ソフィアの平和

 シジュウカラたちの鳴き声が聞こえる。仲間を呼ぶ歌なのか。危険を知らせる警告なのか。楽しげだから仲間を呼んでいるのだろう。

 心地よい、温かい薄暗闇うすくらやみから明るいグレーの靄の中へと体がふわりと浮き上がる。瞼の向こうで複数の白い光の小さな輪が揺らめく。そんな気がした。

「もう朝か」

 アダムが目を開けると、円形の窓から眩しい光が差していた。外気取り込みモードがオンになっている。寝ている間に、AIのジャナがモード変更したのだ。

 標高1,500メートルのクロノスでも、5月には正午までに気温が20度を超えるものの、エア・レギュレーターなしでもひやりと冷涼な空気が心地よい。

 屋外の空気をレギュレーターによる処理なしで吸えるのは、バブルが正常に機能していることを意味する。それを実感できることは、バブル・アドミニストレーターの1人として大きな安堵感、そして何ものにも変え難い充実感を感じる。

 彼は、また暖かい薄暗闇に潜り込みたい衝動を抑えるかのように寝返りを打った。そして、居住区イオタ・コンプレックスの地上12階にある4メートル四方のキュービクルの中を眺めた。


 第1クォーター受精のアダム・キミシマは25歳になっていた。ブロンズの肌と黒髪、黒い瞳を持っている。光の加減で緑色に輝く瞳は、一見物静かな話し方や振る舞いからは想像し難い、奥底に秘めた静かな情熱と強い意志を感じさせる。

 幼い頃に物質原子操作テクノロジーに大きな関心をいだくようになった。アダムが7歳のときだ。クロノスから約4,200キロ離れた第2バブルのアトラースでバブルに不具合が生じた。

 レーザーを照射しバブルを形成するバブル・システムには、十二重のフェール・セーフ・システム、そしてバックアップ・システムが搭載されている。もしなんらかの問題が生じても、バブル・システムが必ず正常に機能するように設計されている。

 こうしたシステムは、アダムのような専門家とAIガネーシャが常に監視・検証し、研究し、最新の科学的知見によってアップデートしている。

 それにもかかわらず、18年前、バブル形成時に原子操作機能が不具合を起こし、バブル内に大量の有毒な硫黄酸化物りゅうかさんかぶつが流入した。

 汚染は4日間にわたり、アトラースの覚醒人口であるアラートたちの6割の13万人以上、休眠人口であるスリーパーたちの3割に当たる16万人以上が呼吸不全で命を落とした。また、さらに多くの者が汚染によって健康を害し、治療は長期に及び、治療中に死亡する者もいた。

 こうした痛ましい悲劇はアトラースが最初ではなかったが、まだ7歳のアダムがリアルタイムに、生々しいイメージと音声を通じて知った初めてのバブル・システムの事故だった。

 精神衛生上の配慮によって、この事故の情報、特にイメージについては、子供たちのアクセスは大きく制限されていた。

 それでも漏れてくるイメージや情報に、アダムは心が凍るほどの戦慄せんちりつを覚えた。その凄惨せいさんさは、バブル・システムや物質原子操作テクノロジーについて真剣な関心をいだくのに充分すぎるほどの鮮烈な刺激となった。

 アダムは、15歳で多様な分野について広く学ぶ共通教育に興味を持てなくなった。そこで、プロフェッショナル・スクールの物質原子操作関連科目を自由に履修りしゅうすることが許された。AIソフィアがアダムの貢献ポテンシャルを高く評価したためだ。

 共通教育課程修了後は、プロフェッショナル・スクールのバブル・アドミニストレーター養成コースに所属し、21歳で修了した。物質原子操作レーザー・エンジニアとして働きながら、アトラースの悲劇が繰り返されることのないよう実践データに基づく研究を継続している。

 AIソフィアは、地球上で最上位のAIであり、バブル内の人類の安全と福祉を実現する意思決定を行う。しかし、ソフィアは人類を支配する冷酷なプログラムではない。

 ソフィアは人類にとって感情が果たす役割を評価し、意思決定に反映させる。さらに、個人の脳からアップロードされる認知データを参照している。人類の生存と安定的な幸福を同時に実現するために、その基盤となる価値体系を常に更新しているのだ。

 ただし、個人には認知データのアップロードを拒む自由もある。人を殺したいと思ったとしても、行動を起こさない限り問題にはならない。しかし、中には、そうした反社会的な、または否定的な感情や思考をソフィアに知られることに抵抗感を持つ者もいる。

