第8話 テニス金メダリストの橘さん(1)

「えっとー、次は皮膚科かー。火傷やけどした患者さんの回復か…。それだとあとも残らないけど、いいのかしら? …患者さんが喜べばいっかー! じゃあ、こっちからー。…あれ? あれれ? サフラン⁉ サフラーン⁉」


 やられた…。またサフランが消えた。たぶんまたエスカレーターに乗ってるはず…。サフランには動く階段とか外が見えるエレベーターって魅力的なものらしい。

 サフランが言うには自分だけじゃなくて異世界の人間ならそれを誰でも面白がると言っていた。それに向こうではちゃんとした時計がなかったからか、あちらの人達は分単位の約束ごとが得意でないようだ。時間にルーズ…。


 動く階段に酔いしれるサフランを探しだすことは容易ではない。彼女は捜索サーチという魔法が使える。それで、ある程度親密な人間の場所を座標で知ることができるらしい。

 で、その魔法を使ってたまにあたしとかくれんぼして楽しんでいるの…。今、仕事中なんだけどね!


 サフランは異世界の孤児院でも子供の時、友達とのかくれんぼで自分だけ捜索サーチの魔法を使ってゲームを楽しんでいたそうだ。彼女はかくれんぼで絶対に負けなかったと自慢していた。完全にチート。


 それも孤児院では大人の許可なく魔法を使うことは禁止というルールがあった。友達からサフランの育ての親に密告されて、彼女は罰として毎回、尻叩きの刑にあっていたそうだ。

 試合に勝って勝負に負けてるわ…。

 あたしは早々とサフラン探しを諦めてベンチでうなだれていた。しばらくして見たことがない先生がサフランを連れてこちらに歩いて来た。


「お前が、星山か?」

「は、はい!」

 スキンヘッドで眉が太くて筋肉質。顔がヤクザみたいで怖い!

「総山サフランの世話係ならしっかりしろ」

 短くぴしゃりとした声で怒られた。その先生はきびすを返して帰って行った。


「サフランのせいで怒られた。皮膚科ももう遅刻だわ…。また怒られるー…」

「うふふふふー!」

 サフランは反省もしないで楽しそう。

 知り合いの職員から「サフランの世話係って簡単そうでいいわねー」とかよく言われたりするけど、全然そんなことない!

 

 

 翌日のこと。今日はサフランが手術室で仕事、あたしは患者さんの付き添いということになった。

 どうもVIPの患者さんということらしい。

 名前は山本夏実さん…。あ。あたし、どこの科の先生に頼まれたのかチェック忘れてた。しまった…。

 放送が流れて病院の受付付近であたしと山本夏実さん夫婦が合流した。


「こんにちは、あなたが案内してくれるのね」

 白い歯で笑う、ため目がチャーミングな、黒髪のポニーテール。テニス選手の橘夏実たちばななつみさんだ! 結婚して名字が違うんだ! 彼女はオリンピックの金メダリストなの! 確か今二十七歳。


「わ、わ、わー! あ、私、ご案内役の星山結月です! 今日はよろしくお願いします! 握手してください!」

 橘さんは笑顔で握手してくれた。嬉しい! それから、橘さんのお腹が目立って大きい。

「妊娠8ヶ月よ。でも、ここの産婦人科に来たんじゃないのよ。その様子だと聞かされてないようね…。歩きながら話しましょうか。どっち行くの?」


 上からの指令では橘さん夫婦にはサフランが魔法を使う手術をお見せしろとのこと。脳外科の手術室に行かないといけない。何でだろう?

「こちらです」

「私ね、右腕が癌になっちゃってね。前腕。ええっと病名は…」

 隣の背の高い旦那さんが言った。

「原発性悪性骨腫瘍」


 全然明るいから産婦人科って思ってた…。一体どういうこと…。

「少し前から腕に違和感がある、なんか痛いなあって思ってて病院に行ったら腕が癌だって。東京の病院でみてもらっていたんだけど、お医者さんから抗癌剤を使って赤ちゃんを流すか、腕を切断するかどちらか選べって言われちゃった。それも早く選択しろって。ふざけるなって思うわよ。で旦那に相談したらね、この人、『君はもう決まってるだろ』って」


 あたしは聞きながら五年前の事件を思い出す。橘さんは突然、オリンピックで手に入れた金メダルをオークションに出した。

 それもSNSで大々的に宣伝した。『みんな入札してね☆』と。

 当たり前ながらネットで大炎上。翌日、テレビで謝罪会見が行われることになった。

会見では橘さんだけでなく、隣に二十代前半の女性が並んで放送された。橘さんと同世代の女性だ。


 あたしは当時、リアルタイムで会見を見ていた。テレビの中の橘さんがマイクを持って口を開いた。

「この度は世間をお騒がせし、たいへん申し訳ありません。皆様の応援があってこそ得られたオリンピックの金メダルをオークションなどにかけたことをお詫び申します。…しかしながら、金メダルのオークションは取りやめません!」


 会見会場はざわついた。橘さんは壇上の隣に立つ女性を紹介した。

「彼女は岸本めぐみさん。中学生時代からの友人でテニス仲間です。そして彼女の息子さんが……」

 岸本めぐみさんという方は黙ってA4ほどに伸ばされた顔写真を机に立てた。一歳ぐらいの男の子の顔だった。


「息子さんは岸本まなぶ君。小児慢性呼吸器疾患で肺移植を受ける必要があります。募金をつのっていますが、金額が全く足りてません。金メダルは売ったお金を移植につかってもらいたいと思います。どうか余裕のある企業の方、オークションに参加してください! 合わせて募金もお願いします!」


 結局、合計二億円近いお金が集まった。岸本さん親子はアメリカへ渡り、まなぶ君は移植手術を受けたそうだ。

 橘さんはそういう人だった。だから…。


「腕なんかくれてやるわよ」

 すがすがしい笑顔をしている。旦那さんも。強い心の持ちように全く病人には見えない。あたしの瞳に涙が浮かんでくる。

「ちょっと、ちょっと泣かないでよーっ」


 橘さんは笑ってなぐさめてくれる。

「右腕がなくても、左手でラケットを握ればいいわ。義手でラケットを持ってもいい。この子に会いたいもの…。私はそう考えてた…」

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