第47話



〇 満華side



私にとってお父さんからの本気のお説教というのは、数年ぶりの出来事だった。

物心ついたときからお父さんは一貫して基本的にいつも私たち姉妹に甘く、そのたびにお母さんを困らせていた。

その分お母さんが厳しく育ててくれたけど、お父さんの態度は私たちが大きくなった今でも変わらない。

そのお父さんが激怒している。

理由は、拓実を家事代行としてお父さん内緒で雇っていたこと。

お父さんは私たち姉妹に男が絡むと誰であれ過剰に反応してしまうが、お母さんはいい意味で普通のお母さんだった。

最初は話そうかどうか迷っていたけど流石に何も報告しないのはまずいと思ってお母さんには割と最初の方に話していた。

お母さんからは「うーん…どうせ忙しくてあんまり会えないし、話したらまた騒ぎ出すから言わなくてもいいんじゃない?」と言われていたから放置していたのだが。


結果的に蚊帳の外になっていたお父さんは大激怒。


もちろん、今回のことは私たちに非があることもわかっていた。

拓実の存在は話さずともせめて、家事代行を雇ったくらい一言言っておけばよかった。

今になって後悔してもあとの祭り。

大人しく説教されるつもりでいたのだが、私は隅に控えている拓実を横目で見て心を痛めていた。


関係ない拓実を巻き込んでしまったと。

これは私たち家族の問題で家事代行の業務を行っていた拓実に一切の非はない。

彼からしてみたら、同級生の父親が部屋に入ってくるなりいきなり殴りかかってきたのだから驚いたし、さぞかし怖かっただろう。


こうなるくらいならいっそのことちゃんと話しておけばよかった。

後悔の念と共に瞼に涙が溜まっていく。


こうなった以上、お父さんは絶対に許してくれない。

私がどれだけ誠心誠意謝ったとしてもきっと家事代行の契約を打ち切ってしまうだろう。

せっかく、せっかくここまで来たのに。

もう、今日で拓実がうちに来ることは最後になってしまう。

一緒に掃除したり、洗濯したり。

買い物に行ったり、料理を作ったり、作ってもらったり。二人で一緒に作ったり。

できた料理を囲んで一緒に食べ、感想を言い合ったり何気ない日常の会話することすらできなくなってしまう。


そんなの……いやよ……


まだ私は、何もできてない。

だらしなくて家事ができなかった私を変えてくれたこと。

学校とは真逆の姿に軽蔑することなくそのままの私に普通に接してくれたこと。

日々生きる何気ない日常がこんなに楽しいと思わせてくれたこと。


彼はわたしに沢山のものをくれたのに私は何も返せてない。

感謝すら伝えられてない。


それにこの気持ちだって……


わたしは何もかも言えてない。


ずっとずっと、この生活が続けばいいと思ってた。続けるつもりだった。

それが、こんな結果で幕を下ろしてしまうことになる。

嫌だった、夢なら冷めてほしいと思った。


「なにか私に言えないようなことしてたんじゃないだろうな?」


お父さんの口からその言葉が放たれた時、私はきっと現実だと受け入れられたんだと思う。

だって、夢でこんなに涙が頬を伝る感覚が鮮明だったことは一度もなかったから。

視覚が滲むことなんてなかったから。

こんなに怒りと苦しみが押し寄せることはなかったから。


親に言えないようなこと……?

私と彼が過ごした時間のこと?

それが、嫌らしくて汚くて、卑猥だったと?

お父さんは疑っているの?


いきなり殴りかかった相手に怒るでもなくやり返すでもなく。

ただ、

気にしないでください。僕も考えが足りなかったです。すみません。

と言って頭を下げるような誠実な人を?


そんな風なことをする人間だと思っているってこと?

