二十三 少女の影

 少女は目を見開いて、名前も知らない灰色の青年の背中を見つめていた。


 そこまで高くない背丈、決して優しいとは言えない口調、けれどどこまでも幼い自分を気遣う心は確かに少女も感じていた。


 あの黒い何かから逃げた先、泉の底へ引きずり込まれて必死に抜け出した直後にやってきたその青年は、何か痛いものを飲み込むような表情をしていた。


 おそらくは望んでいなかったのだろう、と少女は薄々気がついていた。それでも青年にたすけてとすがったのは生存本能のためか。


 ――木が揺れている。風が笑っている。草が嘲っている。


 あらゆる自然が青年の味方をしていた。


「ア――アアアァァァア!」

「うっせえなデカブツ!」


 過去一番の口の悪さを発露して青年が棍を振りかざす。ぐるりと渦巻いた魔力の中に孕んだ神の気配に、青い少女は息をのんだ。


(『みこ』さまだ!)


 隠れてろ、と青年に言われたから口にこそ出さなかったが、少女はその青い目に初めて好奇心と歓喜の色を浮かべて青年の背中を見る。


 小さいけれど、大きな背中だ。


 不定形だった黒い何かは、不思議とその恐ろしさを失っていた。ぐにゃぐにゃと姿を変えながら青年に襲いかかる姿は確かに恐ろしいが、それはあくまで暴力による恐怖であって、あの正体不明の恐ろしさはない。


 ドッペルゲンガーと名付けられた怪物は巨大な質量と不定形の身体を利用して、身体のそこかしこを伸ばしたりへこませたりしている。


 それに対して、青年は棍を軽く振りながら、一定の範囲から出ずに戦っていた。ドッペルゲンガーの攻撃はむなしく空を切り、まるで見当外れな方向へ着弾している。


「アァアア!」


 どこから出しているかは知らないが、ひときわ大きな咆吼と共にドッペルゲンガーの身体が膨らんだ。


「あ……」


 いけない、と少女は思った。危ない、と生存本能がけたたましく警報を発している。


 だというのに、青年は薄く笑みを浮かべているだけだった。


「『みこ』さま!」


 耐えきれず声を張り上げて手を伸ばす。その手は青年の外套をやっと掴んで、そして――


 はっ、と鼻で笑った声が聞こえた。




 名をつけてしまえばこちらのもの。春斗は確信を持って、声に魔力を乗せて名を与える。


 その名はドッペルゲンガー。死の先触れ、さまよい歩く二つ影。フィクションの題材としても好まれる、春斗のいた世界では比較的よく知られた超常現象の一つだろう。


 ドッペルゲンガーは扱われる作品によってその性質を変えるが、共通項も多い。特定の人物とそっくりな姿をしており、ドッペルゲンガーは周囲の人間と話さず、忽然と消えるといったところか。


 その有名な性質の一つに、自身のドッペルゲンガーを複数回見ると死ぬ、と言うものもある。元より心因性の幻覚としての側面も持つ現象であるが故の性質だろう。


 逃げても逃げても追いかけてくる。一定の距離を保って近づいてこない。黒一色で不定形という姿見――まるで死期のようだ、と思った。


「ダブル、復体……まあ、こっちの方が有名か。ドッペルゲンガー。よく知られた自己の幻影のなり損ないか」


 魔力乗せた言葉はまじないとなって黒い何かにまとわりつく。抵抗するように黒い何かが膨らんだが、のろいが成立してしまった後では遅い。


 ぱつん、と風船が破裂するような音と共に黒い何かの姿が変わる。


「は、趣味悪いな」


 純然たる悪態が口をついた。


 それは少女の姿をしていた。


 もちろんあの青い少女の姿ではない。

 名前をアリス・ホワード。春斗が元いた世界にいた少女であり、故人である。


(……どこまで)


 じわりと視界が赤く染まる。それが怒りに由来するものだと、どこか他人事な自分が冷静に眺めていた。


 アリスという少女は奥羽春斗という人間の中核に居座る少女である。春斗にとってその少女は安らぎであり、よき思い出であり、よりどころであり、そして永遠に癒えることのない傷だった。


 遠い昔の話。春斗は確かに強い魔法使いであったが、それは結局一人で、常に壊す側にいたからだった。


 初めて己の意思で受けた、護衛の依頼。ただ一人、親を失った少女を新しい住処へ送るだけの簡単な話。

 しかし結局春斗はアリスを人生の新たなスタート地点へ立たせることはできなかった。


 それがどうしようもないほどにトラウマで、しかし彼女と過ごした日々は確かに春斗にとって大切なものだった。


 忘れることができるはずもなく、かといって抱えながら前を向くには傷が深すぎた。


(一体、どこまで)


 棍を振りかざす。影に塗れた少女の顔は見えない。ただそれが『あの子』であることだけは確信していた。


 それが春斗にとって死という概念の具現であるというのなら、どんなに残酷で短絡的な機構だろう。春斗は派手に魔法を放とうと棍に魔力を集め始める。


「ひ……!」


 そこで、後ろに隠れさせた少女の存在を思い出した。


 春斗は慌てて集めた魔力を霧散させると、そのまま魔物よけの呪いとしての意味を持たせて拡散させた。これで少なくとも目の前にある異常以外はここに近寄らないはずである。


 少女の形をとったそれをにらんで、ふつふつと湧き上がる影の攻撃をよけてはいなし、申し訳程度の反撃をする。下手に前に出すぎては少女を危険にさらす可能性があった。


 幸いなことに、こちらへ伸ばした影に攻撃してもドッペルゲンガーにダメージは与えられているらしい。影の攻撃を叩き潰すたびに少女の姿にノイズが走っていた。


 とはいえ、そんなちまちま下作業をせずとも春斗が前進して、高出力の魔法か物理攻撃かを放った方が速いだろう。ただ、それはどうにも許容できないと思ったのだ。


「アァアア!」


 咆吼と共に影が一斉に湧き上がる。春斗はその様につい薄く笑みを浮かべてしまった。


(でかい的だな)


 細い触手状の影よりも、質量で押し潰さんとする今の影の方が攻撃を当てられる面積が広い。


「うつせみ、たまゆら」


 水の気配が強まる。


「あめつちのちぎりをここに」


 周囲の隣人たちがきゃらきゃらと笑った。

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