第78話 そうだ、引っ越ししよう
「エスト、ついているぞ。まったく、お前はいつまでたっても、子供のようだな」
「あ、えへへ。ありがとうございます」
ライラ様はそう言って私の頬を指先でぬぐって笑った。どうやらおやつのパンケーキのソースが付いていたらしい。呆れたように言いながら、その声音も、その目も優しくて柔らかくて、怒られてるのに嬉しくなってしまう。でもいつまでもこんなんじゃ駄目だよね。反省はしなきゃ。
「以後、気を付けます」
「ふふ、なんだ。かしこまって。お前がもう小さな子供ではないことは十分知った。だから、子供のようなお前が可愛いと言っているんだぞ」
わかってるのか? と頬をつんとつつかれた。そ、それはつまり、今の私のままで可愛いってことだよね? ライラ様私のこと好きすぎじゃない? 私のこと全肯定してくれるじゃん。えー、好きー! とっくに好きだけど、もっと好きになっちゃう。
「え、えへへへ。ライラ様も、大人っぽくて素敵です」
「くっ、くくくく。大人っぽいか。ははは。そうか」
いつもスマートな大人のお姉さんって感じで素敵だと思ってるのは事実なのでそう返しただけなんだけど、何故かうけてしまった。
「エスト、お前は本当に可愛いな」
きょとんと首をかしげる私に、ライラ様はそう笑って身を寄せてきて、すっと私の頬にキスをした。ときめきと共に嬉しいと思ってから、すぐにすぐそこにマドル先輩がいることを意識して慌ててしまう。
「……?」
マドル先輩は特に思うところはないのか、私が振り向いて顔を見てもそれに対して不思議そうにしている。
「おい、この流れでどうしてマドルを見る。お前は本当に読めないやつだ」
「あ、そ、そういうわけでは。すみません。つい」
不満そうに言われてはっとしてライラ様を振り向くと、その鼻先にまたキスをされた。
「ふっ。冗談だ」
至近距離でライラ様は悪戯っぽく笑う。ときめきで死にそう。
ライラ様と恋人になって数日がたった。あの一晩を超えてからライラ様との距離感はぐっと近づいた。もともとめちゃくちゃ近かったのだけど。でも大きくなって前ほど頻繁に膝にのらなくなったのが、前と同じくらい膝に乗せられるようになったり、今みたいに何気なく毎日頬や額、鼻先にキスをしてくれるようになったりと明らかに恋人の扱いになっている。
正直、幸せすぎて溶けてしまいそうなくらいだ。ライラ様が恋人になるとこんない分かりやすく愛情表現してくれるとは思わなかった。それもライラ様自身がこう、自分で言うのもあれだけど、愛しくてたまらないみたいに優しい瞳で私を見てくれて撫でるようなキスをしてくれるからもう、毎日楽しい。
「あ、そうだ。ライラ様、マドル先輩も。今後のことについて、ご相談があるのですが」
「ん? どうした? 何か困ったことでもあったのか?」
「晩御飯のリクエストですか?」
「晩御飯ではないです」
おやつを食べ終わっていちゃいちゃもひと段落ついたので、考えていたことを話すことにした。マドル先輩は私のことを子ども扱いと言うか、もはや幼児だと思ってるのかな? いいけど。
「今すぐじゃないんですけど、いずれは引っ越しが必要になると思うんですよね」
「ん? お前はこの街にずいぶん馴染んでいるように思うが、何か嫌なことでもあったのか?」
「この街はいい街ですよ。でも、吸血鬼の花嫁になったと言うことは私も変わらないわけですし、長期間の人間のふりは無理ですよね。だったら引っ越しの計画を立てておいた方がいいんじゃないかと」
「ふむ。私は見た目を変えられますが、それではごまかせないでしょうか」
「私とマドル先輩の二人なら大丈夫だったと思います。ライラ様は元々あんまり人前にでないですし。だから私が死ぬまではここで暮らせると思ってました。でもそうじゃなくなったので」
「ふむ……しかし、もう大陸の端まできたんだぞ。いったいどこに行こうというんだ?」