 もっとも、多くの場合、人々は自らの認知データがソフィアによるさまざまな意思決定に反映されることをむしろ望んでいる。


 アダムのキュービクルの壁は、優しい色合いのパイン材だ。最後まで迷ったが、パイン材を選んでよかったとアダムは思った。ファクトリーでほのかな芳香まで見事に再現されている。目を閉じ、香りを肺いっぱいに吸い込んでから吐き出した。

 アダムが去年発表した研究が高く評価され、ボーナスとして得たのがキュービクルの模様替えのチャンスだった。20世紀の自然派装飾は人気が高い。テクノロジーの力を借りずとも、外気を吸い、遺伝子の損傷を心配することなく生活できた時代への強烈なノスタルジーだ。

 意を決して起き上がり、同じパイン材の床に足を下ろしてベッドに座った。床温度は、体温と同じ温度に調整されている。しかも、硬そうな見た目を裏切り、よほど注意しなければ気づかないほどだが、わずかに足が沈み込む柔軟性を持っている。

「おはよう、アダム。シジュウカラの声を楽しんでもらえましたか?」

ライフ・コンシェルジュAIのジャナが優しいハスキー・ボイスで言った。

 シジュウカラは、22世紀初頭の炎の輪の惨劇さんげきに続く大量絶滅期に地球上から姿を消した鳥だ。DNA情報再構築研究の成果が出て、実験室内でほぼ同じ種を復活させることに成功している。

「おはよう、ジャナ。うん、おかげで気持ちいい朝だよ。何時?」

「2424年5月15日水曜日、午前6時3分です。今日のターゲット最低気温は摂氏17度、ターゲット最高気温は摂氏25度、ターゲット湿度は50パーセントです」

「シャワーを浴びて、カフェテリアで朝飯あさめしを食うかな」

そう言って、アダムは、かかとが床にわずかに心地よく沈み込むのを感じながら立ち上がった。

 天井からライトブルーの光が全身に照射された。アダムは頭から爪先まですっきりと清浄化されるのを感じた。AIジャナのコマンドで、枕元のコンソールが開き、デンタルタブレットが1つ飛び出した。アダムはそれを口に放り込んだ。

 次にベッドの向かいの壁の見えない扉が開き、規則正しく設置された6本の銀色のハンガーが柔らかな太陽光ライトで照らされているのが見えた。そのうちの5本に異なる色のジャンプスーツが掛かっている。

 全裸になり、脱いだ白いジャンプスーツを6本目のハンガーに掛け、ネイビーのジャンプスーツを取り出して着た。しっとりと柔らかな肌触りに満たされた気持ちになった。

 靴を履いてベッドの左側の壁に向かうと、また見えない扉が開いた。緩やかな円弧を描く白い外廊下に出ると、扉は閉まり再び見えなくなった。

 扉があった場所には「アダム・キミシマ」というイタリック体の名前が浮かび上がった。人の接近を感知すると外廊下の白い壁には次々に住人の名前が表示され、しばらくすると消える。

 バブル内で見上げる5月の空は青く眩しい。アダムは12階下の中庭を見下ろした。まだ早い時間だというのに、もうプールで泳いでいる子供たちが3人いた。

 スーパーバイザーのアシュレー・ジュラがプールサイドのリクライニング・チェアに座って子供たちが水しぶきを上げるのを眺めていた。フィジカル・アジャストメントのクラスの一貫だ。


 アダムは、懐かしいと思った。アダムは、このクラスの履修期間をともにしたメレディス・オルブライトとジュビ・メンピ、シンイー・アーリラ、リズク・ナーディアのことを思い出していた。

 最後のフィジカル・アジャストメント・コースを終えてもう5年が経っていたが、さまざまな出来事が昨日のことのように鮮やかに思い出される。

 バブル内のアラートと呼ばれる覚醒人口は全員、4歳を迎える年から共通教育課程が終わる19歳の誕生日を迎える年まで、フィジカル・アジャストメント・コースを履修する必要がある。

 コースのさまざまなプログラムを通じて、人間のインストラクターとライフ・コンシェルジュAIがバブル環境の物理空間における個人の適応状態を監視する。必要に応じて、適応を補助するための専門的介入が行われる。

 時間を共有し、一緒に楽しみ、ときに悩み、喧嘩し、最後には協力し支え合うコースメートが事実上の家族でありファミリーと呼ばれる。

 生物学的な出生に基づく家族制度は存在しない。子供の名前は、リプロダクション・システムと呼ばれる生殖管理システムによって、それぞれの子供の遺伝情報に基づいて割り当てられる。

