種の存続

 ソフィアの中枢機能を収容するエンセファロンは、第7バブル、クロノスのほぼ中心部に位置している。地上78階、地下32階の円筒形の白い構造物だ。その南側にクリブがある。クリブは、地上54階、地下32階のやはり円筒形の白い建物だ。

 ただし、クリブの1階当たりの面積はエンセファロンのそれの2倍以上だ。クリブには、ヒトの生殖を管理するリプロダクション・システムおよび休眠を管理するハイバネーション・システムの各部門が入っている。

 リプロダクション・システム・アドミニストレーターであるシンイー・アーリラは、クリブのウエスト・ウィングの41階にいた。

 受精から人工育児器を出るまでの子供たちの成長を監視・評価するリプロダクション第2部の司令センターだ。オリーブ色の肌、緑の瞳、明るいブラウンの髪が彼女に優雅な印象を与えている。

「昨年の第1クォーター受精の第3グループの成長評価が出ました。染色体と遺伝子のデータもそろってます。タリク、異常値が出てる子たちのこと、担当ドクターと一緒に確認します。まずは、システム側、それから子供たちの順で」


 シンイーは、優雅な印象を気持ちよく裏切るはきはきした調子で、ボスのタリク・ヤーマンに話しかけた。

 空間に3次元でイメージや文字を表示する3次元ディスプレイには、成長評価のステータスが完了になった子供たちのファイルが表示されている。

「そのとおり。お願いするよ。シンイーはしっかりプロセスを把握してるね。安心だ」

3次元ディスプレイを見ながら、タリクが穏やかな声で応えた。

 45歳のタリクは来年にリタイアを控え、後進こうしんの成長が嬉しくてたまらないと言った様子だ。ソフィアがリタイア時期を46歳と決定したことにタリクに不満はない。46歳を迎えるとタリクはスリーパーとなる。

 45歳を超えたスリーパーが病気を発症した場合、資源的制約から、苦痛を和らげる緩和ケアだけが施され延命のための積極的な治療は行われない。


 人類の存続のためには生殖と育児が必須であるにもかかわらず、かつて親の死亡や流産の割合が高かった。

 そのため、子供は自然受精または人工授精後、すべてクリブの地下階にあるユリカゴと呼ばれる人工育児器の中で、8ヶ月から16ヶ月の間養育されることとなった。

 人工育児システムの信頼性は、人類存続の安定性に直結する。タリクのような管理者たちは、優秀なアドミニストレーターを育成することを強く求められる。

 アラートとなることが決まった乳幼児は、人工育児器から出たあとは受精後6歳を迎える年の終わりまで、ハニーコームと呼ばれる保育園で過ごす。この名称は、子供用の個室の入り口が蜂の巣のように六角形をしていることに由来している。

 起きている間は人間の養育者やナニーロイドと一緒に遊んだり勉強したりする。寝ている間は、ソフィアから健全な心を養うために必要な安全や愛着の欲求を満たす認知データが脳に送られる。


 シンイーは、41階フロアの南西の端にあるモバイル・チューブに入った。「49階」と言うと、体が静かに上昇し、すぐに49階のフロアに到着した。41階は司令センターがウエスト・ウィング全体を1つの空間として占めているが、49階には個々の医師たちの研究室がある。

 モバイル・チューブからフロアに出て、木目調の廊下を進み、「テレッサ・ノイマン医師」と文字が浮かび上がった壁の前で立ち止まった。

 廊下に埋め込まれたセンサーがシンイーの生体認証を行うと、壁に縦長の楕円形の空間が現れた。研究室の奥のデスクでノイマン医師が手をひらひらさせてシンイーを手招きした。

 シンイーは研究室のデスクのところまで歩いていった。

「元気にしてる?」

テレッサは、そう尋ねて首を傾げた。

 青さを感じるほど白い肌に、そばかすがかろうじて健康的な雰囲気を添えている。髪を後ろでポニーテールにまとめているせいか、華奢きゃしゃな首がいっそう細く見える。

 シンイーがアドミニストレーターとして初めてテレッサに会ったとき、小柄で頼りないほどほっそりとしたその姿は、新人のシンイーに「私が頑張らなくちゃ」と思わせたほどだ。

