第79話 マドル視点 知らなかった気持ち

 港町での生活は、思っていた以上にいいものだった。今まで見ることができなかったいろんな人間と交流することは案外面白いものだった。そこに住み、地に足をつけて生きていくとでも言うのか、一方的に物のやり取りをするだけではなく、いろんな人間の考えがあって、いろんなやりかたがあって、いろんなものがある。

 例えば私の雇い主はこと服飾に関して尊敬できるところもあれば、金勘定が呆れるくらいへたくそなところがあった。馬鹿みたいな言動ばかりしている船乗りが、商人としてシビアなところがあった。一人の人間への評価は、一目見ただけでは完成しないのだと知った。


 そして何より、主様とエスト様がいる。一日中大好きな人のお世話ができて、二人が毎日楽しんで笑ってくれる。それだけで私の日々は満たされていた。


 こんな日が長く続いていくのだろう。少なくともエスト様が死ぬまでは。そう思っていたある日、主様がエスト様を吸血鬼の花嫁にすると言いだした。ふんわりとした知識はあるけれどよくわからないその吸血鬼の花嫁と言うものになると、エスト様は私たちと同じだけの時間を生きていけるようだ。それは嬉しいことだった。だけど同時に恋人にもなると言う。

 それは私にはよくわからないことだった。恋愛と言うのは、生物が子孫を残す性行為の相手を決める感情と言うもののはずなのに、種族も違って異性でもない子供のできないエスト様と主様が恋人になると言うのは意味が分からない。だけど二人が今まで以上に親密な特別な関係になると言うことは理解した。それで二人が幸せならそれでいい。

 なのに何故か、少しだけ手持無沙汰になってしまうような、そんな気がした。今も時々主様はエスト様のお世話をしようとしてしまうから、きっと今以上にエスト様の世話をとられてしまうという予感がそう感じさせるのだろう。


 そう思っていたところ、目の前にイブが落ちてきた。褐色の肌と言い、ぴょこんと飛び出た耳と言い、昔飼っていた犬に似ている、初めて出会った頃のエスト様のような幼い少女。

 今までエスト様以外の人間に懐かれたことはなかったけれど、今では私もわかる。主様に血を吸われると言う要素さえなければ、人間に好かれるのはそう難しいことではない。言葉が通じないのはおかしなことを言いふらされることも、敵対される心配もない。これほどペットにするのに都合のいい人間はそうそういない。

 しかもその少女、イブは思った以上に人懐っこく、食事を与えれば従順で素直でとっても可愛いペットになってくれた。

 ネルさんも世話のし甲斐があったけれど、小さなイブは私が好きなだけ世話をしても嫌がるどころか喜んでいるので、最低限のしつけは必要だけど存分に甘やかして世話をして楽しもう。それで手持無沙汰な気持ちはなくなるだろう。そう思っていた。


「エスト様、あーん」

「あーん、んー、とっても甘くて美味しいです」

「よかったです」


 味見と称してスプーンを差し出すとエスト様はにこにこと口を開けて私のスプーンにくいついた。エスト様は隣から楽しそうに鍋の中を見つめている。


「もうすぐできますから、テーブルで待っていてくれてもいいですよ」

「うーん、もうちょっとなら見てます」


 そう言ってエスト様は初めて会った時から変わらない人懐っこい笑みを浮かべた。

 可愛い。とっても可愛い。頭を撫でたくなったので、ジャムを作っていない私を呼んで頭を撫でる。ついでにもちもちと頬を撫でる。


「んふふ、くすぐったいですよ」

「エスト様が可愛いのが悪いのですよ」

「えへへー?」


 エスト様は私にとって、主様の奴隷だった。ペットのように可愛らしい、主様にも寵愛されて可愛がってもいい存在になった。それから、家族になった。

 実のところ、私にはその違いはよく分かっていなかった。家族と言う概念は知識としてわかる。日常生活を共に営む、最も小さな共同体だ。家族だってペットだって奴隷だって、同じ共同体の一員に変わりはないはずだ。だからイブがいれば、私の気持ちはまぎれるはずだった。


 だけどそうではなかった。エスト様が私のお世話を断った瞬間、イブの存在なんて何の関係もなく、胸がぽっかり空いてしまうような喪失感を感じた。寒いようなこれを、寂しいと言うのだと私はこの時初めて知った。

 家族にはそれぞれ代わりなんてない。一人一人が特別な存在で、その人じゃなくてはいけないのだ。

 主様は私の主で、他の誰かではいけない。かけがえのない、唯一無二の存在。だけどそれと同じくらい、エスト様と一緒にいる楽しさも喜びも、エスト様じゃなきゃダメなのだ。それが家族と言うものだったのだ。


