二十二 二つ影

 春斗が止まったことに不安を覚えたらしく、少女がそろりと春斗を見上げた。


「おいかけてくるの」

「ずっと、か?」

「そう。にげても、おいかけてくるの。にげないと、つかまるから、にげなきゃ……」


 青い少女はそんなことを言って、ぐいぐいと春斗の外套の裾を引っ張った。存外力が強い。春斗はやめろと少女の手から外套を引っ張ろうとしたが、少女はかたくなに離そうとしなかった。


「に、にげるの」

「もう見えてないだろ」

「にげるの!おいかけてくるから、にげないと!ねーえー!」

「わかった、わかったから……」


 黒い影は既に見えない。少女は赤黒い周囲におびえることはなかったが、あの黒い何かだけは執拗に恐れていた。


 春斗は少女をもう一度抱えて、ついでにその白い衣服が不自然なほどに汚れていないことに気がついた。


 少女の身なりは白いワンピースで、靴は履いていない。整備されていない場所を走って逃げていたと推測できるが、その足に傷は一つもついていないように見えた。


 状況が状況なら少女もそれなりに異常らしい。春斗は内心眉を寄せながら、それでも自分も人のことは言えないなとため息をついた。


「走るぞ」

「もりからでちゃだめだよ」


 少女は人差し指を立てて、小さな子供を注意するような口調で言った。


 森から出るな、というのは迷いの小道から出るな、ということだろう。少女の体躯では確かにこの小道は森に見える。そもそもここの道、ほぼ整備がされていないせいで軽い雑木林の体を成していた。


 しかしそれは合理的ではない、と春斗は口を開いた。


「逃げるんじゃないのか」

「にげるけど、でちゃだめ!」

「……はあ」


 盛大なため息をついて地面を蹴った。はやいはやい、とはしゃぐような声が聞こえて、さっきの怯えようはどこへ消えたのだろうなと苦笑した。しかしおびえっぱなしよりはこちらの方が幾分かましに違いない。


 青い少女は肩越しに春斗の後方をじっと見つめていた。何かあれば声を上げてくれることだろう、と警戒は怠らないものの少し安心する。少なくとも黒い何かが少しでも見えれば、少女も反応するはずだ。


 魔力を足と呼吸器官に通し、簡単な身体強化をはかる。元より持久力はある方だが、念を入れるのに越したことはない。


 走りながら周囲を警戒し続けて、春斗はふとおかしなことに気がついた。


 よくよく考えてみれば、少女の気配に気がついたときから少しおかしい。迷いの小道に一人残された後――といよりは、スティーブンと共に入った直後から魔物は出没していた。


 それこそ、結界の一つでも張らなければ腰を落ち着けることも叶わないほどに。春斗が襲ってくる魔物を片っ端から片付けて血の海になった拠点候補地点の近くはともかく、少女を追った道、泉の近く、そして今駆け抜けている場所、これらの場所で襲われないというのはいささか不自然だった。


 それこそあの『くろ』が関係しているのではないかと一瞬思ったが、それだけが理由だとも思えなかった。根拠はないが、そんな気がしていた。


「あ……くろ、くろがくるよ」


 思考していれば、不意に怯えをはらんだ声が耳をかすめた。慌てて振り返れば、確かに黒い何かが佇んでいる。


 いつの間に、と息をのんで加速した。黒い何かと十分に距離はあったはずだ。挙げ句、少女の足で逃げ続けられるほどののろまで、事実今まで問題なく距離を稼げていた。


 おかしい、と春斗は背中に嫌な汗が伝うのを感じて、少女を落とさないようにしっかりと抱え直す。


 一つ舌打ちを鳴らして、一心不乱に加速する。何をどう考えても妙だ、と厄介事に首を突っ込んでしまったことを自覚して表情を更に険しくした。


(何がおかしい?のろまの癖して突然やってくることか?それともこの子供か?――違う、気がするんだよな)


 ぐるぐると回る思考はまるで答えを出しそうにない。それに焦りを覚えたとき、不意にぐらりと視界が揺れた気がして速度が緩む。


 ――春斗ってさ、実はここの人間だったりしない?


