで検索した。

 ライブラリーには、すべてのバブルで出版された文書が所蔵されており、どこからでもそのデータにアクセスできた。

 とは言うものの、パルヴスに関する情報は極めて限られていた。おそらく宇宙で最も人類に近い生物であろうパルヴスについて、なぜあまり研究されていないのか不思議だった。

 ライブラリーの文書によれば、電磁嵐の影響で信頼性が低いためか、人工衛星やドローンによる生体探知でパルヴスの生息地が正確に特定された記録はない。

 ただこれまで何度か死体が発見され、標本とするため採集された。そのうち何体かは解剖され、可能な限り標本として残された。死から時間の経った骨、朽ち果てた死体、干からびた死体の写真や解剖の断片的な動画も見つかった。

 毛髪は白っぽく、ヒトと比べて小柄なように見えた。ゲノムが解読されており、ヒトとパルヴスのゲノムは0.4パーセントも異ならないことが解明されていた。

 しかし、ゲノム解読の記録は、2382年に第16バブルのタラッサの医師が間違った情報を登録してしまって以来更新が止まっている。

 その後、ゲノム情報が修正された様子もなければ、パルヴスの死体が新たに標本用に採集された記録もない。標本の所在についてもどこにも記載がない。

 アトラースを含むいくつかのバブルでフィルタリング機能異常による事故が発生し、パルヴスへの関心が薄れたのか。事故が発生したバブルに保管されていたのか。

 ジュビはどうしても知りたくて、パルヴスに言及のある過去の研究論文や報告書の著者や、それらの文書に名前が記載されている科学者やエンジニアに連絡した。パルヴスについて何か資料があれば共有して欲しいと依頼した。

 連絡を取った相手は、ほとんどの場合協力的だった。自分が作成した報告書や関わった研究の記録を論文と一緒に送ってくれたが、ジュビがすでに目を通したものばかりだった。

 しかし、医師のテレッサ・ノイマンが送ってくれた6年前、2417年の新種探索時の日誌は、ライブラリーにはない個人の記録だった。

 5日間におよぶ新種探索の記録の中に、そのあとに実施されたノイマン医師を隊長とする生態系調査遠征の記録も含まれていた。相当の分量があったが、ジュビは仕事の合間に夢中で読んだ。

 その中でジュビが特に関心を持ったのは、生態系調査記録の中の次の記述だった。

「滑落事故に遭遇。男性パルヴス2名、女性パルヴス1名死亡。血液、皮膚、毛髪を採取」

 この採取された血液、皮膚、毛髪についての記録はノイマン医師の日誌のほかのどの部分にも書かれておらず、ライブラリーの文書でも一切触れられていない。しかも、遺体を標本用に収容しなかったことがジュビには意外だった。

 ジュビはテレッサ・ノイマン医師に早速尋ねたが、その回答はジュビにとっては期待はずれだった。ノイマン医師の回答はこうだった。

「目的は生態系の調査であり、パルヴスについて調べる予定も準備もなかった。生態系調査用の機材で死体から血液、皮膚、毛髪を採取し、クロノス生態系研究室で標本とした。その後、生態系研究室がバブル外環境研究室に統合され、すべての標本はバブル外環境研究室に移動された。ライブラリーに公式の記録がないはずがない」

 パルヴスの研究を進める格好の機会を逃しただけでなく、標本の管理があまりにずさんなことにジュビは呆れた。

 炎の輪の惨劇による大量絶滅を経て異なる進化を遂げたパルヴスは、いわば人類のもっとも近い親戚だ。研究することで、人類の存続に役立つ知見が得られるはずだ。ジュビは独自にパルヴスについて調べることを決意した。

 過去の研究や記録があまりに限られているため、ジュビはバブルの外でパルヴスの民を調査することにした。いったん新種探索プロジェクト・メンバーに選ばれたジュビにとって、バブル外に出かけることは驚くほど簡単だった。

 準備や支援が充実している公的なプロジェクトとしての遠征は人気が高いものの、プロジェクトの探索でなく、個人でバブル外に遠征したい者はほとんどいなかった。大気汚染と放射能の脅威は、それほど強くバブル内に住む人々の心に刻まれているのだろうか。

 バブル外遠征の条件は3つだった。第1に、遠征が科学的調査研究を目的としていること、第2に、参加者全員に新種探索プロジェクトなどの公的バブル外遠征の経験があること、第3に、安全性の観点から2人以上のチームで実施することだった。

 ハイポサラマスのAIシバに計画を申請するとすぐに許可が降り、必要な機材が確保された。

 単独遠征が許されていないため、1回目の探索に一緒に参加した遺伝子エンジニアのアリアナ・シェブチェンコを誘った。アリアナとはいくつものタンパク源種の遺伝子操作に一緒に取り組んだことがあったため、気心の知れた間柄だった。