「え? 普通に海の向こうの大陸とか? あとは人間国ばっかりきましたけど、海を経由してこの大陸の東側に行くのもいいですね。吸血鬼っていうのを話しても問題ない国なら永住しやすいですし。人間の生息圏ならもうちょっと人里離れてマドル先輩だけがお買い物とかで関わるとかなら、私たちだけじゃなくて村があって商売だけしてるみたいなふりをすれば細く長く関係を続けられると思いますし」
私が人間だったからこそ、普通に人間圏で生きるのが分かりやすいと思っていた。最初のいたところからだとそのまま山を越えるとライラ様の故郷に行ってしまうのは避けたかったから自然とこっちしか選択肢がなかったし。
でもここまで南下すれば、ライラ様の故郷と関係なくて普通に暮らせるところもあるだろう。少なくともライラ様もどんな国や種族が住んでるか全然知らないわけだし。
完全に社会から離れて自分たちだけで暮らすのは結構ハードルが高いと言うか、文化的な生活は難しいだろう。一切交流のない山奥に住むのはもう田舎暮らしじゃなくて修行僧だろう。そこまでしてライラ様が隠れるのは違うかなって思う。
本当はライラ様が吸血鬼ってことは隠さなくていいと思う。のびのび生きてほしい。でもあの襲ってきた人が生きてる間は仕方ない気もする。こっちは全然悪くないけど、権力者に目をつけられていいことなんてないし。ライラ様も別に気にしてないみたいだし、ライラ様の人生からしたら短い時間だしね。
だからあんまり早く変に思われるのは困るし、まあ十年以内には引っ越しを考えないといけないだろう。それまでに引っ越し先を探したり、資金を蓄えたり、色々計画が必要だと思う。前は急遽飛び出したからこそ、時間的余裕のある今は今からしっかりしたほうがいいだろう。
「ふむ……なるほど。色々と調べる必要がありそうですね」
どうでもいいけど、マドル先輩はいつも敬語なのに相槌がふむなのって、ライラ様の真似してるのかな。今までそんなに気にならなかったけど、こうして二人がそろってふむふむ言ってると、なんだか親子感あって可愛いなー。親子で癖が似てるってよくあるよね。
「そうだな……ふっ。お前は本当に、考えもつかないことばかり言うな」
「そうですかね。ライラ様が居心地よく過ごせるのが一番なので、どういうところがいいとか希望があったら言ってくださいね」
「お前はどうなんだ? どんなところで暮らしたい?」
「え? わたしですか。んー、そうですねぇ。都会よりは自然がある方がいいですかね。お買い物とかお店がまったくないのは不便ですけど、たまに買い出しに行くとか行商が来てくれるレベルでも十分ですし。あんまり森の中とかはちょっと狭い感じですし、広い場所がいいですかね」
前の家は全然街に行くことはなかったけど、それで不便もなかった。商品が運ばれていたから当たり前かもだけど、欲しいと思ってもお店で買うみたいに今日すぐに手に入ることはできなかった。だけどそれで困ることはなく、むしろのんびりしていてよかった。
街の中の方が、あれこれできるからこそ目移りすると言うか。旅の途中にあった大都会とかはせかせかしていて、ちょっと疲れる感じだったよね。自然の中でのんびり遊べる方がいいかな。この街はほどほどに栄えているけど、家の周りは自然が多いから悪くはない。漁と貿易が大産業としてあって生活に余裕のある割に船の上が仕事の人が多いからか、空気も比較的のんびりしてるしね。
それでも、私たちの正体はもちろん、ネルさんが堂々と街を歩くことはできない。のびのびと生活できる方がいいに決まっている。この間、ネルさんは玄関にまわることさえ気を使ってしなかった。ああいうのは悲しいもんね。