「おー、めっちゃいい焼き色ですねー。美味しそー」

「タイミングは見ていればわかりますよ」

「いい匂いですね。あ、二人もそろそろ待っているんじゃないですかね。私、声かけてきますね」


 そう言ってエスト様はわくわくした楽しそうな顔で駆け足で裏口へ向かった。向こうにも別の私がいるので、わざわざエスト様が行く必要はない。なのにエスト様は自分が楽しそうに行ってしまう。

 そう言うところが、可愛らしい。いつも一生懸命で、だから余計に私も甘やかしたくなるのだ。イブも可愛いけど、イブはより甘えん坊だ。ペットらしくてそれはそれでいいけれど。


 裏庭で一緒に遊んでいた私がエスト様を迎え、四人でテーブルの用意をする。ネルさんの食事の為につくった大きなテーブルセットがあり、それを使うと全員で食事をとることもできるけれど、室内ではつかいにくいくらい大きいので、天気がいい日に屋外でしかつかえない。

 普段の食事は室内でそこそこの高さのミニテーブルで座って食べているのだけど、今日はあまり天気がよくないので室内で食べるようだ。


 テーブルセットはネル様の椅子の高さもテーブルくらいの高さがあるけれど、それより高いテーブルに合わせてネル様以外の椅子はそのまま座れないほどの高さがある。エスト様とイブは一人で座れないくらいだ。最初にとりあえずネルさん用のテーブルをと、家ができる前にサイズを考えずにつくってしまった。家も少しずつ作って付け足しているので、一部屋一部屋はそれほど大きくない。本人は喜んでくれているけれど、私としては今後に生かしたい色々と考える品だ。


 それはさておき、では今日の三時のおやつはあちらとこちらに分かれてとるようだ。

 四人がかりだとすぐに終わったのでエスト様は戻ってくると、出来上がったパンケーキをのせた台車を運んでくれる。心配なのでそれにも一人付いて行きながら見守る。


 そうこうしているうちにライラ様が起きだしたので、一人の私がライラ様の身支度のお世話をしながらおやつの支度をする。できたばかりのジャムをたっぷりかけて、ライラ様のはひかえめにする。

 飲み物はライラ様は冷たいお茶にしておこう。昨日お酒を飲んだ口でエスト様の頬にキスをして嫌がられたのに結構なショックを受けていたようなので。エスト様は甘酸っぱいオレンジジュースと。


「あ、ライラ様、おはようございます!」

「ああ、おはよう。今日も元気だな」


 ネルさんとイブが食べて美味しいと喜んでいるのをにこにこと見てから戻ってきたエスト様がぴょこんと飛び上がってライラ様に近寄った。そんなエスト様をライラ様は抱っこして微笑んだ。

 今までと少し変わった二人の関係は、見ていて楽しい。最初は寂しい気がしていたけれど、自分の気持ちを理解してエスト様のお世話をこれからも変わらずできると言う言質もいただいて数日たった今では、私と二人の関係は変わらないことが実感できた。なので単純に今まで以上に仲の良い二人を微笑ましく見ていられる。


 そして二人は仲良く私が作ったパンケーキを食べてくれる。時々エスト様がちらちらと私の方を見ているけれど、話をふるわけでもない謎のタイミングだ。楽しんで食べてくれているのでとても嬉しい。


 それから食べ終わったところでエスト様が引っ越し計画を提案された。ライラ様も納得されているので、いずれは引っ越すことになるようだ。

 せっかくこの街にも、街の人にもなじんできたので残念な気もするけれど、最初から私たちの寿命までいられるとは思っていなかった。それが少し早まるだけだ。


 ほんの少し前、あの館を出るまではこんな日々は想像もしなかった。あの生活がずっと変わらずに続いていくのだと思っていた。それが急に変わった。あてどなく旅にでて、ようやく住む場所が決まり、生活が安定した。だけどそれもまた変えなければならない。

 この街を出るのは仕方ないとして、だけどいつまでも旅を続けなければならないのだろうか。エスト様は今度こそ永住できる場所を探すつもりみたいだけれど、いい場所があるのだろうか。見つけることができるのだろうか。

 

 少しだけ、これからどうなるのか不安な気がした。


「ライラ様、マドル先輩、ネルさんも一緒に来てくれるみたいです! これで新しい場所でもきっと楽しくなりますね」


 だけどそんな気持ちも、笑顔で戻ってきたエスト様の顔を見ると少し晴れた。

 きっと、いい場所が見つかって今よりもっと楽しい日々になるだろう。エスト様を見るとそう信じたくなる。私はどうなったとしてもいいように、旅の支度や情報収集を頑張ることにした。

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