 豪放なアリアナはジュビの誘いにひとつ返事返事で快諾してくれた

「いいじゃない。ちょうどそんなことがしたい気分」


 ジュビは昨年、最初の新種探索遠征後、引き続きジャマール・シエラ医師が率いる新種探索遠征隊に2度参加し、さらにアリアナと2人で3度のバブル外タンパク源種探索遠征を行った。

 ジャマールは、2度目以降の遠征では以前より打ち解けてジュビと会話を交わすようになった。ジャマールは、医師としては遺伝子治療、とくにゲノム編集治療の専門家である。

 ゲノム編集治療では、他者の遺伝子を導入することなく患者自らのゲノムを直接書き換える、またはヒト・ゲノムを書き換えて患者に導入する。

 ジャマールは、穏やかな声で自分の信条を明かした。

「ジュビ君、僕はね、治療の成功やヒトという種の存続は重要だと思う。でも、患者以外の遺伝子でもどうかと思うが、ヒト以外の種の遺伝子を治療のために使用するなんてことについては安全性の観点からも、本来の意味でのヒトという種の生存の観点からもどうかと思ってるんだ。古い考え方かも知れないけどね」

 ジュビとアリアナのタンパク原種探索についても、その熱心さに感心してか、探索エリアや持っていったほうがよい追加の機材などについて親切に助言してくれた。

 医師たちのスタディー・グループが開発したデバイス、ゲノム・アナライザーを貸してくれるとも申し出てくれた。

 ジュビが思い切ってパルヴスの民を調査したいと告げると、理解を示し、自分の目撃や遭遇の経験について話してさえくれた。

 一度目の新種探索のとき、ジャマールがパルヴスたちに激しい感情を向けるのを目の当たりにしたが、それは自分の思い違いだったのかとジュビは思った。

 しかし同時に、ジャマールのヒトという種についての信条を知ったあとでは、ヒトであってヒトでないパルヴスの民への本能的な防衛の現れかも知れないとも思った。

 新種探索遠征ではパルヴスたちとの遭遇らしい遭遇はなかった。何度か遠方から目撃したに過ぎなかった。ジュビは、隊長のジャマールが不要な危険を避けるために、パルヴスと出食わすことのないルートを選んでいるのだろうと思った。

 昨年のアリアナとの3度にわたる独自の探索遠征でも、パルヴスたちと近くで遭遇することはなかった。パルヴスたちもジュビたちを発見すると、遠巻きに移動しているように見受けられた。


 ジュビは、今年も新種探索プロジェクトに引き続き参加していた。

 隊長はジャマール・シエラからドクターズ・アライアンスのクロノス代表ヴァレンティン・クラーセンに変わった。

 アリアナ・シェブチェンコはメンバーから外れ、第26バブル、アルテミスから移住してきた遺伝子組み換え治療の第一人者、医師のルーカス・ラヴィーンと彼の教え子であるココ・グェンが新たに加わった。

 探索エリアもクロノスを挟んでミラブ湖とはほぼ逆方向にある北部のジャサル湿地帯へと変更になった。前年の遠征よりもさらにパルヴスの姿を見る機会は少なくなった。


 しかし、ジュビのパルヴスへの関心は薄れるどころか、ますます高まっていた。アリアナは遠征で持ち帰った昆虫類の研究が多忙になり、ジュビとの遠征には参加できなくなったと言ってきた。

 プロジェクトの新メンバーたちに頼んでみたが、誰も参加に同意してくれなかった。ファミリーのアダムやリズクに頼みたいところだが、2人ともバブル外遠征の計画および参加の資格である公的なバブル外遠征の経験がない。

 そこでジュビは、パルヴスにはあまり関心がないか、関心があっても否定的な感情をいだいていると疑われる前隊長のジャマールに打診してみた。

「新種探索プロジェクトから抜けたんだが、辞めてみるとバブル外遠征の知的刺激が懐かしくなってね」

 意外にもジャマールは、ラブ湖西岸への遠征に同行してくれることになった。しかも、「タンパク原種探索」という名目ではなく「パルヴス生態調査」というジュビが本来調査したい内容を冠したプロジェクトとして実施することに同意してくれたのだ。

 その日の夜、ジュビは居住区イオタ・コンプレックスに戻ると、リズクを捕まえアダムの部屋に押しかけて、夜中の2時までパルヴス生態調査プロジェクトについて熱心に語った。ジュビにとっては、心からやりたいことが人生で初めて見つかり、それが実現しつつあったのだ。

 そして、パルヴスの民は若いアダムとリズクの好奇心をも大いに掻き立てた。ハイバネーション・フィジシャンとなったばかりのリズクがその後まもなく新種探索プロジェクトに応募したことは、ジュビを大いに喜ばせた。

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