「お陰様で元気にしてます。最近は通勤ウォーキングしてるんですよ。今朝はファミリーのジュビと通勤ウォークして来ました」

「ジュビも元気なのね。ジュビなら走ってでも来られそう」

 シンイーは、テレッサとジュビが知り合いだったとは意外だと思いながらも、それには触れずに尋ねた。

「テレッサ先生はいかがですか?」

「私も元気よ。みんなすくすく育ってるし、このところ難しいケースもなかったしね。ほら、去年の第2クォーターのライアン君、えーっと、ライアン・サイード君は大変だったけど。ピアノも新曲を完成させたのよ」

 折れてしまいそうなテレッサは、32歳にして生殖医療と小児医療の専門家としての仕事を精力的にこなすだけでなく、音楽家として演奏や作曲も行う才媛なのだ。シンイーは、テレッサの才能と努力と実力に心から敬服している。

 ただ時折、シンイーには、テレッサの判断に人としての温もりを感じられず、言いようのない違和感を感じることがある。それでも、次にテレッサと顔を合わせると、そんな違和感は霧が晴れるように消え去るのだ。

「じゃあ、今日の子たちのデータ見てみようか。確か2人だったわね」

そう言いながらテレッサは、3次元ディスプレイに、2423年第1クォーター第3グループの子供たちのデータフォルダを表示した。

 受精日、血液型、細胞数、身長、体重、臓器発達度、機能評価、染色体診断結果、遺伝子情報など375項目をリプロダクション・システムが常時モニターし、異常値を検知すると人工育児器ユリカゴを調整する。

 シンイーは、子供の個人データとシステム調整データの中で、23人の子供たちのうち、異常パターンが検知された2人の子供のファイルを開いた。

 3次元ディスプレイ内で「2423Q103075、ナオミ・シュヴェーヌマン」というファイルの表紙をめくると、目次ページが表示された。赤色に点滅している「異常パターン検知結果」という項目に触れると、「染色体」が赤く点滅表示された。

 さらに触れると、23対の染色体の図が表示された。19番目の常染色体が赤く点滅し「セントロメア損傷」と3次元注釈が付いている。「セントロメア損傷」に触れると、異常パターン検知の理由と可能な治療法が表示された。

「パターン異常になった原因と優先度の高い治療法について説明します」

リプロダクション・システムのAI、クリシュナがシンイーとテレッサのミーティングに音声参加した。

「セントロメア損傷検知後、人工育児器内でセントロメアを補修するナノ手術実施。補修されたセントロメアの89パーセントが死滅。ヒト遺伝子情報伝達異常のリスクを97パーセントと分析。対策としては、人工育児機内におけるクオリタンパク質を補助剤とするセントロメア再構成ナノ手術の実施。成功率を98パーセントと分析します」

 セントロメアは染色体のほぼ中央部に位置し、染色体を正常に2つに分裂させる。セントロメアに異常を来たすと、染色体の配分異常によりさまざまな病気が発生する。

 病気が発生しない場合でも、種としての人類の存続を危うくする望まれない進化を促すことがある。

「クオリタンパク質を使った再構成でいいんじゃない。このあと、ユリカゴで診察しましょ。シンイー、一緒に来てね」

 テレッサはそう言いながら、3次元ディスプレイ内でAIクリシュナの分析結果と勧告を承認した。

 シンイーはナオミ・シュヴェーヌマンの診断予定を入力し、別のファイルを引っ張り出した。表紙の「2423Q1033199、ミゲル・デバ」が赤色で表示されている。

 シンイーは咄嗟にテレッサを見た。テレッサは表情を変えることなくファイルを開いて「異常パターン検知結果」を表示した。「ユリカゴ」という項目だけが表示され赤字で点滅している。触れると「個体データ検討不要」とだけ記述がある。それ以上の説明はない。

「先生、この子は……」

シンイーは再びテレッサを見た。

「そう、判断すべき項目がない。亡くなったってことね」

テレッサは相変わらず表情を変えずにファイルを処理済みボックスに入れた。

「このケースはもうイシグロに行ってるのよね」

 イシグロとは医師のデレク・イシグロのことだ。グループ担当医師が治療不能と判断した場合はイシグロ医師が最終確認を行い、最小限の苦痛で死を迎えられるように終末医療を施す。

 また、ミゲル・デバのケースのような死亡の場合は、リプロダクション・システムAIのクリシュナの判断でイシグロが検死を行う。検死が行われれば、担当のアドミニストレーターと医師に結果が報告される。

「届いてます」

シンイーは、テレッサの表情が不変であればあるほど、心が掻き乱される気がした。同時に、テレッサのように冷静であるがゆえに常に適切な判断ができるのかも知れないと思った。

――でも適切ってなんなの?