バンッと机を叩き立ち上がってからのことはよく覚えていない。

ただ一つ確かだったのは、お父さんに向かって途轍もない剣幕で言い返したことだ。

こんなきつい言い方で言い返したのは生まれて初めてだった。

私とお父さんだけの舌戦がしばらく続いた。

きっと私はただただ醜かった。

涙を流し、汚い口調で言葉を吐き父親に嚙みつく。

きっと、ここが学校だったら全校生徒全員が私に軽蔑の眼差しを向けていただろう。こんなのただの醜い猫かぶりだ。

隣にいるお姉ちゃんはポカンと口を開けて私を見ていた。

拓実のことは見えなかったけど、きっとこんな私を軽蔑してるだろう。


だけど、私はそれでも許せなかった。

私にとってはかけがえのないもの。

これからもずっと心の奥底で大事に大事にしまっておきたいほど大切に思っていた時間を一番嫌な形で疑われた。


落ち度はこちらにあったかもしれない。

だけど、お父さんの言いぐさは許容できるものではなかった。


気が付くと私はお父さんに自分の思いの丈を残さずすべて叫んでいた。

お父さんの表情は今まで見たことないほど、ひどかった。

あぁ……きっとこれでおしまいだ。

お父さんはもっと怒って収拾がつかなくなる。


日をまたいでお説教かもしれない。

それでもいいや、どんなに私が否定されようがあの拓実と過ごした時間を疑われるものより苦しいものなんてないから。


お父さんは一人暮らしのことすら否定してきた。

そっか、連れ戻されるのか。

なら、もう学校以外で会うことすら難しくなっちゃうんだ。

きっと元の家に戻ったら再び送迎車で通学する日々が待っているだろう。

夏休み明けに一緒に下校する案だって考えていたのに。

それももう出来ないんだ。


下を向いてぎゅっとスカートの裾を掴んだその時だった。


「――待ってください」


今までずっと静観していた拓実がお父さんの言葉を遮った。

私は俯いた顔を上げ拓実を見つめると拓実の視線は真剣そのものでまっすぐお父さんに注がれていた。

そして、一度ゆっくり深呼吸をすると


が家事ができない?そんなわけないじゃないですか。確かに俺がきた当初は料理も掃除も洗濯もダメでしたよ。だけど、この半年でコイツはコイツなりに努力して俺の力がなくとも家事全般できるようになったんですよ。

……だから、見てもなくコイツの努力を否定するのはやめてください」


彼がこんなに強い声音で物事を言うのは初めてだった。

あんなに鋭い眼差しを向けるのは初めてだった。

私がこんなにも心が温かくなり、呼吸もままならず、涙で視界が見えなくなってしまうのも初めてだった。



「ふん、友人なら庇うことだってあるだろう。仮にその言葉が本当だったとしたら、キミはもう満華にとっては――要らない存在じゃないか?」


やめてちがう。

私にとって、彼は大切な人。

要らない存在なんかじゃない。



「――そ、そうですよ。俺なんかがいなくても満華はひとりでやっていけます。

満華にとって俺はもう既に要らない存在です。」


拓実は力なく笑った。

違う。違うのに。

「違う」って声に出して言いたかったが身体が言うことをきいてくれない。

どうしてよ。

このままじゃ、本当に拓実が辞めちゃう。

しかし、私の思いとは裏腹に会話は進んでいく。


「そうか。ならば、私の言いたいことはわかるんじゃないか?」


「当然です。


―――今日をもって双方合意のもと家事代行サービスを終了とさせていただきますがよろしいですか?」


ああ……やめて。


「ああ、もちろんだ」


そんなこと言わないでよ。


「承知いたしました。会社に戻り次第手続きを開始いたします。細部の契約情報などは後々書類にて送らせていただきます。」


「承知した。なにか記入事項があれば後日私が出向こう」


「ありがとうございます。そのように進めさせていただきます」


「頼んだ」


「最後に……満華」


「えっ……わ、たし?」


動かしたくてもどこも動かなくて。

声に出したくても、身体が言うことを聞いてくれない。

こんな状況で眺める事しかできなかった私の方に近づいて、今の彼にできる精一杯の笑みを浮かべてこう言った。


「最初とか色々大変で苦労したけど、俺にとっては

――今までで一番楽しい職場だった。お前のおかげだ。ありがとな」


「そ、そんな……待って」


「では、失礼いたします」


ようやく、私の身体はいうことを聞いてくれたのに、彼との距離はどんどん遠ざかってしまう。

追いかけなきゃ。

そう思って、重い一歩が踏み出せたのは、彼が玄関のドアを閉める瞬間と同じだった。

部屋に再び沈黙が訪れる。


あの後、またお説教が開始されたがその内容はほとんど覚えていなかった。

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