 ファミリーは人々の心の拠り所であり、心と知能の適切なバランスを育み維持する場である。

 16年間、毎年40週、同じ曜日の2時間半、一緒にフィジカル・アジャストメント・コースを履修する。ファミリーのキュービクルは隣り合った場所が確保され、学習時間以外の多くの時間も共有する。


 アダムは子供たちの笑い声を聞きながら、外廊下の中庭側にあるモバイル・チューブに入った。「1階」と言うと体がチューブの中を下降し1階で止まった。

 モバイル・チューブを出て、外廊下を挟んだカフェテリアの透明な壁に手をかざした。壁に微光びこうを放つ縦に長い楕円形の入り口が現れた。ゆったりとしたカフェテリアは地上階の西の一角を占めていた。

 足を踏み入れると、中庭に面した明るい席で手を振るメレディス・オルブライトの姿が見えた。鮮やかなオレンジ色のジャンプスーツに身を包んでいる。メレディスは食事を済ませたあとなのか、テーブルには銀色のドリンク・ボトルだけが置かれていた。

 メレディスは、白い肌、淡いブルーグリーンの大きな瞳を持ち、肩までの柔らかな赤い髪が顔を優しく包んでいる。快活で明るい声で笑う。

 アダムは彼女ほどたやすく人の警戒心を解いてしまう人間をほかに知らない。子供の頃から決して外向的とは言い難かったアダムも、メレディスの前では緊張せず、恐れることなくありのままの自分でいられた。


 メレディスは、共通教育過程を15歳で修了したギフティッドだった。ギフティッドとは、平均より遥かに抜きん出た能力を持つ子供たちを指す。

 彼女は、ソフィアのアドミニストレーター養成のプロフェッショナル・スクールに進んだ。4年のプログラムを2年半で終え、終身アカデミアという研究に専念したければ実務に携わることなく研究できる研究者のポジションを取得した。

 今は、ソフィア・アドミニストレーターとして働きながら、休眠中のスリーパーがソフィアからダウンロードされた知覚,学習,記憶,想像,思考,感情などの認知データをどのように感じ、捉え、経験しているかを研究している。

 2424年の地球では、有害な環境から人類が遺伝子情報を守りながら生活できる場所は、地球上に設けられた48のバブルの中だけである。地球人口の3,300万人全員が覚醒生活を送ることは、空間的にもそのほかの資源的にも不可能なのが現実である。

 そこで人類は、地球の資源が覚醒生活を支える能力の40パーセントを超える人口を休眠状態にするという選択をした。休眠中は、必要とする資源が覚醒中の半分以下になるのだ。

 48のバブルにおいて、人類の生存への貢献ポテンシャルが、個人ごとにAIソフィアによって常に評価される。

 評価結果に基づき、覚醒時期や覚醒期間が決定され、覚醒すべき個人はハイバネーション・システムと呼ばれる休眠システムで覚醒プロセスに送られる。つまり、アラートたちはすべて、ソフィアによって人類の命運を託された精鋭たちなのだ。

 生まれてから一度も覚醒しないまま一生休眠者であるスリーパーとして生き、死を迎える者もいる。

 しかし、休眠中もその個人のファミリーなどのアラートが経験する物理世界の認知データが脳にダウンロードされ、スリーパーはあたかも物理世界で生活を送っているかのような認知経験をしている。

 これによって、生まれた者すべてに最低限の生存権を保障している。このスリーパーの認知経験、すなわち高次の意識がメレディスの研究対象なのだ。


「おはよう、メル。ほかのみんなはもうでかけたの?」

アダムはメレディスに尋ねた。

「うん、そうなんだ。ジュビとシンイー、今朝は歩いていくって。でもリズクはハイバネーション・バンクでトラブルがあったか何かで、昨日の夜は帰ってこられなかったんだよ」

そう言うと、メレディスは少しだけ神妙な顔つきになった。メレディスはリズクのことを心配しているのだろうか。

「ちょっと待ってて。朝飯取ってくる」

アダムはカフェテリア中央に位置する円形のサービス・カウンターに行った。

「ハヌマーン、ゼリー頼むよ」

カウンター中心から伸びるしなやかなロボット・アームがゼリー・バッグをアダムの前に置いた。

ハヌマーンはAIで、居住者の外見、声、健康状態、飲食の嗜好を把握している。ハヌマーンは、個人の必要に応じて栄養素を配合し食事を提供する。

 ゼリーのほか、噛み砕いて摂取するタブレットやクラッシックという固形の食事を取ることもできる。クラッシックとは、パンや米、肉や野菜などを調理した料理を模した食事で、フォークやナイフ、箸で食べる。