 シンイーは、去年のテレッサの言うところの「大変だった」ライアン・サイードのケースを思い起こしていた。

 3回にわたりAIのクリシュナが治療継続を勧告したにもかかわらず、テレッサが勧告を却下し、治療を打ち切ったのだ。ライアン・サイードはシステムから「排出」された。

 心機能と腎機能が低下し、培養臓器の移植が必要であった。簡単とは言えないものの、同様のケースはほとんどの場合、移植すれば問題は解決し回復した。

 しかし、テレッサは治療を拒否したのだ。シンイーは、今に続く払拭できない釈然としない思いを今回は押し殺さず、ソフィアにテレッサの判断について評価を依頼することを決意した。

「じゃあ、ユリカゴに行きましょうか」

テレッサは無表情になったシンイーに言った。

 テレッサは、シンイーが目の前にいながらどこか遠くにいるような感覚に囚われることがある。シンイーとは分かり合えない何かがあるとは思うものの、それが何かを突き止めることに関心はなかった。

「はい」

少し間をおいて、シンイーはテレッサを見据えて応えた。


 ソフィアは、高過ぎる感受性を理由にシンイーを10歳から11歳の1年2ヶ月の間、スリーパーとして休眠状態に置いた。

 9歳のシンイーは共通教育の「論理的思考と表現」の授業でクラスメートと激しい議論を交わした。担当インストラクターのジャン・シェスターコヴァーは、シンイーの見事な議論の組み立てをクラスメートの前で称賛した。

 問題は、シンイーが授業後、授業で意見が対立した生徒たちと口を利かなくなったことだった。

 その後も授業で大きな意見の食い違いがある相手とは距離を置き、交流を避けるようになった。ソフィアは担当インストラクターたちに注意勧告を行い、カウンセラーが任命された。

 いつどこでもシンイーが話したいときに話せるように、生活アドバイザーAIラーマにできるだけシンイーと会話を交わすように命じた。

 担当インストラクターたちはシンイーと何度も面談し、カウンセラーもカウンセリング・セッションを重ねた。

 シンイーの知能は論理性、数量理解、空間把握、言語理解のいずれの分野でも群を抜いていた。

 しかし、外的刺激への過剰反応を避けるために、無意識に刺激を回避する行動を取るようになっていた。意見が対立するクラスメートもそうした刺激の源として回避行動の対象になっていたのだ。

 ソフィアはシンイーの貢献ポテンシャル・レベルを下げ、シンイーは休眠状態に置かれることになった。その間、意見や価値観の相違を脅威ではなく、知的資源と見なすように導く仮想経験認知データのダウンロード療法が施された。

 そして、スリーパーとなって14ヶ月後、療法が完了する前にソフィアは突然シンイーを覚醒プログラムに送り、再びアラートとした。シンイーの貢献ポテンシャル・レベルが急に引き上げられたのだ。

 シンイーがスリーパーになったこと、そして再びアラートとして覚醒したことは今ではシンイー本人、そしてアダムやメレディスを初めとする周りの人間も知っている。

 しかし、シンイーが休眠してから覚醒するまでの間、本人も周りの人間もシンイーがスリーパーになったことを認識していなかった。

 シンイーにはアダムたちの現実世界における経験認知データが送られ、そのデータに基づいてシンイーが同じ現実の中にいたら持ったであろう経験の認知データがアダムたちに送られていたからだ。

