二十五 君の名前

 春斗はやっと落ち着いた体調に息をつくと、その辺の木に凭れて眠っている少女に目を向けた。


 中々無防備だな、と苦笑する。これぐらいの年の子供ならこんなものだろうか、と考えて、それにしても無防備だなと首を振った。


 冷静に考えれば、人気のない森の中で見知らぬ男性と二人きりだ。春斗がもし少女の立場ならなりふり構わず逃走を試みるだろう。


 そうしないのは警戒心が薄いせいか、助けられたという信頼のせいか、あるいはそうする必要がないからか。


 二番目かな、と春斗は結論づけると立ち上がった。周囲に浮遊する隣人に目を向けて、内ポケットから水晶の花を取り出し渡してやる。


 ぼふん、と水蒸気が春斗の周囲に吹き出した。水を司るものに洗浄を、火と風を司るものに乾燥をお願いした結果である。

 吐瀉物で汚れた衣服がきれいになったことを確認して、寝ている少女の肩を揺する。


「おい、起きろ」

「うー……」


 少女はまだ眠いらしく、目をこするばかりで立ち上がろうとする気配はない。

 春斗は少女を背負って拠点候補まで運んでしまおうかと一瞬考えたが、すぐにその考えを却下した。


 よくよく思い返してみれば、先ほどのドッペルゲンガーとの戦闘で拠点候補から離れてしまっていたし、ついでに言えばあそこは拠点にするには血が流れすぎている。


 春斗一人ならまだしも、この幼い少女を滞在させるのは流石に問題があるだろう。


 そういう意味では、別にここが拠点でも問題はなさそうだ。先ほど派手に戦闘を行ったおかげで魔物は近寄ってこないし、薪をするぐらいだったら問題ない程度のスペースもある。


 問題があるとすれば、現在地が分からないことぐらいだろう。それは最悪木の上にでも登るか飛翔魔法を起動させればいいだけの話だから、さほど深刻な問題ではない。


 すうすうと規則正しい寝息の音を聞いて小さく笑みをこぼす。先の異常事態が嘘のようだ。


「むー……あっ、おはよう『みこ』さま!」

「おはよう」


 そうこう思案している内に目が覚めたらしい。少女は大きくのびをして、元気に目覚めの挨拶をした。


 疲れた様子はない。逃げ回っていた様子だったが、それによる心身への影響は今のところ軽微と見て問題はなさそうだった。


 とはいえ、何がどう傷になっているか分からない。村に運んだら一度きちんと医者か何かに見せた方がいいだろう。


「『みこ』さま、『みこ』さまは、もうげんき?」

「……『みこ』?」

「ちがうの?」

「違う、というか……」


 青い目がじいと春斗の灰色の目をのぞき込んでいる。なんとなく居心地が悪くなって、春斗はっつい目をそらした。少女は眉を寄せると、人差し指を顎に当てて、うんうんとうなり始めてしまう。


 みこ。神子。巫女。御子。御巫。皇子――


 その二音が当てられる文字は数多くあれど、ここで言うところの『みこ』とはすなわち神の使い、神の意志の代弁者といった性格の強い『みこ』のことだろう。


 ある意味では間違いではないのかもしれない。事実、春斗は旅人を守護する神であるポラールと関わりがある。あの神は適当な祭壇を作ればいつでも会えるとも言っていたから、そういう意味では間違ってはいない。


「俺は春斗だ」

「『みこ』さま?」

「は・る・と。『みこ』じゃない」

「わかった。『はると』さま!」


 その音はなぜだか酷く軽い響きを持っているように春斗に聞こえた。春斗は自分の名前の後にくっついている余計な敬称に眉を寄せて再度口を開く。


「『さま』も要らん」

「む。はると!」


 右手を挙げて元気よく復唱する様は年相応の子供らしい。春斗は小さく嘆息すると、少女の青い髪をぐしゃぐしゃと乱すように頭をなでた。


 そんな記憶が奥底にあった。重ねたのかもしれない。何とも滑稽な話だと嘲笑する。


「お前は?」


 少女はゆっくりと首をかしげて、困ったように眉尻を下げた。言葉が短すぎたかと、お前の名前は、と言い直す。少女は変わらず困惑の表情を浮かべていた。


 まさか、と思ったが確信はない。


(というか、こいつ『名前』って概念がないのか?)


 春斗が自分の名を口にした後、少女は再度『みこ』かと訊ねていた。春斗はその後強めに訂正したが、そもそもこの少女が『春斗』という音を名前として認識しているか怪しかった。


 それというのも、なぜかその音が軽く感じられたからだ。


「いいか、俺は『春斗』。俺の、俺自身を表す言葉だ」


 わざと声に魔力を含ませて発音してみる。少女は小さく首をかしげた後に、小さく『はると』と発音した。


 名前には大きな意味がある。個を識別するための音であると同時に、魔法の世界においては縁をたぐり、結ぶための大切な目印でもあるのだ。


 だから、名前を呼ぶときには大なり小なり魔力が含まれる。一般人であろうとそこに例外はない。特にこういった自然に含まれる魔力に敏感な魔法使いは、人の声に乗る微少な魔力を「重い」「軽い」と判断できる場合も多かった。


「春斗!」

「よし」


 散々うなった後、はっとした顔をして少女が春斗を指さして言う。自信満々な表情につい口元が緩んだ。確かな重みを孕んだ音は、確かに己の名だ。


「わたし、しらないよー」


 そして告げられた言葉に春斗は眉を寄せた。だろうな、という特に新鮮味のない感想と、なぜ、という当然の疑問が同時に湧き上がった。


 名前という概念がないのなら当然か、という納得と、名前がないなんてことがあり得るのか、という疑問。


 どうしたものかなと青い少女に目を向ければ、ただ首をかしげてじっとしていた。


(名前がない、ということは)


 それすなわち今まで誰とも縁を結ぶことができなかったことを示す。


 それが、どうしようもなく残酷なことに思えて、そして今ここでの縁も消えてしまうのかと思うと無性に寂しく思えてしまった。


「わたし――わたしね、わたしの名前をしりたいな!」


 そんな、無邪気な願い事を耳にしてしまっては退路は断たれたも同然だった。


 ――わたしね、貴方のお名前知りたいなあ!


 そんな、取るに足らない記憶がふとよみがえっては溶けていく。


「センスは期待しないでくれ」

「つけてくれるの?」

「お前が望むなら」


 えへへ、と彼女が笑う。春斗はその様子に諦めたように苦笑を浮かべると、一つの名前を発音した。


「ヴィヴェカ」


 「小さな女性」を意味する名だ。春斗らしい、シンプルでそのまんまな名付けと言える。


「……いつか、本当に名乗りたい名前があったらそいつに変えるといい」


 不思議そうな顔をしている少女に向かって、そんな言葉を落とす。


 いつか。


 いつか、そんな日がこの小さな子に訪れればいいと、そんな小さな良心が願っていた。

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