 さまざまなフレーバーのドリンクも提供されている。朝は手軽に短時間で取れるゼリー食やタブレット食を選ぶ者が多い。

 アダムはゼリー・バッグを持って席に戻り、メレディスの斜め向かいに座った。ゼリー・バッグの口を開けながら言った。

「リズク、仕事大変なんだね」

「そうみたい」

そういうと、メレディスはテーブルに視線を落とした。


 リズク・ナーディアは、ハイバネーション・フィジシャンだ。休眠システム専属の医師で、休眠中のスリーパーの健康管理を行う医師だ。覚醒プロセスに送られたスリーパーが完全に覚醒するまでの健康管理も担当する。

 ハイバネーション・フィジシャンには、高いモラルと卓越した判断力が求められ、最も強い精神力を持つ者だけが適性を認められる。

 なぜならば、彼らは、ソフィアが生存不適格個体と判断したスリーパーを総合的に検査・診断する。そして、システムの判断が正しいと裏付けされた場合は、その個体を休眠システムから排出しなければならないのだ。

「排出」はその個体の死を意味する。ソフィアの判断は限りなく完全に近いと言われている。ソフィアとはギリシャ語で「英知」を意味する。その判断が正しいものであって欲しいという願いを込めたのだろう。

 それでも人間の医師がデータだけでなく、ハイバネーション・バンクにいるスリーパーの体を直接診察して、最終的にエラーがないことを確認するのだ。感情に流されず、プロトコルを厳格に守って最終確認を行う。非常に厳しく困難な責務だ。

 リズクは共通教育課程在籍中に、ハイバネーション・フィジシャンとしての高い適性を認められた。

 修了時に、ソフィアの勧めに従って、メディカル・スクールに進んで5年間、医学を修めトレーニングを受けた。ハイバネーション・フィジシャンとしての実務に就いて、やっと1年が過ぎたところだ。

 リズクは人の生死を最終的に判断するという重責を担っているにもかかわらず、機会さえあれば冗談を飛ばして人を笑わせる。いや、重責を担っているからこそ誰よりも楽しむこと、笑うことを大切にしているのかも知れない。

 アダムは、リズクのブロンズの肌、いつも微笑んでいるようなダークブラウンの瞳を思い浮かべた。

 根が真面目なアダムはリズクの冗談を理解できず、リズクにからかわれることも少なくない。アダムはそれを不愉快に感じることはなく、むしろリズクとの絆が確かめられるようなくすぐったい幸福感を感じる。

 もっとも、恋愛が生物学的性別に縛られないとは言え、アダムのリズクへの気持ちは恋愛感情ではなくファミリーとしての愛情だ。

 リズクに恋愛感情をいだいているのはメレディスだろう。アダムはそう思ってメレディスを見た。かつてメレディスと自分の間にあった特別で幸せな関係を思い出して、少しだけ心が傷んだ。


 物心ついたときから、アダムとメレディスはいつも一緒だった。ファミリーのリズク、シンイー、ジュビとも仲はよかったが、2人の仲のよさは誰もが認めるほど特別だった。

 優しくてしっかり者のメレディスが、少し引っ込み思案のアダムをいつも守っているようだった。アダムは、メレディスといるときだけは何もかも忘れて安心できた。メレディスは、ほかの誰も気づかない天才児の寂しさや悲しさを分かってくれるアダムが大好きだった。

 13歳を迎える頃までに、自然に2人はお互いがお互いにとって特別な存在だと思うようになった。ファミリーのほかのメンバーから離れて、2人だけで過ごすことが多くなった。

 どちらからともなく手をつなぎ、髪をなで、互いに触れ合った。抱きしめて相手の存在を確認して安心した。やがて、キスをして、お互いの体の知らないところを探り、求め合うようになった。感じる喜びは永遠に続くかのように思われた。2人は幸せだった。

 そして、2人が18歳のとき、メレディスの中に新しい命が宿った。2人は天にも昇る気持ちになった。2人で別の人間を世の中に生み出すことができるということにとても感動した。

 受精卵はプロトコルに従って、細胞分裂が正常に始まったことを確認したあと、人工育児器ユリカゴに移植された。

 生物学的な父母が子供に面会することはないが、2人の子供が無事に成長してユリカゴからハニーコームと呼ばれる保育園に移ったことは知らされた。アダムとメレディスは2人だけでこっそりとお祝いした。