 シンイーが休眠状態にあったことは、本人や関係者の心理的安定を測定しつつ、シンイーのケースでは最長7ヶ月をかけて認知経験を調整しながら知らされた。


 シンイーとテレッサは、クリブの地下6階にあるナオミ・シュヴェーヌマンのいる人工育児器ユリカゴに向かった。話題はもっぱらテレッサのピアノの新曲のことだった。

「まだ正式発表じゃないけど、シンイーに演奏ファイル送るから聴いて。7月のライブも招待するね」

「わあ、楽しみです。ありがとうございます」

快活なシンイーに戻っていた。

 クリブの地下6階でモバイル・チューブから出ると、柔らかな光が通路を満たしていた。15メートルほど先の右側の壁に、通路の照明より明るい光で入り口が表示された。

 2人が接近すると入り口にシンイーとテレッサの名前が現れた。生体認証が行われ、入り口の表示が空間へと変わった。

 2人が中に入ると、薄暗い空間の中、目の前にブルーの光で縁取りされた通路が前方に伸びていた。通路の両側にはブルーの通路灯を鈍く反射する金属製の表面を持つ装置が並んでいる。

 1台の装置は高さが2メートルほどで、通路の進行方向に2メートル半、通路からの奥行きが1メートルほどの大きさだ。これが人工育児器ユリカゴであり、中で胎児や乳児が育てられている。

 入り口から11番目、右側のユリカゴが淡いブルーの光を放っている。ナオミ・シュヴェーヌマンのユリカゴだ。

 シンイーとテレッサはその前に立ち、シンイーが3次元ディスプレイを表示し操作した。鈍い光を放っていたユリカゴを包むシェルが下部に収納され、ナオミ・シュヴェーヌマンが浮かぶ培養槽が登場した。

 ナオミのへその緒にはチューブがつながれ、頭、首、胸、背中、肘、手首、膝、足首にモニター用のセンサーが装着されている。テレッサは3次元ディスプレイでデータを確認した。

「2423Q103075、ナオミ・シュヴェーヌマンちゃんの診察を始めます」

 頭上からブルーの光が照射され、テレッサの前に光る球体が表示された。テレッサがその中に両手を入れると、培養槽内にテレッサの手が現れた。テレッサは優しくナオミの体を触診した。テレッサが触れると、ナオミは四肢を動かした。

 テレッサは、培養槽の透明な壁越しに、表示を拡大したり縮小したりして、3次元ディスプレイ内のデータを確認しながら丁寧にナオミを診察する。

「ナオミちゃん、いい子ちゃんね」

 テレッサはそう言うと、ナオミの背中を優しく撫で、ブルーの光の球体から手を出した。しばらく3次元ディスプレイのデータを眺めて、いくつかの診断プロセスを走らせた。

「いいわね。クオリタンパク質によるセントロメア再構成で行きましょ」

 シンイーは、テレッサが手際よくナオミを診察し、オペを開始する様子を静かに眺めていた。

 目を閉じたままのナオミが培養槽の中で手足を動かしている姿を見て、シンイーは神聖な気持ちになった。宇宙に存在する物質が生み出す命は、いくら科学で仕組みが解明されようと、やはり厳かで神秘的だと。

 テレッサは再び3次元ディスプレイ内のデータを見て、オペ・プロセスを実行した。ユリカゴのシェルが下部から上昇し、培養槽全体が再び鈍い光を放つシェルで覆われた。

 3次元ディスプレイにはオペ・プロセスの進捗と培養槽内の様子が表示されている。培養槽内では術前準備としてナオミの全身スキャンが始まっていた。進捗は2パーセントと表示されている。

「オペ完了まであと17時間14分。完了後にデータを確認するね。問題がなくても集中監視を実施して、次の成長評価で確認しましょう」

テレッサはそう言うと、3次元ディスプレイを閉じた。


 ハイバネーション・フィジシャンのリズク・ナーディアは、ナオミ・シュヴェーヌマンの術前準備が進行するクリブの地下6階のさらに下、イースト・サイドの地下18階にいた。

 患者の診察を行っていたのだ。リズクの右側に浮かぶ3次元ディスプレイには「2401Q400382、アンナ・セペス」とAIサラスバティによる診断・投薬結果が表示されている。

 リズクは前夜から1時間毎にこのアンナというスリーパーのハイバネーション・バンクを訪れて様子を見ていた。外傷による急性肺炎を起こしかけていたが、苦しそうだった呼吸はすっかり穏やかになっていた。

「ラーラ、もう大丈夫だよ」

そう言うと、リズクはハイバネーション・バンクのシェルを閉じ、3次元ディスプレイの「アンナ・セペス」のデータを更新した。

「ジュビ、もう大丈夫だ」

ジュビに音声メッセージを送ると、リズクは安堵感に包まれ、強い睡魔に襲われた。

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