 そんな言葉を、ふと思い出した。


「わきゃっ!?なに、なに?にげないの?」

「少し後ろに隠れてろ」


 急ブレーキをかけて振り返る。少女は地面に下ろしてそう声をかければ、青い目に不安の色を浮かべながらも、少女は一歩後ろへ下がった。にげないとなのに、と不満げな声が落ちたのを聞いて、かたくなだな、と苦笑した。


 黒い何かは一定の距離を保ったまま、近づこうとはしてこない。もやがかかっているようにも見えるし、不定形の何かのようにも見える。実体がないように見えて、確かに実体があるように見える。


 矛盾の塊だ、と春斗はかすかに苛立って、外套のポケットに手を突っ込んだ。


 掴んだのは人工の宝石だ。特に内包する歴史も魔力もない、ただきれいなだけの鉱石を取り出す。その色は深海のような青色だ。


「逃げても逃げても追いかけてくるくせして、決して俺たちには追いつかない。けど逃げなくてはならない、だったか」


 整理するように言葉にすれば、まあまあシンプルな話ではあった。


 後ろで少女がうんと頷いた。とんちのような言葉はしっかりと理解しているらしい。ちらりと様子を見れば、少女は不安そうな表情ではあったがしっかりと春斗の後ろに隠れていた。


(なるほど、いまいち理解し切れていなかったらしい。魔法が一般的に認知されているのなら、まあそういうことだってあるだろう)


 往々にして神秘世界ではよくある話だ。


 超常的な何か、人間ではどうにもならない自然現象を神格化する行為。あるいは病と妖魔、邪悪の化身と結びつける行為というのは一般的だろう。


 魔法なんてものが否定された現代でこそそんなことはないが、かつて神様やら精霊やらが当たり前にいた時代、古い神秘の時代ではそういう『形のないなにか』は当たり前に存在していたという。


 曰く、精霊のなり損ない。神のなり損ない。特定の指向性を持った魔力が寄せ集まっただけの、ある種の現象そのものと言っていい。


 それらはその魔力の性質によって外界に及ぼす影響を変える。影響がいいものか悪いものかはさておき、『特定の場所で特定の結果が得られる』とくれば、人はそこに名前をつけた。


 不確かなものに『名』を与えることで、自分たちの枠組みに組み込んだのだ。


 存在の定義と言い換えてもいい。とにかく、名前がないものは認識できない。その性質、姿見を特定することは叶わない。


 だからこそ、最も近しい性質を帯びた者になぞらえ『名』を与える。そうすることで、人間の領域に不確かな何かを引きずり込む。


 前の世界での『かつて』の時代では当たり前に行われていたことだ。


「――さまよい歩く無貌の怪物よ」


 声に魔力を乗せて発音する。ざわりと周囲の木々が騒ぎ始めた。


「現世の魔法使いがお前に名を与えよう」

「ひっ!」


 ぶわりと黒い何かが膨らんだ。少女が春斗の外套を握りしめて後ろにしっかりと隠れる。


 春斗はそんな黒い何かの様子を冷たい目で見ると、鼻で笑うように口を開いた。


「死の先触れ。無意識の現し身。あるいは罪悪の象徴――さまよい歩く二つ影」


 名がつく、ということは理解できると言うことだ。そこまで引きずり込めればこちらのもの。


「ダブル、復体……まあ、こっちの方が有名か」


 確信を持って口を開いた。悪あがきのように黒い何かが膨らんだが、春斗はただ薄く笑みを浮かべただけで、口以外は一つも動かさない。後ろで少女が強く外套を握って、隠れるように引っ張ったくらいだろう。


「ドッペルゲンガー。よく知られた自己の幻影のなり損ないか」


 ぱつん。


 空気を詰めすぎた風船が破裂するような音が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る