 2人の幸せな生活に変化が訪れたのは、アダムがプロフェッショナル・スクールに入学したばかりの頃だった。

 アダムは突然、いだいていたメレディスへの愛情が色褪せて感じられるようになった。メレディスに触れたい、抱きしめたいという気持ちが急速に薄れていくのが分かった。

 アダムはどうしてよいか分からなかった。メレディスがアダムの気持ちや態度の変化に気づき、孤独な気持ちをかかえていると思うと苦しかった。

 アダムは精神科医のサト・アーメフに相談した。さまざまなテストのあとで、アーメフが下した診断は全般的な生殖能力の低下だった。

 バブルに住む男性の半数近くが一時的または慢性的に経験する障害だと告げられた。メレディスとの関係については、性的関係に依存することなく、親密な信頼関係を築くようにと助言された。

 アダムは診断結果をメレディスにも知らせた。大切に思っていること、いつもそばにいたいと思っていることには変わりがないことも伝えた。

 それ以来、2人は性的関係を持つことなく、ファミリーとしての絆を深めてきた。2人は以前の関係を思い出して切ない気持ちになることはあるものの、揺るぎない信頼関係で結ばれている。


 メレディスは、シルバーのボトルからドリンクをすすりながら中庭をぼんやり眺めていた。

 プールサイドでアシュレー・ジュラが子供たちに何か指示しているようだった。すぐに子供たちがプールから上がってきた。フィジカル・アジャストメントのクラスが終わったのだ。

「メル、最近仕事はどう?」

 メレディスは中庭からアダムに視線を移した。

「順調だよ。問題なし」

アダムの瞳を真っ直ぐに見つめながら答えた。リズクの心配を忘れたかのような明るい表情だ。

 しかしメレディスは、自分に言い聞かせるように言った。

「アラートでいられて、しかも自分が好きなことで仕事できるってやっぱりいいなって思ってる。スリーパーが物理世界をどんな風に経験してるかってデータ見てるとさ、ほんと、自分はラッキーだって感じる」

 メレディスはいつも穏やかな自信を湛えている。こんな風に心許なさを匂わせるのは珍しい。それに、自分の仕事の内容に立ち入って話すことも滅多にない。アダムは少し驚いて言った。

「メルがハッピーなら僕もハッピーさ」

そして、メレディスの表情をうかがった。

「人って、生まれたら、呼吸して、食べたり飲んだりして、人と関わって、実際に見て、聞いて、味わって、触れて、それで世界を実感して生きるようにできてる。それが自然なのかなって思う。少なくとも今のところはね。もしかしたら将来的には人も進化して変わるかも知れないけど。資源が限られているからって、社会で必要とされなければスリーパーって、何だかやり切れないな。だから、スリーパーに最高の認知経験してもらえるように頑張ってるわけなんだけどね。やり甲斐満点!」

 そう言うと、メレディスは、感傷を吹き飛ばすように飛び切りの笑顔をアダムに向けた。

「僕なんかはさ、休眠中に好きな研究ができるならスリーパーでもいいかもって思っちゃう。時々、クラッシック・ミールのラザニアの食経験データを送ってくれればね」

その場の空気に緊張感を感じ、アダムは少しおどけてそう言った。ところが、メレディスの表情がわずかに曇った。ちょっと悲しげにさえ見えた。

「アダムったら。研究ってクリエイティブの分野でしょ。つまり、新しいことを生み出す活動。そこはまだまだ研究中なんだよ。実験は始まってるけどね」

 アダムはメレディスの悲しそうな表情が気になった。いかに物理世界の認知データが精巧でも、未だにスリーパーが一貫性のあるかたちで何かを新しく創り出せないことは誰でも知っているからだ。メルに何かあったんだろうか、それともリズクのことと関係があるのか。アダムはリズクが仕事のトラブルで昨夜は帰れなかったことを思い出した。

「じゃあ、行くね」

そう言ってメレディスはドリンク・ボトルを持って立ち上がった。

「うん、じゃあまた夜な」

アダムは座ったまま小さく手を振った。メレディスは笑みを浮かべると、踵を返しカフェテリアを出ていった。

 アダムは中庭を見ながら、自分のファミリーであるメレディス、リズク、シンイー、ジュビに思いを馳せた。かすかではあるが、漠然とした不安がアダムの瞳に影を落とした。

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