10.強引な男 ※アリシア視点
私――【アリシア・グラン・オールドウッド】は、婚約破棄をされ実家である公爵家にも見限られ、捨て地と呼ばれる領地を治めるブレイブ家へと送られた。
ブレイブ家の屋敷は、部屋を飾り立てる調度品などは一切なく、静かで時折使用人たちの声や足音が聞こえるのみだった。
少しだけ不思議だったのは、この家に来てから私の心の中を埋め尽くそうとしていたどす黒い感情は治まりを見せ始め、王都に住んでいたころとは打って変わって、悪夢にうなされることもなく安眠できた。
捨て地と呼ばれる遠い土地へ来たのだから、己の中でもう二度と公爵家へ戻ることもないと諦めの境地に至ってしまったのだろうか。
質素な部屋も、質素な服も、質素な食事も、何もかも全てを失ってしまった今の私には丁度良い。
五日間、何もせず部屋でじっとしていたので考える時間はたくさんあったのだが、これから何をしたらいいのかも何をすればいいのかも、何もかもがわからないまま虚無の時間を過ごしている。
そんな折、ドアがノックされた。
『アリシア様、おはようございます朝食です』
男性の声。
声の主は私と同じ年で領主を務める若き辺境伯【ラグナ・ヴェル・ブレイブ】のものである。
彼とは初めて会った時以外、同じ屋敷に住んでいるというのに一切顔を突き合わせることがなかった。
あの笑顔を向けられるのは少し辛く、何より戸惑いを隠せないので会いたくはない。
黙っているとドアをノックする音が強くなっていき、今にも壊れてしまいそうな軋みを上げていく。
『起きてる! 起きてるから入って! ドアが壊れる!』
久しぶりに大きな声を出すと、彼は「失礼しまーす」と何食わぬ顔で部屋へと入って来た。
それで私がドアが壊れたらどうするのか尋ねると、また屈託のない笑顔を向けながら「また直せばいいんですよ」と言うのだ。
意味がわからなかった。
ブレイブ家では、喧嘩で家があちこち壊れることは日常茶飯事であり、それで修理が上手くなったとも笑顔で豪語する。
本当に意味がわからなかった。
辟易していると、彼はワゴンからティーセットを取り出して黒い液体をカップに注ぎ始める。
『ミルクは入れますか? 砂糖はどうします?』
そう尋ねられるのだが、私には応えることができなかった。
コーヒーを飲んだことが無いからである。
『飲んだことないの、だからわからない』
素直に答えると、彼は少し申し訳なさそうにしながら言う。
『準備できなくて申し訳ない、何せ辺境の田舎領地なもので』
『……気にしてない』
ここは公爵家ではなくブレイブ家。
今の私の居場所は、この質素な部屋なのだから紅茶ではなくコーヒーで充分なのだ。
そう考えてぐっと飲むと、あまりの苦さに思わずせき込んでしまう。
『ゴホッゴホッ、に、苦い……』
『いきなりブラックを飲むからですよ』
代わりに渡されたコーヒーは、ミルクや砂糖を入れたもので、そっちは甘くて優しい味がした。
これなら飲めるし悪くない、いやむしろ体裁を気にして飲む紅茶よりも遥かに心が温まるような気がした。
『気になっていたのだけど』
少しだけ気が緩んだのか、私は彼に話しかけていた。
『何故、使用人がいるのにわざわざ貴方が朝食を持ってきたの?』
今までずっとそうだったし、この家に来てからも初めはそうだった。
だけど今日だけは違っていて、なんとなく聞いてしまった。
素朴な疑問を口にしたのは、ずっと誰とも喋らなかったから心のどこかで誰かと喋りたいという欲求があったのだろう。
『人手不足だからですよ。必要なら使用人も戦いますし、それでほとんどが戦で死んでしまいましたからね』
『……そう』
何でもない質問の答えは、思ったよりも重たいものだった。
噛み合わない、初めて会った時からそうだ。
不思議な男。
なんと言葉を返せばいいかわからなくなって黙っていると、ラグナは唐突に私の髪を持ち上げた。
『――アリシア様、貴方は立派だ』
『っ』
顔を背けようとすると顎を掴まれた、動かせない。
本当になんなのこの男!
睨む私の視線なんて意に介さず、ラグナは言葉を続ける。
『ここでは誇りを胸に戦った証で、勇気の象徴ですよ』
『ぅ……』
『もちろん俺にもありますしね』
そう言って前髪をかき上げた彼の額には、何針も縫われたような痛ましい裂傷の痕が残されていた。
よく見ると、服に隠れているが首筋にも傷跡の様なものが複数見える。
隣国との小競り合いや魔物の襲撃が多い捨て地と呼ばれる場所で、今まで生きてきた者の証のようだった。
『ウチでは傷を否定しない。むしろ誇りに思うんです』
騒動の後、「傷物だったって美しさは変わらない」と私に声をかけてきた公爵家目当ての格下貴族と似たようなセリフを吐くのだけど、彼の言葉は重みが違っていた。
睨むのをやめて、言葉をかみ砕く。
戦った証……か。
戦いと呼べるような代物だったのだろうか、あれは。
私はいったい何のために戦おうとしていたのだろうか。
『ハハハ、まあでも今回俺が朝食を運んだのは、こうしてあなたとお話しするためでもありますよ』
黙り込む私を前に、パッと手を離したラグナは少し距離を取りながら気まずそうに笑って話題を変える。
『荒くれ者ばかりの何もない領地ですけど、それでも自然は豊なので是非とも一緒に歩きませんか? 自然を前に、人の争いごとなんて、この地ではちっぽけなもんです』
『ちっぽけ……』
私が戦った理由は、貴族の矜持? 公爵家の責務?
いや、そんな大それたものではない。
ただ自分の居場所に他の女が居たことが許せなくて、それで過剰に反応して、もう戻れない場所まで来てしまって負けたに過ぎない。
ちっぽけだ、もっと他にやれることはあったはずなのに、私は本当にちっぽけだ。
どんどん気持ちが沈んでしまいそうになるが、婚約者であるラグナが気を使って誘ってくれているので答える。
『……行く』
人様の家で陰鬱に過ごしていても迷惑だろうし、少しくらい外の空気を吸うのも大切だ。
『この地を案内してもらえるかしら?』
『ええ、よろこんで』
それに相変らず失礼ではあるが、慣れないながらも必死に気を使ってくれるラグナに少しだけ興味が湧いた。
私がラグナのような屈託のない笑顔を殿下に向けられたのは、もうずっとずっと遠い記憶である。
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