まったくの別の大陸ならライラ様が狙われることはないし、人間だけしかいなくても吸血鬼ですけどなにか? みたいなノリでいったら受け入れられないこともなかったりするのかな? あー、でも、見た目がほぼ同じライラ様ならともかく、ネルさんはぱっと見驚いちゃうから、ちょっと難しいとこあるかな? あ、それに言葉も通じないかもしれないのか。うーん。
とあれこれ考えて思いつくままライラ様に希望と懸念事項を話し合っていく。ライラ様はネルさんもついてくるのか、とその考えはなかったみたいな反応だったけど、マドル先輩は乗り気だった。
確かに考えたらお隣さんなんだから、一緒に引っ越そうっていう方がおかしいか。でも今のこの状況でネルさんを黙って置いていくのも違う気がするので、少なくとも誘って意思確認はしたいよね。どうしてもここに残るっていうなら仕方ないけど。一緒の方が楽しいだろうし。
「と言うことで、いずれ引っ越しを考えてるんですけど、ネルさんも一緒に来ませんか? まだ全然どこにとか予定はないので、ほんとに考え出したところなんですけど」
と言うわけで話にひと段落ついて、とりあえずこの国でできるだけ周辺の地理情報を手に入れることに決まったところで、ネルさんの意思確認をするために訪ねてみた。
裏庭でイブとおやつを食べ終わってイブに高い高いをして遊んでいたネルさんはしゃがんで私の話を聞いてくれてから、驚いたように目をまんまるにした。急な話だし驚くのも無理はない。
「わ、わでも……? でも、わで、大きいしよぉ。そんな、大変だろぉ?」
「まあ隠れてもらったりするかもしれませんし、ネルさんにとって楽な旅ではないかもしれませんけど。でもネルさんが一緒にいてくれたら、旅ももっと楽しくなると思うんです。嫌じゃなかったら、私たちと一緒に来てほしいです。イブも懐いてますし。無理強いはしませんので考えておいてほしいです」
「……っ、ち、違うんだぁ。わでじゃなくて、エストたちが大変で、なのに、うぅ」
急な話だし、どんな形になるかわからない。受け入れられるか見るためにはしばらくネルさんに隠れてもらったりとかあるかもしれない。ネルさんは元々引っ込み思案なところがあるし、気が引けるのもわかる。
でもいいところが見つかって堂々と暮らせるようになれば、きっと今よりネルさんも生きやすいはずだ。今のネルさんの生活は太陽が昇る前に狩りをしているけど、それは夜に元気なライラ様と違って、目立たないよう、人間に見つからないようにだ。それがなくなるだけでも、ネルさんにとって悪い話じゃないはずだ。
そう思って言葉を重ねると、ネルさんは大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼしだした。一つ目でとっても大きなネルさんの目から涙がこぼれるのは、大きすぎでまるで水ではなく宝石がこぼれるようだ。
「えっと、あの、す、すみません。でもまだ全然先の話なので」
急な話で戸惑うだろうとは思ったけど、泣かれる想定はしていなかったのでちょっと慌てていると、ネルさんは大きくぶんぶんと首をする。肩車されていて頭にくっついていたイブもぶんぶんふられてあわあわしている。
「ち、違うんだぁ。ごめんなぁ、泣いて。そんな、そんな風にいってくれるなんて、思わなくてぇ。わでぇ……わでも、一緒に行って、いいのかぁ?」
「もちろんです。一緒にいてくれたら嬉しいです。今より楽しく暮らせるように頑張りましょう」
「うん! わで、頑張るだぁ!」
イブに心配そうにのぞき込まれながら涙をぬぐったネルさんは、そう言って腕をふって頷いてくれた。
こうして、私たちの引っ越し計画はスタートした。ちなみに言葉が通じないマドル先輩のペットのイブは強制参加だ。まあ引っ越し中に地元が見つかったら帰れるかもだし、イブにも悪い話ではないので。
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